4.満たされないガーネット
「……さま、お嬢様、どうされました? お茶が冷めちゃいますよ?」
甘い香りに鼻腔をくすぐられ、フレイアはハッと我に返った。ベルが心配そうに顔を覗き込んでいる。
(私、いつの間に移動していたの?)
先ほどまで父の執務室にいたはずが、応接室のソファーに座っている。机の上にはベルの淹れた紅茶とロールケーキが並べられていた。
「フレイア、疲れたのなら先に休んでもいいぞ」
向かい合って座っている父の言葉に「大丈夫です」と首を振る。
(一瞬記憶が飛んでいたみたい。疲れているのかしら)
視界の端にちらっと人影が見えた。壁際にいるオニキスだ。無表情のまま直立不動で佇む様子はまるでプレート―アーマーの置物のよう。
(17歳だとお父様が言っていたけれど、随分と落ち着き払っているのね。護衛ってそういうもの? あの幼稚な貴族令息たちと一つしか違わないなんて信じられない)
あの下卑た顔を思い出すだけで胃がじくじくと痛くなる。この醜い火傷さえなければ……と強く思う一方で、眼球への影響を懸念して大がかりな手術を受けられていない。『魔力』を見ることができるこの『右眼』はきっと女神からの贈り物なのだ。
「無くなったメル・ブラッドだが、あれは『満たされないガーネット』と呼ばれていた。持ち主が寝ていると毎晩子どもの声で『お腹が空いた、お腹が空いた』と聞こえてくるのだそうだ。極度の空腹を感じて目覚めた持ち主は、手あたり次第に物を食べる。それこそ腹に詰め込むように大量の食糧を。しかし子どもの声は日に日に大きくなり、持ち主の胃袋も満たされることはない。暴飲暴食の結果、不慮の事故や病に侵されて亡くなるケースが多いそうだ」
「子どもの声を無視することはできないんですか?」
「うむ。ある貴族が『呪いなど恐れるに足らん』とガーネットを手に入れて、一週間の断食を決行したことがあるそうだ。だが三日後、ベッドの上で冷たくなっているところを発見された。死因は栄養失調による餓死。手足は棒きれのように細くなり、顔には『齧られた』痕跡が見つかったそうだ。子どもの歯形だったそうだよ」
「……怖っ……です」
怖い話が苦手なベルは顔を引きつらせて震えていた。
フレイアはロールケーキにフォークを入れ、一口頬張る。生クリームの甘さの中に、細かく刻んだクルミの食感が楽しい。手のひらサイズくらいの量であれば問題なく食べられるが、これを腹に詰め込む量食べるのは大変なことだろう。
「ところでお父様は平気だったのですか? 昨晩、子どもの声は?」
「ああそれだが、仲介人が対策方法を授けてくれたんだ。夜、ガーネットの周りに大量のお菓子を置いていくと子どもの声がしないというんだよ。試してみたらうまくいった。ただし並べておいた菓子は何カ月も放置していたかのように水分が抜けて干からびていたがね」
笑いながらティーカップを傾ける。
小柄な父は平均的な男性よりも痩せている。もしメル・ブラッドの呪いにかかって大量に食糧を接取していたら体が耐え切れなかっただろう。
(ガーネットの近くに置いていたお菓子が干からびる。どうして?)
