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「まさに世界経済を動かしてますね。わたしたち」
電脳世界から垂れ流されてくる情報の奔流をたくみに泳ぎ渡りながら、甘々のチャイをくぴくぴと喉に流し込んでいるのは、《株式会社GEKKO》電算室の面々であった。
王国財務長官転じて《株式会社GEKKO》電算室室長、ラミル・フェンこと阪田アヤメ(5)は、フル回転を続けるおのれの脳細胞にブドウ糖を供給しながら、刻々と数字を刻み続けるモニターを見てにやりと笑った。
「伝説復活祭りやね」
経済のうねりのなかから巨大な龍が立ち上がる。
世界中の証券市場、有力機関に送られた一通のメール。
「中央銀行もケツをまくって逃げ出す伝説のファンド復活だもの。G国の不良銀行にキャンいわせたら、世界中の投資家からジャブジャブ金が集まってきたわ。まだまだ昔の水準にはとうてい及ばないけれども」
「さすがにカネの匂いには敏感なやつらね~」
手元資金は八億にしか過ぎない。しかし彼女らの『顧客』は、伝説ファンドの復活を信じて待ち続けていた。純粋には彼女らの資金ではなかったが、それでもわずかな時間で運用資金は数十億ドルに達していた。
「世界経済の番人、《ヘルハウンド》の通ったあとには、クソヘッジファンドの死屍累々」
低く忍び笑いする部下たちを見て、アヤメはむんと腕組みした。
けっして営利目的では動かない謎の巨大ファンド、《ヘルハウンド》は、世界経済を壊乱しようとするおろかものたちを喰らい尽くす。《ヘルハウンド》の通ったあとにはペンペン草も生えないといわれた、金融業界では恐怖とともに語り継がれる伝説。
「うちらは世界経済の白血球や!」
途方もない資金力で世界金融に君臨した彼女ら主導のファンド、《ヘルハウンド》は、かつて《まれびと》の経済浸透を排除するために、国王命令により設立された。経済が急速にグローバル化したこの数十年、酸いも辛いも経験し続けた彼女たちの老練たる資金運用経験は堅実であった。おそらくもなにも、彼女たちはこの世界でもっとも年期ある超ベテラントレーダーなのであった!
彼女たちがかき集めた資金は、世界各国の市場で、《焔家》資本に対して激しく攻撃を開始していた! 本来は存在してはいけない資本勢力の駆逐。彼女たちの存在は、まさに血中の病原菌を駆逐する《白血球》にほかならなかった。
「あの、お茶のおかわり…」
いそいそとお盆を抱えて入ってきた諏訪リョウジが、パソコンの配線にけつまずいて盛大にチャイをぶちまけた!
バシャッ!
水分攻撃を受けたサーバーのひとつが、爆竹のはぜるような音を立てて沈黙した。そのマシンのシステムを預かっていた幼女が、ブラックアウトした画面に「はうっ」と硬直した。
「このボケナス…」
「やっちまった。わるいわるい」
「きさまは茶の一杯で、きさまの先祖が類人猿にたどり着くまで全員の生涯所得をかき集めてもとうてい足りない莫大な損害をたったいまあたしらに与えたことに気付かないんやろうね、きっと」
「…わるいっていってんじゃん」
口をとがらかすリョウジ。定刻五時を回ったところで帰宅を促されたものの、みんなが帰らないなら自分も帰らないと駄々をこねたはいいものの、しきりに目をこすってるあたり結構眠たいのだろう。家では帰宅の遅い息子を心配しているだろうが、いま《株式会社GEKKO》に、彼を家まで送り届けるような余剰人員は皆無なのだった。
リョウジは眠い目をこすりながら、とりあえず壊れたパソコンを直す振りにしゃがみ込んでみたりする。むろん直るわけなどない。破壊されたパソコンの向こうで、何人かの投資家が破滅を迎えたかもしれない。
