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途上のシャムロック  作者: 納戸
贄のこども
10/96

   5

 キリヤ・K・ステイレルは、目で見たもの、耳で聞いたものなど、自らの確信する明白な真実以外、疑わしいもの一切を信じない。それは、己の処世に都合がよかった。キリヤは軍属であり、軍では上下関係が絶対だった。下命への異議はまかりならないし、逆に部下の意見など聞く価値はない。私見を述べたければ地位をあげる。必要なのはそれだけだった。


 その場その場でどういう立ち位置、立ち回りを決定づけていくかという選択を迫られたとき、その自身の性格は大いに役立った。

 明らかだとわかる真実にはキリヤにとって全力を発揮するに値した。

 今回ならば、請け負っている任務。ありえないと片隅の愚かな自分が声をあげようと、起こりうる全ての事象に注意をはらい、懸念を取り除く。


(……この任は不明な点だらけだ)


 キリヤはレンワイス南の治安維持隊詰所、その最上階にある執務室で、資料を読み返しながら眉をひそめた。

 机上に並べられた数枚の資料が、キリヤの全てだ。僅かな情報しか記載されていないそれは、経験ではありえなかった。

 先日送られてきた書類を最初見たあと、すぐに駄目元で上官宛に資料の追加を要求したが、上は”仔細は送付書類に全て記載”の無機質で簡素な一文の返答のみだった。やはり、情報の補填許可は降りない。


(私程度ではこれ以上の追求はできないか)


 一年足らずでレンワイス南部治安維持隊長という職位まで駆け抜けたキリヤだったが、それには上等校卒業という資格と自身の貴族という身分が切っても切り離せなかった。

 実際に指揮の資質や経験が認められたわけではない。ただ、その少ない期間の従事でわかったこともある。

 組織とは濃縮した世界だ。きれいすぎてもいけないし、汚すぎてもいけない。どこにでも不正や不平等は横行している。それに関しての線引きは難しいが、キリヤは弱者を傷つけるものでなければ目を瞑った。同様に、下や世間に広まる真実にも可否があることを知った。


(しかし、それにしては妙だ)


 キリヤはランウェイルという国で背負う家名が決して小さくはないと理解している。ステイレルという名の重み。ともすれば、それは思う以上に意義深い。

 だから、その自分にこれだけの情報しか回ってこないのはいくらなんでもおかしい。

 もし上が隠しているとするならば、ステイレルが見過ごせない不穏ななにがしかの案件なのか、それとも、ステイレルなど瑣末なほどに重要かつ内密な任なのか。


「……ふう」


 いくら頭を回しても埒はあかなかった。今はこれと断定するだけの情報が不足しすぎている。ならば、自分にできるのはその命令に従うのみだが——。

 薮をつついて蛇を出すのもキリヤの望むところではなかったが、危ない橋をわたるのも、本分でない。

 両者を天秤にかける。少しだけ逡巡し、キリヤは決めた。出てこないのならば、それもいい。ただ、案山子のように立ったままというのは、愚者の所行だとキリヤは常々考えていた。

 嘆息して席を立つ。

 資料を一つに纏め、隅の金庫に入れ、金属の扉から小さな鍵を引き抜いて懐におさめたあと、身支度をととのえて出入り口から部屋を出た。


 日は昼ごろの高さだった。横に流れる雲は度々陽光を遮り、遠くのほうは青空が見えず、灰一色。ここ数週晴天が続いていたが、そろそろ雨か、雪でも降りそうだ。

 四階建ての治安維持隊詰所は無骨な石造りで、古めかしい。首都フェリアルミス、術都ハスクルに続いて、三番目に建造されたのがレンワイスであるから、この詰所もそれなりに歴史がある。

 岩肌には苔や植物の蔓が生しており、黒やら茶やら緑やらで湿っていて、有機的だった。街で暮らす人間は詰所には用事がないので、建物は雑多な生活感を伝えない。それらの要素が混ざり合って、異質さが際立っている。

 冬期独特の低く鋭い温度は身が引き締まる気持ちになるのでキリヤにとってわりと好ましかったが、今日の気温は昇る陽光に反する肌寒さだった。詰所の正面で、少しだけ首元のスカーフを上げた。呼吸にあわせ、吐息が白く揺れる。

