99話 吸血鬼は自由に生きたい
――パチン。
一人きりの部屋で、男性は指を鳴らした。
いつもならそれだけで眷属がどこからともなく現れるのだが……
「……来ないな」
男性はベッドの上で首をかしげる。
今日は吸血鬼らしく眷属の腕でも噛んで眠ろうかと思ったのだけれど(昔から口寂しい時たまにやっていたことだ)、その眷属が呼び出しに応じないのだ。
ここで普通の者は『いや、閉めきった部屋で軽く指を鳴らしただけで、外に聞こえるわけねーだろ』と思うだろう。
しかし――男性は吸血鬼である。
そして、呼び出す相手はその眷属である。
吸血鬼と眷属――この二者のつながりを、『吸血鬼っていうのはお伽噺に登場するアレでしょ?』とか思っている現代っ子にわかりやすく説明するのは難しい。
しかしこの二者は血のつながり――『親族関係』という意味ではない――がある。
つまり、男性の指パッチンは、ただの指パッチンではない。
耳に響く指パッチンではなく、心に響く指パッチンなのだ。
よって、『指を鳴らしても来ない』のは、『聞こえない』ではなく、『聞こえていて無視している』ということと言える。
「……無視? 眷属が、私を?」
あり得ない、と笑い飛ばすこともできない。
最近、男性が精神的に不安定な時期が続いた影響か、眷属には確固たる『自我』が芽生えている。
つまり、無視とは――
「反抗期……!?」
男性は顔を青ざめさせた。
枕元のケイタイ伝話を手に取ると、『反抗期』『対処法』と検索を開始する――使用にもすっかり慣れたものだ。
しかし、その結果が出るかでないかというところで――
ガチャリ。
部屋のドアを開けて、眷属が現れた。
「……おほん。よく来たな、眷属よ」
男性は咳払いして、ケイタイ伝話を枕の下に押し込みつつ、ダンディな笑みを作った。
眷属は髪に隠れていない方の目を細めて『お前が呼んだんだろ』みたいな顔をしている。
口には出さない。
あの少女のような見た目の、メイド服をまとった、なぜコウモリだったのがあんな姿になったか一切不明の存在は、『しゃべる』という行為をひどく嫌うのだ。
「あー、なんだ、その……今日はちょっと反応が遅かったようだが、どうしていたのかね?」
「……」
眷属は親指と人差し指でわっかを作った。
男性はそのジェスチャーの意味をしばし考え――
「……ああ、内職をしていたのか。リング作りだったな」
眷属はうなずいた。
ここで男性の中にある葛藤が生まれる。
眷属は仕事をしていた。
男性は無職で、これから眠るところだ。
しかも、仕事を中断して呼び出しに応じたらしい、眷属の腕を噛みながら眠ろうとしている。
――いいのか?
仕事をしているんだから、邪魔をしないようにそっとしておくのが、大人というものではないのか?
しかし、一方で、こうも思うのだ。
吸血鬼として、眷属を手足のように扱うのは当然のたしなみである。
主たる吸血鬼は、通常、眷属の都合など考えない。
つまり――社会性と独自性。
ニンゲンと吸血鬼とのあいだで心が揺れ動く――葛藤だ。
そこまで考えて、男性は余裕を取り戻した。
――そうだ、好きに生きると決めたではないか。
空気など読む必要はない。
自由に、優雅に、大胆に――我こそが闇夜の支配者、吸血鬼であると、その行動で示すと、ミミックに誓ったはずだ。
だから男性は口の端を笑みに歪ませ――
眷属に言う。
「……内職をしていたのだったら、別にいいのだ。自分の仕事に戻りなさい。呼び出してしまってすまなかったね」
眷属は無言のまま一礼し、去って行く。
パタンと閉じるドアを男性は笑顔で見て――
唐突にベッドから起き上がり――
部屋の壁に両手をつくと――
――壁に頭を強く打ち付けた。
「違うッ! そうじゃないッ! 私は空気を読んだり他者を気遣ったりそういうのをやめると誓ったではないか!」
ガンガンと何度も額を壁に打ち付ける。
ガチャリ、と背後でドアが開く音。
男性が振り返る。
眷属がなにごとかと思って部屋に戻ってきたらしい。
男性はにこりと笑い――
「自分の仕事に戻りなさい」
眷属が去って行った。
男性はガンッ、ガンッ、と壁に頭を打ち付ける。
何度か壁に額を打ち付け、壁がえぐれ始めたころ――
男性は息も絶え絶えに、己を傷つけるだけのヘッドバンキングをやめて、つぶやく。
「……自由に生きようと思うのに、急にはできぬものなのだな……」
誓っただけでできたら、苦労はない――
植え付けられた習慣は楔のように男性を戒め、なかなか抜けてはくれないようであった。




