第六十八話 真名(まな)
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「俺は……いや、俺が……」
ハンスの手から剣が滑り落ちる。剣が床に落ちて乾いた音を立てるが、今のハンスの耳には届いていない。
「俺が憎かったのは自分自身なんだ」
ハンスは空を仰いだ。その目に映るのは白い靄だが、今のハンスには今まで見えなかったものが見えていた。
「だけど、全部自分のせいだと認めるのは辛すぎるから、耐えられないから、勇者を憎んだんだ」
ハンスは膝をつき、打ちのめされたように肘を突いて伏せる。頬をつたって地面に涙が落ちているのを見て、自分が泣いていることに気づいた。
「あいつらが悪い。あいつらがいなければ姉さんが死ぬことはなかったのにって」
あまりに弱く、情けない自分。救われる価値なんてないはずなのに。
そんなことを思った時、ハンスの心に何かが優しく触れる。それは、最初にハンスの傷に気づき励ましてくれたセレーネの手であり、ハンスのことを信用してくれたヨルクであり、《死霊食い》という力を持つことを知ったあとでも関わり方を変えなかったリッツ達であり、姉に似た眼差しと優しさでハンスを見守ってくれたクロエだ。
そして──
(ルツカ、君が傍に居てくれたから、俺はここまで進んで来られたんだ)
ハンスはゆっくりと立ち上がり、涙を拭い、残った精霊の殺気に満ちた目を真っ直ぐ見据えた。
(ここで立ち止まったら、前と一緒だ。今度は前に進まなきゃ。今はもう一人じゃないんだから)
ハンスは【紅炎鳥】の剣とマントを消し、自分に剣を向ける精霊にゆっくりと近づいた。どこにも武器はなく、隙だらけのハンスにはどこから見ても何の脅威も見いだせない。だが、目の前の精霊は、何かを恐れるようにじりっと後ずさる。
しかし、ハンスの歩みは止まらない。その着実な歩みは、何かに怯えて後退する精霊との距離を確実に詰めていく。
その距離が腕一本分くらいになった時、精霊はハンス目がけて剣を振るった。身と心どころか、心さえバラバラな状態の斬撃だが、それでも斬撃は斬撃。回避なり、防御なりすべきものだ。
だが、ハンスの選択は違った。
ハンスは防御も回避もしなかった。そして、ただ単にその剣を身に受けたのだ。
左肩から右の脇腹にかけての袈裟切りは鋭く、吸い込まれるように深く体に突き刺さる。確認するまでもなく、致命傷だ。だが、それにも関わらず、ハンスには痛みが全くなかった。
(そう言えば、前にもこんなことがあったな)
それはハンスとルツカがヴァーリア砦から脱出する時のことだ。姉の力を奪った勇者が、ハンスに向けて【紅炎鳥】を放った時、彼は傷一つ負わなかった。今の状況は、あの時と酷似している。
“精霊は創り手の思いに色濃く影響を受ける。その思いを理解したものを傷つけられるはずもない”
いつの間にか消えていたザンデの声が聞こえる。だが、その声は遠くから響くように曖昧で聞き取りづらく、今にも消えそうだ。
“ハンス、その精霊にはまだ名がない。最後に名をつけるのだ“
「精霊の名、真名ですか」
“そうだ。そうすれば、以後君の力になるだろう”
精霊の名、真名は周りのマナを呼び集め、精霊という仮初めの存在にするための旗印のようなものである。それは、マナの道しるべとなり得るものでなくてはならず、本来、使い手が勝手に決めるような性質のものではない。
だが、目の前の精霊はハンスのマナが集まって出来たもの、いわば、彼の分身だ。自分が決めた名こそが、真名となり得るのだ。
(こいつの真名はもう決まってる)
ハンスは精霊の背中に手を当て、自分の方へ引き寄せ、抱きしめた。
「お前は俺だ。そして、俺はお前だ。だから、お前の真名はハンスだ!」
ハンスの言葉を聞いた瞬間、精霊は突如光を発しながらかき消える。そして、それと入れ違いになるように、ザンデの姿が現れた。
“ここでお別れだ、ハンス”
ザンデはハンスにそう告げた。
“君の魂についた傷はもう消える。そうすれば、もう私が君の前に姿を現すことはない”
ザンデの体と世界が少しずつ消え、周りから光が失われていく。
「ザンデさん、ありがとうございました。俺、あなたに会えてよかったです」
“私もだ、ハンス。これでもう、私は自分の人生に悔いはないよ”
ザンデは穏やかそうに微笑み、それから思い出したように付け加えた。
“そうだ。私を超えた褒美がいるな。手を出してくれ、ハンス”
「はい」
ザンデはハンスが出した手をしっかりと握る。すると、ハンスはザンデから何か温かいものが流れてくるのを感じた。
(これはっ!)
ハンスが驚いた顔をするのを見て、ザンデは得意そうな顔をして笑った。
「驚いたか? 君に渡したのは私の《死霊食い》の力、正真正銘魔王の力だ。私はこれからも君と共に在る。迷うことなく進め、ユァリーカ!」
その言葉と共に視界が暗転する。最後にハンスの目に入ったのはまるで息子を慈しむような表情をしたザンデの顔だった。
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