 歩き出そうとしたキリヤは不意の背後の物音に振り向くと、年上の部下が屋外へ出たキリヤを追うように、重厚な入り口の扉から姿を現した。


「ステイレル様、ご注進が」

「なんだ」

「先日フェリアルミスで起きたランベル卿殺害の参考人がレンワイスに潜伏している、という情報が向こうの伝令から。いかが致しましょう」


 キリヤよりも経験を重ねている部下に、臆さず答える。


「東部の維持隊と連携を取ってスラム街をしらみつぶしに探せ。南部のスラムでの抜刀を許可する。必要なら、管理所から腕のいい業者を何人か手配しろ。それと、基礎校、学術院、貴族街など、位の高い人間が集まる施設の警備の強化。あとはその旨を管理塔議会に報告する書類を作成しておけ。判は夕刻に押す」

「費用の許可が降りるのですか?」

(ちっ……)


 黙って上官の命令に従え、と、キリヤの心はささくれ立つ。


「ランヴェル卿は名のある貴族だった。その参考人がレンワイスに入都したとあったなら、議会も見過ごさん。今回の件を下に流すのは潜伏を洗い出すためでもあるし、そもそも許可をとるのはこういう有事以外、大して使い道のない財源だ」

「はっ」


 部下は礼を払ったあと、きびすを返して扉の奥へ消えた。

 無駄に選民意識の高い人間は扱い辛い。たいした反論もできないならさっさと動けと、キリヤは年上の部下を見届けながら深いため息を吐いた。

 維持隊長に就任してすぐに、キリヤは頭を抱えた。役に立たない隊員でひしめいており、半月ほど、隊員の整理に時間を費やさなければならなかった。付け加え、前の隊長が左遷されたのが横領の不祥事であるというのも辟易する大きな理由だった。態度と虚栄心だけは大きく、練度は低い。大半が貴族同士で推薦しあって——いわゆる”縁者同士の談合”でなされた隊であるのは想像に難くなかった。真っ先に人事の首を飛ばしたのは、言うまでもない。


(……うちの隊に捕らえられるとも思えんがな)


 それゆえ、今の件は手に余ると大いに感じるキリヤだった。

 昨月首都フェリアルミスで貴族の殺傷事件が起きたと小耳に挟んだのは先々週だ。手口は巧妙で、集団の犯行らしく、強者ぞろいのフェリアルミス治安維持隊も手を焼いているという。自身を含めても上等校卒業以上の腕を持つ維持隊員が現在数名しかいないこのレンワイス維持隊で、キリヤはその犯人を捕縛できるとは到底考えられなかった。


 詰所の正門から敷地の外へは出ず、ぐるりと回る。裏口で、見回りから帰ってきた衛兵に声をかけられる。


「外へ?」

「夜までには戻る。言付けがあれば、帰ってから聞くと伝えろ」

「はっ」


 キリヤは若輩者の上司に対しては珍しい慇懃な衛兵の敬礼に軽く手をあげ、さらに建物の周囲を回り、敷地の隅にある小さな小屋の前まで歩を進めると、辺りから微かな異臭が漂ってくる。この場所以外では農耕場を除いて滅多に縁のない、動物の臭気。どうにもこのにおいが苦手で、キリヤは鼻を一度すん、と鳴らした。

 ランウェイルの円形都市内で人々が道を行き交う手段は、風土などの多少の差異はあるが主に三つ。徒歩か、列車か、馬車だ。


 油を動力に変えて走る車というものは存在していたが、恐ろしく費用が嵩み、しかもそれは上流層のなかでも限られた人間のみ、更に管理塔の上層部でしか用いられないので、手段としては省いてよいだろう。

 中流層の大通りは中央が大きく開けており、そこを馬車が走る。下流層と上流層に馬車道はない。下流は道の整備が行き届いていないからで、上流は列車移動が主要だからだ。


 市井の人間は徒歩か列車なのだが、国や円形都市が認める公共機関と一定以上の貴族は専用の馬車を持つことが許される。都市内の下流から中流層を走る列車は公的機関に所属していない平民の物という暗黙の共通認識はそこからきており、逆に馬車を私有する貴族は強い権力を持つ、という区別は、貴族間の俗識でもある。更に言うと、車を持つ貴族は国内でも両手の指があまるほどしか存在しない。


 キリヤは、治安維持隊専用の馬車で目的の場所まで行くつもりだった。厩舎の中から、藁を踏む馬の音。近くに留めてある六人ほどを運べそうな二頭立てのキャリッジに寄り、その騎手に目配せする。騎手はキリヤの合図に気づくと扉を開いて一礼したあと、


「どちらまで?」

「中央施療院まで」

「畏まりました」


 淡々としたやり取りのあとキリヤが乗り込むと、騎手は扉を閉め、斜向かい側の扉を開き馬車に乗る。騎手が鞭を鳴らすと、二頭の馬は走り出した。徐々に速度を増し、窓から見える景色が流れてゆく。