アヤメが脳内処刑リストにリョウジの名を書き込みつつ、保険としてのノートパソコンを立ち上げたそのとき、一本の電話が鳴り響いた。
《株式会社GEKKO》社内には、電算室員と秘書連、そして一人総務課の諏訪リョウジしかいない。ほとんど業務的に使用されていないこの唯一の外線電話は、経歴的に『悪い電話』しかかかったことがなかった。電話帳にも載せてないのだ。かかってくるのは非合法な情報力を持った組織の類ばかりである。
「はい、《株式会社GEKKO》でございます」
電話を取ったのは何かやってないと落ち着かないと掃除にいそしんでいた秘書室のナユであった。もぐりこんでいた机の下からマユが顔を上げ、泡立ったスポンジを手に給湯室からマナミが顔を出した。
『声の出し方』さえ心得ていたなら、たとえ五歳の幼女でも立派にオフィスレディになりおおせる実例をナユが披露している間に、電話が切れた。
「…どっからやの?」
アヤメの問いに、ナユがわずかに表情を硬くした。
「デリーのラクシュミ経済研究所って、知ってる?」
「ああ、それはうちらのダミー機関のひとつやけど」
「…焔企業への不当な活動を停止しないと、その研究所のように大変なことになるって」
表情を変えたアヤメが、すぐさま携帯から電話をかける。その電話もほかの場所にある電話機から数度にわたる転送を経て相手に送られるからくりである。
「…やられたわ」
電話を切ったアヤメは、電源を入れかけていたノートパソコンを閉じて、それを小脇に抱え込んだ。彼女の目配せで、電算室員たちも、それぞれの予備マシンに手早くデータを転送すると、システムから切り離して同じく抱え込んだ。
「とりあえず、あたしらはトンズラするわ」
「行き先は?」
「あんたらが捕まって自白剤飲まされても大丈夫なように、教えんとくわ」
ニカッと笑って見せるアヤメに、ナユが盛大なため息をついた。
「わたしたちもけっこう危ないんじゃないの?」
「そこはもう、ナユっちの自助努力でお願い」
「はいはい」
ナユが腰に手をやってしっしっと野良犬を追っ払うようなしぐさをすると、「ものごっつわるいなぁ」とアヤメたちが脱出を開始する。
床を磨いていた雑巾を放り投げて、マユが「それじゃ、マユたちも逃げなくちゃ」と、腕まくりしていた袖を元に戻した。「待って、待って」と、マナミがエプロンで手を拭き拭き給湯室を出てくる。
「隠れる場所は?」
「いくつか用意してあるらしいけれど、そうねえ。…とりあえずこの会社名義のとこはやめといたほうがいいかしら。すぐばれそうだし」
戦闘状態にある《株式会社GEKKO》の有能な秘書たちに手抜かりはない。篭城用に買い込んだ品々は、ある程度小分けにして人数分のリュックにまとめられている。
「とりあえず、逃げましょ」
ノートパソコンを抱えて退室した電算室員たち。そしてリュックを抱えて疎開を始めた秘書室員たち。
彼女らを訳がわからないように見送った総務課長リョウジが、「オレどうすんの?」と自問したそのとき、街の灯りがまたたく景色が、突然なにものかの巨大な影でふさがれた。
「ヘリ…?」
ローターの爆音がビルを揺さぶったのもつかの間。明らかに平和目的ではない無骨なフォルムをしたヘリが機体下部に突き出たまがまがしいものをこちらに向けるや、即座に発砲した。
一瞬にしてすべてのガラスが透明なしぶきに変わって砕け散り、せっかく買い揃えたオフィス用品たちが派手な音を立てて踊り始めた。
その瞬間、リョウジの膀胱は決壊した!
午後八時を過ぎたころ。
都心は混乱の度合いを増しつつあった。
世界一人口が過密な街は、世界一野次馬が集まりやすい街でもあった!
