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09






貨幣経済が世を支配するようになってから、二千数百年。

元来、無精者である人という生き物が、物品の交換手段として始まった貨幣のやり取りで、対価物を伴わない『楽して儲ける』手法を編み出すまでに、そう時間はかからなかった。

『賭け事』という商行為は、もっとも原始的な『不労所得』を得るための手法のひとつであったろう。あまたの無精者がその楽さ加減に魅了され、そして全財産を引っぺがされた。






エナ・ティラカ・サラシュバティ・ウルリクは、神頼み的な投機行為の愚かさを理解していたが、人生背に腹はかえられないときというものが存在することも知っていた。

四月二八日、午後二時過ぎ。


「なに、わたくしに任せていただければ、大船に乗ったも同然です」


ティシャ・クランウル近衛隊長は取り出したノートパソコンを起動しながら、表情に乏しいその白い顔をうっすら紅潮させている。よっぽど好きなのだろうとハルミは肩をすくめてその画面に現われる細かな情報に目をやった。


「まだ収集を開始して一年ほどですが、何人かの好事家(馬オタク)からデータベースを買い取ったので、予想を出す程度のことには十分かと思われます」


「お嬢さまは本当におウマがお好きで」運転手のフォローに、ハルミが目を細める。前世ではアメリカの牧場に持ち馬を数十頭も飼育させていた馬好きである。普段は鉄面皮もいいところの性格であるのに、『おウマさん』を目にしただけでへにょへにょと相好を崩したものだった。


「いまからでは第八レースからしか買えませんね。あまり地方レースは好きじゃないんですが、このレースはそれなりの血統のウマもいて玉石混交……三枠④番イシノスカイと、五枠⑧番カトウシビック、六枠⑩番のオオミヤスープラの組み合わせしかありませんね。騎手がオオコウチのオオミヤスープラが頭ひとつ抜けますから…」


組み合わせを多く買えば当る確率も上がるが、元手を分ければ分けるほど一枚の賭け金が減るのは必定。ここでドンと稼ぎたいハルミの意向に反する。

しばらく悩んでから、ミユウはひとつのソフトを起動した。

目にも止まらぬブラインドタッチでウマの諸元データを入力すると、スタートボタンで簡単なレースゲームが始まった。

最初にゴールしたのは…。

「⑩‐⑧‐④」三連単一点買い。それがミユウの『託宣』だった。


「ははッ!」


ハルミが引き下ろしてきた全財産を握り締めて、運転手が馬券売り場へと突進する。

すぐに購入した馬券が、ハルミの手に戻ってきた。


「三連単⑩‐⑧‐④……190,000円」


買ってしまってから、ハルミは頭から血の気が失せていく感覚にとらわれた!


「大丈夫です。お任せください」


必要以上に自信満々なミユウに、ハルミは額に浮いた嫌な汗をぬぐった。本当に大丈夫なんだろうか? なんか間違ってないか、自分。

しかし買ってしまったものをなしにするわけにもいかない。ハルミはもはやオッズ表を見守るしかなかった。

レースは三十分に一回。第八レースが始まるまでまだ五分ある。オッズ(倍率)は、馬券販売の推移で刻々と変化している。販売の締め切りで、オッズが確定。

三連単⑩‐⑧‐④……倍率は一二倍!

三連単にしては倍率が低いが、それだけ人気の高い馬だという証拠でもある。幼児にはあまり教育上よろしくないということで、当初駐車場で二人は待機する予定だったが、ウマ好きのミユウは我慢しきれずに車から漂い出してしまった!


「年齢制限があるかも…」


入場ゲート通過時にハルミはやや肝を冷やしたが、別段そのような制限をしている様子もなく無事通過を果たす。


「子供はオッケーのはずです」

「知ってたの?」


ゲート近くの柵に取り付くと、ミユウはデジカメを取り出して、おウマさんたちの写真を熱心に撮りだした。まわりを見ると、似たようなご趣味の方たちがたくさんいらっしゃいました!

かくして、《走れコウタロー》という変なBGMの後、ゲートオープン! レースが始まった。






ミユウの鼻が、三センチほど高くなった。

運転手が、当選金を持ち帰った。

二二八万円!

札束を両手に握り締め、天の神に心の叫びを届けた幼児の姿は、いやがうえにも周囲の注目を集めたという。競馬、侮りがたし!


「第九レースは、…そうですね、一着二着以外はどんぐり状態みたいですから、ここは連単で」


④‐②。


「か、かしこまりました!」


初戦を見事に的中させた幼い主人に、運転手の忠誠心はおおいに向上したという。買うのは二百万のみで、端数は手元にと守りに入ろうとするハルミを、ミユウが冷ややかに笑う。


「こんな小金で守りに入っていかがいたします。手に入れねばならない資金量は、こんなアリンコのフンみたいな小金ではありません」

「ふ、フンか…」


いまだに家では紙パックの安物紅茶しか使わない庶民派が板についてしまったハルミには、恐れ多くて口にもできない大言であった!