 二頭の馬がいななき、蹄鉄の音と共に車輪の回転が遅くなる。門に到着すると、馬車はゆっくりと停止した。


「ここで。帰りは列車を使う。待たなくていい」


 キリヤが告げると、騎手は了承し、キリヤを降ろす。そして馬車を大回りさせ、きた道を引き返していった。

 キリヤは馬車を見届け、門をくぐって入り口へ向かう。


 白がまぶしいこの建物は、レンワイス中央施療院だ。継ぎ目のない白亜は見るものに無機質な清潔感を覚えさせる。通りは壁面と同じ材質の板石が敷き詰められ、植えられた両脇の樹木は冬期ゆえ枯れているが情緒的に映る。葉の月、花の月にもなると、緑が生い茂り美しい。

 中央施療院は病気や怪我を治療する施設で、レンワイスの中では一番大きい。レンワイスや、付近の都市外で負傷した業者などもここに運ばれ、傷の手当を受ける。


 一斉蜂起ののち、国が総出で整備したのは円形都市の建設だったが、それと天秤に釣り合うくらいの重要さで平行して進められたのが、医療機関の充実だった。理由は単純で、国民が魔獣の被害に遭うのはあきらかだったからだ。百五十年あまりたった現在では、図術の発展に伴って医療技術も大きく進歩し、大けがをした具者でも致命傷がなければ一命を取り留められる。——度合いによって、もちろん費用は上下するのだが。


 キリヤは正面口にある、大きな扉を開いた。

 入り口すぐの待合室は呆れるほど広く、外装と同じ白の壁面で囲われ、長椅子がずらりと並べられている。その向かい側に受付があり、多くの医務員が立っている。医務員はそれぞれ来院者の症状を簡単に聞き、番号の書かれた札を配って、順番が来るまでの待機を促している。


 レンワイスに限らず、ランウェイル国ではこういった公共施設でも人によって対応の差が存在する。貴族は他よりも優先して治療を受けられるし、担当する医師も腕のいい者を斡旋される。明らかに貧民層と思われる人間は、金を払えるのかどうか治療よりも前に調べられ、金額に達していないときは施療院から追い出される。

 ちなみに業者への待遇は例外で、登録時に管理所から発行される業者登録証の所持が確認されれば、施療院では格安で治療を受けられる。それは数少ない業者への救済措置だったが、高価なエーテルシリンダーを日々消費する業者の支出には焼け石に水だった。


 待合室は昼時で人数が少なく、みな静かだった。業者と貴族を除けば、施療院の治療費は人々にとって高額だ。病気や怪我の苦痛と相まって、沈痛な面持ちをしている。


 キリヤはそれらを一瞥したあと、受付で短く名乗った。隊証を見せ、いくつかの書類を医務員に渡すと、慌てて奥へ引っ込んでいく。本来先客順のはずである応対をすっ飛ばされる。幾人かの靴音が受付の向こうから聞こえ、先程とは別の女性医務員にせわしく代わり、診察室への通路とは別へ通される。歩きがてら、医務員におずおずと訊ねられた。


「あの」

「なにか?」

「六大貴族の、キリヤ・K・ステイレル様ですよね? 違っていたらすみません」

「そう、ですが」

「よかった! こんなところでお会いできるなんて感激です!」


 返答に、女性の医務員はみるみる頬を紅潮させて喜ぶ。

 キリヤは女性に悟られない程度に、レンワイスに転属してから何度目になるかわからないため息を吐いた。

 確かに、キリヤはランウェイルでは指折り——六大貴族と呼ばれる家の出だ。ステイレル家は表立って新聞などに取り上げられるし、動向は国にも注目されている。だが、それは”ステイレル家”の話だ。キリヤ自身はまだなにごとも為していないと考えているし、客観視してもそう捉えて問題ないと思っているから、謂われない称賛を受けるのには抵抗があった。

 とは言うものの、貴族同士の付き合いからそういった面倒には慣れている。案内の女性はおそらく平民であろうから、お喋りしにきたのではない、などと冷たく突き放してもよかったのだが、いちいち考えるのすら手間を感じるキリヤだった。仕方なく、もう”それ用”の面を被る。