「こちら現場からリポートいたします! 午後八時ごろ都心の公園に墜落したヘリコプターは、消火活動の遅れでいまも激しく炎上中です! ものものしい警官隊が付近を封鎖中で、取材班も近くに行くことはできません!」
いたるところで実況を始めている報道機関のようすを確認してから、乗りつけたハイヤーから颯爽と降り立った作業服姿の都知事は、駆け寄ってきた警官たちがおのれの目の前に整列するさまを満足そうに眺めた。
案の定、警官たちの動きを追っていた報道関係者たちは、現地に到着した都知事の姿を見つけて、砂糖に群がるアリのように引き寄せられてくる。目立ちたがり屋の名物知事の名言、暴言、失言のたぐいは、彼らの大好物なのであった。
「都知事! あのヘリは都庁舎をかすめるように飛んで墜落したとか! 日本版同時多発テロとの見方もあるようですが!」
「死傷者の数は! まだ都の正式発表はありませんが」
「消防よりも先に警官隊が現地に到着したというのは、やはりテロ対策ということなのでしょうか?」
彼らの質問に鷹揚に頷きながら、都知事は世間でもずいぶんと前からおなじみとなった持論をぶち上げ始めた。知事の周囲に、さっとたくさんのマイクが集まってくる。
「わが国の首都であるこの街は、世界最大の巨大な経済都市であり、わが国の経済中枢が集まる心臓部であることは皆さんも知っているだろう。この巨大都市が揺らぐことは、この国が揺らぐことを意味している。テロリストどもが国会議事堂ではなく都庁舎を狙ってきた理由は明白だ。それは知事会に反旗を翻されるような弱体化した中央政府などより、自治体として最大の力を持つ都の象徴、都庁舎を爆破するほうがより国民に衝撃を与えるだろうという彼らの計算によるものだろう。さらにわたしは国内切っての《タカ派知事》だ。この国の軍事力強化に神経を尖らせている諸勢力にとっても、一番目障りな人物だったんじゃないかな!」
まくし立てつつ、公園敷地内へと踏み出そうとする知事。それを取り巻く護衛の警官隊と報道陣。
しかし彼らは、公園の入口を前にそれ以上身動きが取れなくなった。
歩道と公園敷地の境界線。
その一線を越えようとした者たちは皆、なぜかしめ縄に囲まれた禁足地にでも踏み込もうとしたかのように「いけない、いけない」と上げた足を止めてしまうのだ。
警官隊が立ちん棒をしている『立ち入り禁止』の敷地内に踏みいるのはたしかに若干の禁忌を覚えるのだが、都知事自らがおのれに許可を与えて踏み入ろうというのだ。制止するものなどなにもない。
だが当の都知事自身が、上げた片足を公園内におろすことができないまま固まっている。
「…まだ爆発の危険がありそうだな」
その目は木々の向こうで激しく炎上する事故現場に興味津々のふうであったが、身体がなかなか言う事を聞かない。知事は内心に高まる不思議な忌避感をごまかすように、咳払いをした。
そのとき。
バサッバサッバサッ
巨大なコウモリが公園の木々の間に舞い上がった。巨大な羽をばたつかせ、木々の間から長い首をもたげて顔を出す怪生物。
「ひっ…!」
女性レポーターが短い悲鳴を上げた。
知事の顔から上空へと振られたカメラたちが捉えた、得体の知れぬ巨大生物。
「なんだ! おかしな生き物がいるぞ!」
「カメラに収めろ! 大スクープだ!」
そのコウモリの翅持つ巨大な生き物は、なにかの力に抗うように上空で身もだえして、ほんの数十秒カメラにその姿を晒しただけで墜落した。
公園内で何かが起こっている。
これはきっとヘリ墜落なんか比較にもならないぐらいの大事件に違いない。
そう直感した報道陣たちは、知事などそっちのけで警官隊の臨時詰所のある公園口交番へと殺到した。大事の前の小ネタなど犬でさえ唾吐いてまたいでゆく。突き飛ばされて転びそうになった知事がわめきたてるが、だれも見向きもしない。そのとき遅れて現場にやってきた事情を知らない別の取材班が、「ここでしたか、知事!」とカメラを向けると、青筋を立てて憤慨する知事の毒舌ショーが始まった!
「〇〇テレビは本当に礼儀も知らんな! 献金疑惑で裏情報をリークしてやったのに、バカな女をリポーターに回しおって! △△テレビも××テレビもそうだ! 番組捏造を国会で取り上げられそうになってたのを差し止めてやったってのに! どいつもこいつも本当に恩知らずばかりで…!」
カメラが回っていることにも気付かずに、知事の弾劾は街宣カーのアジ演説のようにとめどなく続いた。その暴露ネタで彼自身の政治生命が危うくなるのは少し先のことである。
知事にとって幸いだったのが、その遅れてきた取材班も、公園内の異様な騒ぎに気付いてカメラをそちらへ向けてしまったことだった。
ゴールデンタイム枠もそろそろ放映を終わろうかという頃、首都キー局のテレビカメラが、衝撃映像を全国のお茶の間に垂れ流し始めた!