「買ってまいりました!」


馬券が渡される。

連単④‐②……2,280,000円。


「ふ、ふははははは」


破滅の恐怖と背中合わせの感覚は、ハルミにおこりのような小さな笑いをもたらした。

これが『賭け事』の醍醐味か! 先の見えない暗闇で、対岸の崖に飛び移るような捨て身の行為……某マンガの表現は的確であった!

第九レースが始まり、抜きつ抜かれつに一喜一憂、ゴールを駆け抜ける一瞬はミユウばかりでなくハルミまで声をからして応援していた!

キターーーーーーッ!

オッズは五・二倍。

運転手が換金所から、なにやら警備員を連れて凱旋した。

「物騒だというので、競馬場からご配慮いただきました」警備員が周囲に睨みを利かす横で、当選金がハルミの手に渡される。

ミユウの鼻が、十センチ伸びた!

一千一八五万六千円。

ずっしりとしたその重さが、その現金の価値を表していた。






さすがにそのころになると、このおかしな三人組は競馬場の有名人になりつつあった。

三人のまわりには次のレースで『おこぼれ』にあやかろうというすさんだ印象のオヤジどもがたむろして、耳をゾウのようにして聞き耳を立てている。

さすがに最終レースとなると、ミユウも慎重になるものか、回答を出すまでにしばらくの時間を要した。これというおウマさんが見当たらないというのが、馬券師ミユウの談であった。


「波乱含みの展開が予想されます。一点買いを避けて、確実に取りにいったほうがよいかもしれません…」


三枠④番ヤジキタドリームを軸に流し。枠連三‐一、三‐二、三‐四、三‐五、三‐六。

託宣が下るや、現金を持った運転手と、周囲のオヤジたちが一斉に駆け出した。なにかの予感に背中を押されるようにして、ハルミも一緒に駆け出した。


「ハルさまッ」


一人残されるわけにもいかず、ミユウも駆けてくる。


「どういたしましたか!」

「いいから、運転手をとめて!」


ミユウがおのれの運転手を追いかけていったのを見届けてから、ハルミは息を整えようと窓の外を見た。眼下には、いままさに馬場に出てきた次レースの馬たちが、パドックを巡りだしたところであった。

このレースはやめておくべきだ。直感がそう告げている。

おのれの中に湧き上がった感覚を吟味するように、なんとはなしにパドックの馬たちを眺めていたハルミではあったが、そのとき彼は直感が何を告げようとしていたかに考え至った。


(なんだ、あの馬は…)


一頭の葦毛馬が、落ち着きなく前脚を掻いては後ろ脚立ちになろうとする。暴れては近くの馬を威嚇して、ともかく落ち着きがなかった。③番、三枠のツンデレスター。

そのとき、ハルミの脳裏にその瞬間のヴィジョンがフラッシュバックした。

ゲートを出た瞬間に暴走する③番ツンデレスター。

その斜行に巻き込まれる④番栗毛のヤジキタドリーム。

乱れ立つ馬群。

スタンドが騒然とするなか、混乱の中から飛び出した黒い馬…。


(黒い馬…)


そのとき、息を切らせながら戻ったミユウが、ハルミの前に立った。

その苦しげにすがめられた目が、うつむくのが分かった。


「間に……あいませんでした。何とかこれだけは…」


その手には、本当に少なくなった元手が数十万……おそらくは封印されていなかった八十五万六千円。少し遅れて戻ってきた運転手が、汗を拭き拭きひたすら恐縮している。


「わたしのまわりで大変混み合いまして、お嬢さまのお声が……ぐふぅっ」


ねじりこむように放たれたミユウのガゼルパンチが運転手のおなかをえぐった!


「イイワケはいらないわ」

「は、はひぃ」


五歳の主人が五十路の運転手を《調教》するさまは、そちらの趣味ある人々には大変趣きある風景であっただろう。うずくまった運転手をさらに足蹴にしつつ、ミユウは残金を示してハルミの決断を仰いだ。


「その残金は、全部あいつに突っ込んで」


ハルミの指差した黒い馬を見て、何もいわずミユウは一礼した。


「二着はあの馬。三着はあそこの馬」

「分かったの? ⑦‐①‐⑪よ」

「か、かしこまりました!」


残金を持って、馬券売り場へと向かう運転手。

その一分後、販売が締め切られた。

三連単⑦‐①‐⑪……856,000円。

不人気であったのか、倍率はなんと一五二倍に達していた!

そうして、最終レースを告げるファンファーレが場内にこだました。






波乱のレースはどうなるのか?

エナ・ティラカ・サラシュバティ・ウルリクの大いなる賭けは、成功するのか?

次回、乞うご期待。


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