139話 筋肉と笑顔
※書籍化します※
8月24日、ダッシュエックス文庫より第1巻発売!
――衝動。
唐突に腹の底から湧き上がったその感覚に、妖精は身もだえする。
「ん……くっ……?」
筋肉が熱を発していた。
その熱さが頭にまで回った時、唐突に思い出す。何か。そう、何かをしなければならなかった。しかしそれが何かわからない。
「んあっ……」
「……ぶじ?」
妖精のあえぎ声に反応して駆けつけたのだろう。
いつの間にか眷属がそこにいた。
妖精は家(※ドールハウス)から飛び出し、その巨大な――妖精から見れば巨大な――生き物が顔の前に決まって垂らしている黒髪にしがみつき、熱っぽさに顔を赤らめて、もだえながら言う。
「け、眷属さん……妖精さんは……妖精さんは……!」
「……」
「しなければ、ならないッ……!」
「……?」
何かを、しなければならない。
それはなんだったのだろう? 考えてもわからない。頭は巡らないのだ。なぜなら、寝起きで筋肉がまだ本調子ではないから……
だから妖精はドールハウスのリビングに降り立ち、いったんスクワットをした。
尻を後ろに突き出すようなそのスクワットは主にふとももに強い負荷がかかる。筋肉だ。よたよたとたたらを踏みつつ、筋肉で腰を落とし、筋肉で膝を直角に曲げ、筋肉で体を持ち上げる。そのすべてはいかにも筋肉で、ほとばしる汗、流れる血潮、浮力を出すために羽ばたく羽根、そのすべてがまごうことなき筋肉であった。
そうだ――筋肉。
妖精は、否、妖精の筋肉は思い出した。
「妖精さんは……ボディビル大会に出る用事があったのです……!」
眷属はうなずいた。
たぶん適当に首肯しただけだった。
◆
「……いや、困るよ。私のところに来られても」
男性は記憶力がいい方なのでもちろん覚えているのだが、かつて、妖精はボディビル大会に出ようとしたことがあった。
しかし妖精は妖精である。
現在、地上に存在しない――『最初からお伽噺の中にしかいなかった生物』という扱いなので、いかにボディビル大会が人種や年齢、性別を問わぬ間口の広いものであったとしても、さすがに参加はできなかっただろう。
それでも妖精は行くと言ったのだが……
ボディビル大会当日、『ボディビル大会のことを忘れる』という悲劇に見舞われ、結局デビューはできなかったのだ。
男性は来客用テーブルの上に広げていた手紙を折りたたみ、大事そうに封筒にしまってからガウンの胸の中に差し入れた。
その手紙の封筒には幼い子供のものと思われる文字で、こんなことが書いてあった。
『おじさん、ぬいぐるみありがとう』
かつて聖女に頼まれてぬいぐるみを作ったことがあったのだ。
それを受け取った子供からの手紙である。
男性は吸血鬼であるがおじさんでもあるので、最近とみに涙腺がゆるい。
こんな夜中に乏しい灯りで手紙を読んでいたのも、封筒を見た瞬間『これは読んだら絶対に泣くヤツだ』と予感したため、優しい気持ちに浸るためシチュエーションを作っていたところなのであった(吸血鬼は夜目が利くので手紙を読むのに灯りは必要ない)。
だというのに部屋に乱入してきた眷属と手に乗せられた妖精からボディビルの話があった。
感動が筋肉で吹き飛ばされた。
なのでちょっと機嫌が悪い。
「だいたい……妖精よ、ボディビル大会に出るなら、私は止めないのだ。勝手にしたらいいではないか」
「でも……吸血鬼さんと、大会に出るような……」
「……私と?」
「吸血鬼さんと、筋肉が……黒光りする……話をしていた……ううーん……スクワット!」
眷属の手の上で、妖精がスクワットをした。
足を曲げたが最後再び戻せないので、眷属がうまいこと手を下げて妖精をアシストした。
「負荷が軽い!? トレーニングの成果が出ているのです!」
「……そうかもしれないね」
「そうです、妖精さんは筋肉を仕上げていた……ボディビルのために……つまりボディビルは近い……でも、妖精さんが応募したボディビル大会が存在しない……これはきっと、吸血鬼さんと二人で筋肉の祭典をするのだと、妖精さんのエリート筋力はそう推理したのです」
「きっとそれは間違いだ」
「いえ、合っているのです! なぜならば、今日は筋肉のキレがいいのです。妖精さんは冴えているのです! 見てくださいこのキレ! 腕立て!」
妖精が眷属の手の上で腕立てを始めた。
曲がったが最後伸びないので、眷属がうまいこと手を下げてアシストした。
「ほら!」
「君は大いなる者の手のひらの上で遊ばれているだけだ」
「つまり筋肉!?」