「未熟ですから、そう仰って頂けるだけで恐縮です」

「上等校を卒業したうえに、若くしてこの街の治安維持隊長なんですから、そんなご謙遜なさらずに! それに、凛としていて、とてもお美しくいらっしゃって……」


 うっとりと、どこか夢見心地な様子の女性に語りかけられ、キリヤはいえ、と小さく手を振る。笑顔を張り付けながら白い壁面を目でなぞり、密かに嵐が過ぎるのを待った。長い廊下を歩き、階段を上り、やがて長々と褒めちぎっていた女性が「話し込んでしまってすみません」と謝りながら扉の前で止まり、鍵を開ける。


 案内された先は、ひとけのない小部屋だった。ほこりっぽく、狭苦しい。ただ一つの窓から光が射し、窓縁の影を床に落としている。出入り口を除いて四方を囲む棚には薬が並べられているが、雑然としていて素人目にもきちんと整頓されていないことがうかがえる。つまり、普段施療院が使わない薬品が保管されている所だ。


「ええと、頂いた資料から確認いたしますと……これと、これ、それからこれですね」


 医務員からいくつかの小瓶を手渡される。

 使わないかもしれない。それに超したことはないが、念には念を入れる。キリヤが小瓶を眺め、言い訳じみた思案をしたのはつかの間だった。

 キリヤは受け取ると、それらを布で丁寧にくるみ、袋にいれる。ここに来た目的は終わった。もう戻らなくてはと、職員に礼を言う。


「助かりました。ありがとうございます」


 頭を下げると、女性は恐縮したように「そんな、とんでもない! お仕事ですし、ステイレル様のお役に立てて、光栄です!」と早口で言う。社交辞令のつもりだったが、女性はそう受け取らなかったらしい。しかしよくこの女性が、キリヤを貴族でステイレル家の人間であると判断できたと、疑問に思っていた。貴族同士ならともかく、平民がいちいち貴族の顔や名前を覚えているなど、そうないはずだ。ましてや、この女性は若い。貴族がらみのどろどろとした政治に関心を持つ年齢だとは思えなかった。


 キリヤがそう考えているうちに、待合室へ戻ってきていた。別れ際の女性の笑みから、きちんと演じきれたらしい。上の空だった態度を自戒し、一方で、今は重要な場面でもないので構わない、と己を許した。

 出口に向かうキリヤは、ふと待合室の雰囲気の変化に気づく。


 (……ひどいな)


 治療待機の人間が、来院前と入れ替わっている。昼を少し過ぎたこの時間の人間は、みなぼろ切れのような衣服を着て、頬も瘦せこけみすぼらしい身なりをしている。貧民層——スラムの人間だろう。

 それを横目で見てキリヤが心を痛めていると、階上から若い男が降りてくる。中肉中背で、ランウェイルで一般的な両刃の剣を鞘に納め、腰に下げている。胸と肩の皮鎧には傷が大小刻まれており、そこそこの戦歴が男にあるのがわかる。おそらく業者だろう。男は待ち合い室に座る貧民を見るやいなや、あからさまに悪態をついた。


「……ちっ。汚ぇなぁおい」


 キリヤはその声のするほうへ勢い良く振り向いた。男は視線を感じたのか、


「なにみてんだよ」


 キリヤに放った言葉ではなかった。男に反応したのは幾人かの貧民もであり、男はそのうちの一人に足を大きく鳴らしながら近づき、「文句があるなら黙ってねぇで言ってみろよ」言いながら男は眉間に皺を寄せ、貧民の胸ぐらをつかみあげた。

 来院者はおろか、医務員すら男を咎めようとはしない。各々仕事する振りをしながら、ちらちらと揉めているほうに顔をやったりしている。


 詰め寄られている貧民は、男に顔を合わせず項垂れている。その光景を見ていたキリヤはどうしてもたまらなくなって、男へ詰め寄り、短く叩き付けた。


「痴れ者が」

「あん?」


 男は表情をおさめて、突き飛ばすように貧民から腕を外す。キリヤの一声で、辺りは水を打ったように静まり返った。男はよろけた貧民に目もくれずキリヤに、


「おもしれぇねぇちゃんじゃねぇか。今の俺に言ったの?」


 不機嫌そうな表情をおさめ、軽薄そうに笑う。キリヤは不快感を露にして、


「貴様以外に誰がいる? 弱者を傷つけて優越感にでも浸っているのか。浅ましいな」

「は、優越感? 違うな!」


 発せられた侮蔑を男は鼻で笑い飛ばした。キリヤは真意をはかりかね、男に問う。


「どう違うというのだ」

「弱者だったらどんなにいいか! ……こいつらは自分らがぐうたらしているのを棚に上げて、進んで貧しくなっていることに気づかない馬鹿なやつらだ!」


 男は貧民達へ向くと腕を振り上げ指差し、嘲笑うように叫ぶ。


「なにを……」

「ここにいる人間の何人が都市に税を納めてると思う? 断言してもいいぜ。……半分にも満たねぇだろうよ。都合が悪けりゃスラムに引っ込んで逃げ、そのくせ都市の安全だけはちゃっかりかすめ取ってやがる。そんなヤツらに受ける権利なんざひとかけらもありゃしねぇ」


