141話 イリスの思惑
男はリバーエンドの小さな路地を駆けていた。
汗を流し、涙をにじませながら、全力で逃げていた。
どうしてこんなことに?
男はまっとうな職業についていない。
リバーエンドの街をしきる裏の世界の人間だ。
弱いものを脅し、時に暴力をふるい、金を搾取する。
恐喝に始まり、誘拐、殺人、人身売買……ありとあらゆる犯罪に手を染めてきた。
それでも、男が捕まることはなかった。
巧妙に騎士の捜査をかいくぐり……
時に、金を握らせることで難を逃れてきた。
だから、男はこれっぽっちも考えていなかった。
自分が追う立場から、追われる立場になるなんて、欠片も想像したことがなかった。
しかし……
今は、男は追われていた。
「な、なんだよ、あの化け物はっ……!」
簡単な仕事のはずだった。
街を散歩ついでに練り歩き、いつものように上玉の商品を拉致する。
リバーエンドは人の行き来が盛んなので、よく上玉を見つけることができるのだ。
念のために、複数の部下を連れていた。
いずれも手練の者で、Cランクの冒険者並の実力がある。
よほどのことが起きない限り、問題はないはずだった。
……その考えが甘かった、ということを、男は思い知らされることになる。
どこからともなく現れた少女が、男達を駆逐した。
一方的に蹂躙した。
部下がやられている間に、逃げるのが精一杯だった。
「はぁっ、はぁっ……に、逃げられたのか……?」
男は足を止めて、恐る恐る背後を振り返った。
そこには……誰もいない。
「ふぅ……」
安堵から、男は吐息をこぼした。
激しい動悸を落ち着けるように、胸に手をやり……
それから、ギリギリと奥歯を噛む。
「どこのどいつか知らねえが……ふざけたことをしやがって。俺に楯突くやつは殺してやる。今すぐに、残りの部下を……」
「ねえ……残りの部下って、この連中のことかしら?」
「え……?」
男の前にナニカが落ちてきた。
ぼとぼとと地面に落ちて、転がり、赤い液体を撒き散らす。
それは、人の生首だった。
いずれも苦悶の表情を浮かべていて、凄惨な最後を迎えたことが想像できる。
「ひっ……!?」
男は腰を抜かした。
そんな男の前に、空から少女が降り立つ。
翼でも生えているように、ゆっくりと降下して……そっと、地面に足をつけた。
「ごきげんよう」
「なっ、あっ……て、てめえは……」
男は声を震わせた。
この少女は見た目通りの存在ではない。
中身は悪魔といっても過言ではない。
屈強な部下達を一瞬で皆殺しにできる、圧倒的な力を持つナニカだった。
「ど、どうして、こんな真似を……俺が、誰だと……」
「ふーん……つまらないわね」
「なに?」
「もっと、色々な言葉を聞かせてくれると思ったのだけど……つまらないですわ。ありきたりな言葉だけなんて……」
「な、なにを……」
「あなたはもういりませんわ。さようなら」
「……あ……」
男の胴体と頭部が切り離されて……
何が起きたのか理解できないまま、男の意識は消えた。
「ふぅ……」
少女……イリスは、血溜まりの中でつまらなそうにため息をこぼした。
男の生首をおもちゃのように手の平で転がしながら、ぼやく。
「人間を狩れるのですから、これはこれで構いませんが……やはり、歯ごたえがありませんね。このようなゴミをずっと相手にしているというのは、退屈ですわ」
ぽい、っと男の生首を捨てた。
「……とりあえず、掃除をしておきましょうか」
イリスの影が不自然に広がった。
その体よりも大きく、路地いっぱいに影が伸びていく。
男達の死体が影に触れると、その中にゆっくりと沈んでいった。
いや。
ぐちゃぐちゃ、と咀嚼する音が聞こえた。
食われているのだ。
食っているのだ。
男達の肉も、骨も、血も。
イリスの影は、全てを喰らう。
そして……
10分ほど経った頃には、全てがきれいさっぱり消えていた。
「はい、お掃除完了ですわ。ふふふ」
イリスは汚れを落とすように、軽くスカートをはたいた。
それから、恍惚とした表情を浮かべる。
「んっ……この男達の命を感じますわ。こんなのだから期待はしていませんでしたが……なかなかの味ですわね。甘美ですわ」
ぺろりと、舌なめずりをする。
「ですが……やはり、この程度では足りませんわね。もっと質のいい魂を……もっとたくさんの魂を」
イリスは男達の魂を喰らっていた。
おやつ感覚で貪っていた。
おぞましい行為をしているはずなのに、イリスの表情に罪悪感は欠片も見当たらない。
そうすることが当たり前。
そう言っているかのように、自然な顔をしていた。
「さて……どうしましょうか?」
あごに手をやり、イリスは考える仕草をとる。
イリスは、とある人間と取引を交わした。
自分を解放してくれた礼に、人間の言葉に従う、というものだ。
人間の言葉に従い、パゴスの村の人間は全て殺さないでおいた。
三分の一程度で済ませておいた。
その後、やってきた人間と軽く戦うフリをして、撤退した。
それからは、人間からの指示を待っている状態だ。
待っている間、大きな事件は起こさないという約束が交わされている。
なので、イリスは、こうした軽いつまみ食い程度にとどめている。
本来なら、人間の街なんて一気に食らい尽くしてやりたい。
街に住む人間を、一人残らず殺してやりたい。
そうするだけの権利が自分にはあるのだから。
「……よくよく考えてみれば、最初のお願いで、義理は果たしたと考えても問題はありませんわね」
しばらく考えた末に、イリスはそんな結論を出した。
所詮、人間と交わした約束。
それを律儀に守り続ける理由なんてない。
それに……
どうせ、そのうち殺そうと思っていた相手だ。
約束を破り、責められたとしても気にすることはない。
「そうですわね、そうしましょう。わたくし、なんてつまらないことをしていたのかしら」
にぃ……と、イリスの顔に凶悪な笑みが作られる。
「さて、さてさてさて。そうと決まれば、この後はどうしましょう?」
このリバーエンドを食らい尽くしてやろうか?
それとも、もっと大きな街で暴れてみようか?
どれだけの人間を殺すことができるだろう?
どれだけの魂を食らうことができるだろう?
そう考えるだけで、イリスは恍惚感すら覚えた。
「そうですわね……その前に、食べ残しはいけませんわね」
今は、パゴスの住民の七割を見逃した状態だ。
そのままにしておくなんてことはできない。
残り、七割も食らってあげないといけない。
そうすれば、村人達は天国で家族と再会できるだろう。
「ふふふ……わたくし、なんて優しいのかしら」
どんな声で鳴いてくれるだろう?
どんな顔を見せてくれるだろう?
そんなことを考えながら、イリスは翼を広げた。
……悪意と狂気の塊が飛翔した。
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