ここらで気付く。
これは――願望を成就しない限り、絶対に帰らないヤツだ。
男性はため息をつく。
そして――ガバッ! と着ていたガウンをはだけた。
「仕方ない。私は城から出ないゆえ、公式大会に出るつもりは毛頭ないが……妖精よ、君が飽きるまで大会のまねごとぐらいは付き合おう」
「わかるー」
「ここが君と私のボディビル会場だ」
「ここが!? さっそくポーズをキメるのです!」
あとには筋肉の祭りがあった。
二人は向かい合うようにポージングをしていく。
フロントリラックスから一回転。
全身の筋肉を見せつけるようにしてまたもとの向きに戻る。
「ダーンライト」妖精が叫んだ。男性には意味がわからなかったから、彼女の動きをまねる。
四分の一だけ体を回転させサイドリラックスの姿勢をとる。左側面の筋肉を見せつけるようにしばし静止してから再び「ターンライト」。先ほどと同じだけ体を回せば、今度は背面の筋肉を見せつけるリアリラックスの姿勢だ。三度の「ターンライト」。なるほどこれで右側面の筋肉を見せつけることになるのだ。全身が観客の眼にさらされる。眷属は無表情だった。興味がないのだろう。
続けて行われるのは前向きでのダブルバイセップス。
バイセップス――それは上腕二頭筋を意味する言葉。両拳を上に腕を曲げて示された筋肉。そして同時に見せつけられる逆三角形の肢体。
……美しい。そこには人体が鍛錬によって作り出した黄金のきらめきがあった。
ポージングは続いていく。ラットスプレッド。サイドチェスト。背後を見せてのダブルバイセップスにラットスプレッド。トライセップスで存在感を増した上腕三頭筋と胸や脚の厚みが織りなす肉体の凹凸は、筋肉以外でかたちづくることあたわぬ絶景であった。
そして必殺のアブドミナル&サイ。
『人体は美しい』。脂肪の少ない腹筋は皮膚の下の筋肉がそのまま透けているかのようだ。無駄を徹底的に排除した人の体はこうまで美しいのだと、見た者は涙するだろう。筋繊維のあいだに感動が挟まっている。その繊維に見る者はからめとられ、己が筋肉という宇宙の一部になったと錯覚するであろう。
眷属の手のひらの上、規定のポージングを終えて妖精がフリーポーズに入った。
見せつけるは大腿の筋肉。彼女のアピールポイントは腰から尻を通ってふとももまでの筋肉のようだった。
それはきっと、数多くこなしてきたスクワットが、彼女にそうさせたのだろう。
何せ妖精が城に来てからこなしたトレーニングのほとんどが下半身のものなのだ。……しかし未成熟。プニッとした腹部、モチッとした臀部、ぽよんとした太股。
それでもなぜだろう、そこにはたしかに美しさがあった。
彼女が笑っているから。歯を剥き出しにしていい笑顔を浮かべているから。
……ボディビルダーはなぜ笑うのか? いや、その表情はきっと笑顔ではない。食い縛った白い歯を彼らが剥き出しにするのは、全身に力を込めるため顎に力を込めているだけにすぎないのだろう。
けれどそれは、あまりに満ち足りた笑顔に見えて、
「……吸血鬼さん、妖精さんは気付いたのです。……本当は、妖精さん、出るはずだったボディビル大会を忘れてしまっただけなのですね」
「……」
「筋肉が教えてくれたのです。一通りポージングをして上がった知性が、気付かせてくれたのです。……妖精さんの失敗……でも、吸血鬼さんは何も言わず、付き合ってくれて……」
「……なに、かまわんよ。生きているうちは失敗をするものだ。それに、君にはなんというのかな……愛嬌がある」
「……あいきょう?」
「知力でもなく、筋力でもない。ただ、困っていると思わず手を貸したくなるような、そういった特性があるのだ。……大事にしたまえ。君の愛嬌は、君が懸命だからこそある。追い求めるものは間違いかもしれないが、追い求める姿勢は素晴らしい」
「…………」
「……眠ってしまったか」
筋肉を酷使したあと、難しい話がとどめになったのだろう。
男性はガウンを羽織りなおして、ソファに座る。
「眷属よ、妖精をベッドに運んであげなさい」
「……あるじ」
「……なんだね?」
「かんしゃを」
「……なに、気にするな」
眷属が妖精を手に、一礼して去って行く。
男性はふう、と息をついてから、ふところにしまっていた手紙を取り出した。
封筒に書かれた『おじさん、ぬいぐるみありがとう』という子供の文字。
それを見て目を細め、
「……なるほど。小さき者のわがままに応えるのも、それはそれで面白いものだね」
口の端を静かに上げた。




