第6話:夫婦の距離、そして小さな約束
春の風が心地よく吹き抜ける昼下がり。
今日は久しぶりに、何の用事も予定もない“穏やかな一日”だった。
私は屋敷の書庫にこもって、先日クレイグ様が贈ってくれた初版本を読み耽っていた。
「……ふふっ。やっぱり面白いわ、この物語」
孤独だった女主人公が、信頼と愛を得て成長していく……そんな物語。
どこか自分の今と重なって、ページをめくる手が止まらない。
「読書に夢中のようだな」
不意にかけられた声に、私は驚いて顔を上げた。
「クレイグ様!? いつの間に……!」
「昼の執務が早く終わった。お前が書庫にいると聞いてな」
「……覗き見は感心しませんよ?」
「見ていたのではない。監視していただけだ」
「それ、十分に問題発言ですからね?」
思わず笑ってしまった私に、彼は珍しく少し口元を緩めた。
「……機嫌が良さそうだ」
「はい。あの騒動のあと、こうして静かに過ごせることが、すごく幸せなんです」
それは、心からの言葉だった。
誰かに怯えることも、陰口に傷つくこともない。
大切にされ、信じられているこの時間が、今の私には何よりも宝物だった。
「この本……読んでみますか?」
私は、手にしていた本をそっと差し出した。
「珍しいな。お前が“私にも読め”と勧めるとは」
「物語の中の主人公が、貴族の冷たい夫に少しずつ惹かれていくんです。なんだか、ちょっと似てるなって」
「……私が冷たい夫だと?」
「はい。でも、とても優しい方です」
静かにそう言うと、彼は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……そうか」
不器用ながらも、確かに伝わる“気遣い”と“情”。
それを私は、ようやく正面から受け止められるようになってきた気がする。
夕暮れ時。中庭のベンチで、ふたり並んで座る。
「こうして並んで座るの、なんだか初めてですね」
「正式な場では常に隣にいたはずだが」
「そうじゃなくて……こうして、なんでもない日常の中で、って意味です」
クレイグは静かに頷いた。
「お前は、これからどうしたい?」
「……え?」
「公爵夫人として、社交を極めてもいい。
一方で、書や記録、図書に関する仕事もある。お前の得意な分野だ」
彼が、私の“未来”を語っている。
形式上ではなく、今後も本当の意味で夫婦として歩んでいくという――その証のように。
「……もう少し、考えてもいいですか?」
「ああ。急ぐ必要はない」
ふいに、私の左手を取って、彼が優しく握る。
「ただ一つ、約束しよう。
どんな道を選んでも――お前の隣には、私がいる」
「……」
心が、熱くなる。
私はそっと彼の手を握り返した。
形式だったはずの関係が、
気づけば、こんなにも温かく、確かな絆になっていた。
──ふたりの距離は、もう迷いのない場所まで来ている。
それは、優しくて小さな、“未来への約束”だった。