 キリヤはこの男の主張が的外れでないと知っていた。しかし、それはどんなときでも振り翳していいものでは断じてない。


「言分は理解した。しかし、場所と態度を弁えろ。今の貴様はいたずらに彼らを傷つけているだけだ」

「あ?」

「謝れ。彼らに」


 男が怒りを見せたのは一弾指の間で、どこか哀れむように「……阿呆らしい。せいぜい薄い正義感で満足してろや」と捨て台詞を吐き、キリヤに背を向けて出口へ歩き出す。キリヤは目を鋭く細め、男の背中になおも要求する。


「聞こえなかったのか。謝れと言っている」


 男はキリヤの言葉を無視し、歩みを止めなかった。見逃せずに男を追おうと一歩踏み出したとき、キリヤの追求を止める人影が現れる。


「おやめくだされ」


 嗄れた声を発したのは、老人の貧民だった。すすけて、皺だらけの頬。やせ細った体に、防寒用にはとても見えない埃と泥がついた外套を纏っている。

 キリヤは一瞬顔を伏せ、遮った貧民に投げかけた。


「あなたは、悔しくはないのか」

「彼のおっしゃったことは正しい」


 貧民の老人はしみじみと呟いた。キリヤは納得できず、


「だからといって、あの男の暴言は不当だ! あなたがたの誇りは……!」


 ぶつけられる激情に対し、老人は凪いだ水面のように静かだった。


「飢え、腹が減ったと泣く子どもが居て、どうして未来への支払いができましょうか。……我々とてわかっておるのです。でも、どうしようもない。未来が欲しくば、生きねばなりません」


 老人は細々と呟く。キリヤはなにも言えず、老人の言葉を待つ。


「貴方の標榜は尊い……しかし、誇りを守り、そして自分や誰かが傷つくのは、耐えられんのです」


 俯きがちに老人は続ける。


「我々はとうに失っておるのです。……誇りとは、強者にしか許されない権利ではないのでしょうか。そして我々は、弱者だ」


 老人の確信に満ちた疑問に、キリヤは目を見開いた。


「馬鹿な……誇りは、心の指針だ。あなた方には、それすらないとおっしゃるのか……!」

「弱者は、指針すら曲げてしまうのです。他でもない、強者の手によって」


 はからず口を突いて出たキリヤの問いつめに、しっとりとした声音で、しかし間髪入れずに老人は返した。そして拒絶するように、


「もうお行きなさい。我々に構わずに……」 


 認められずに反論しようとしたキリヤだったが、間もなく息を飲んだ。周囲の貧民達が、目で問うてくるのだ。諦念と猜疑心。お前になにがわかる、大言壮語を吐くだけの覚悟と力があるのか、と。

 そのいくつもの視線達に、キリヤは敗北した。

 瞼を閉じ、逃げるように、貧民達に背を向ける。


 だって、どうしようもない。貧民達は若年のころ、いくつかの小さな希望を抱いたのだ。そうでなければ、あんなかなしい目は持たない。この世に生を受けた瞬間からなにも期待していなかったなら、諦めすら知らないだろう。

 山より高く積み上げられた困難。迫害や貧困、死別。

 あらゆる辛苦を知っている貧民達の前で、キリヤはかけるべき言葉を持ち得なかった。それらのほとんどをキリヤ自身が経験していなかったからだった。


 ならば、いつ。救済の一言を持ち得るときは、いつなのだ。キリヤは自身に問いかけた。いつか全員を救うすべを得たなら? 同じ経験をしたなら?

 答えは、返ってはこなかった。

 それでも、引き返すわけにはいかない。例え今日や、まだ知らぬ明日の命題に明確な答えが見つけられなくとも。他の誰でもない、己自身が選んでしまったのだから。


(嫌いだ、この国は……そう思ってしまう私も。全部、全部嫌いだ)


 真っ暗で、怨念めいた想いがつのって、めちゃくちゃに打ちのめす。

 幼い頃のまぶしい誓いが幻のように霧散して、露にとけてしまいそうで、キリヤはそれがとても——とても、恐ろしかった。


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