フレイアは前髪をかきあげて右眼に意識を集中した。目の前にあるロールケーキの切れ端に焦点をあわせる。
すると、ほとんど透明に近いが小さく炎が上がっているのが見えた。
(ロールケーキの材料である卵や小麦粉、ミルクに元々含まれていた微量な魔力がまだ残っているのね。あるいはこれを作ってくれた人の魔力かもしれないわ)
その場にいるベルや父を右眼で見る。それぞれの体から明るいオレンジの炎が上がっているのが分かった。父に比べるとベルの方が何倍も大きいことから、年齢が関係している可能性もある。
父がロールケーキを頬張ると炎が揺らめき、少しだけ勢いが増した。
(なるほど。この炎は『魔力』とばかり思っていたけれど『生命力』でもあるのね。お菓子が干からびていたのはガーネットが生命力を吸い取ったから)
食べ過ぎが原因で死んだ持ち主たちも、餓死した持ち主も、きっと生命力を奪われたのだ。前者は毎晩生命力を奪われたため極度の空腹感を覚えて暴飲暴食、後者は断食したせいで生命力そのものを吸い取られた。
(そんな恐ろしいものを飲み込むなんて……ミリアルは大丈夫なのかしら)
三日間所有しただけで餓死したのだ。
体内に入れて無事が済むはずがない。考えただけで背筋が凍る。
「ところでミリアルのことだが」
父の目が憂いを帯びる。
「いま警察に頼んで行方を追ってもらっている。もし発見時に様子がおかしければ無理に連行しなくていい、場所だけ伝えくれと通知済みだ」
「お父様もミリアルが普通ではない状態だとお考えなのですか?」
「ああ。わたしにはおまえの『鑑別眼』のような能力はないが、長年メル・ブラッドに携わる中で、人知を超えた危険なものだということが分かっている。それを丸呑みにしたんだ。最悪の事態を想定しなければいけない」
父は哀しそうに紅茶を飲み干した。
ミリアルは一年ほど前から務めているメイドだ。家が貧しく、家族を養うためここで働かせて欲しい、と毎日屋敷の門まで押しかけてきたのだ。警備の人間たちと押し問答になっているところへ父が通りかかり、フレイアと同じ16歳と知って、雇うことを決めた。
『あたし一所懸命に働きます。がんばります!』
弾けるような笑顔が愛しくて、フレイア自身も気に入っていたメイドだ。
「わたしの目利きも曇ってしまったものだ。ミリアルの輝くような瞳を見て、この子なら信用できると思っていたのだが」
室内に重苦しい空気が広がる。
ミリアルの裏切りとメル・ブラッドの喪失。この先のことは考えたくない。
「――僭越ながらお伺いします」
オニキスの声が沈黙を破った。
「なんだね、オニキス。なんでも聞いてくれたまえ」
「ありがとうございます。メル・ブラッドの扱いについてです」
反射的に壁の方を見たフレイアは、オニキスの姿を捉えて「あら?」と違和感を抱く。
(体から炎が見えない)
軽く右眼をこすってもう一度見るが、『生命力』と呼ぶべき炎が、彼の体にはない。これではまるで――……。
「リッチ家の家訓ではメル・ブラッドを市場へ流すことはない、と仰っていましたが、ミリアルの一件がなかったとしてその後はどうするおつもりだったのでしょうか。呪いを放置するのは賢い方法とは言えませんし」
「詳しくは言えないが、リッチ家に代々伝わる浄化方法がある。面白半分で扱われ、好奇の目に晒されてきたメル・ブラッドを正しく浄化し、石という本来の形に戻して埋めている。他人の手に渡すことはない」
「……なるほど。ありがとうございます、よく分かりました」
深々と頭を下げると、そのまま退室しようとする。
「待ってオニキス!」
慌てて追いかけるとすぐさま振り向いた。日が落ちて薄暗い廊下にいても、彼の体からはわずかな炎も上がっていない。赤灰色の人だけが鈍く輝いていた。
「御用ですか、お嬢様」
「用事……というほどのものではないけれど、気になることがあるの。貴方のことで」
「はい。どのような」
淡々とした、感情のない声音だ。
「さっきは流してしまったけれど、貴方、私たちの側にいながらミリアルの行動を的確に言い当てたわよね。執事が来ることにも気づいていた。それに『だれに唆されたのか知りませんが、ずいぶんと早まったことを』と言ったわ。ミリアルの性格も素性も知らないはずの貴方がなぜ、第三者の存在を口にできたの?」
「……答える必要がありますか?」
「め、命令よ。私の専属護衛でしょう!? 主に隠し事をするつもり!?」
ムッとして口が滑ってしまったが、すぐに後悔した。
オニキスは無言だが、心なしか不服そうな目をしている。
(あー……やってしまったわ。命の恩人に対してなんてことを。最低だわ)
今すぐ正座してバシバシと床を叩きたい。自分を殴りたい。
「ごめんなさい、言いすぎたわ。貴方の考えていることを全て理解したいだなんて、烏滸がましいことを……許して、この通りよ」
「お嬢様、謝る必要はありません。俺も言葉足らずでした」
手を伸ばし、フレイアの右眼にかかっている前髪を払いのけた。
どきっとして瞬きすると、わずかだが彼の体にまとわりついている炎が見えた。青い炎だ。不安定に揺らめくのではなく、輪郭のようにくっきりとしている。
「俺は生まれつき聴覚が優れていて、この屋敷内くらいであればどんな些細な音でも聞き取れます」
「この屋敷内ぐらい……って、街でも二番目か三番目に大きい屋敷なのよ?」
「もちろん『聞こえる』のと『聞く』のは違います。すべての音を聞いていたらキリがないので普段は聞き流していますが、集中していればミリアルと医師のやりとり、宝石を飲み込むときの唾液や喉の音、窓から飛び出して着地し、どちらの方角へ向かったのか手に取るように分かります」
「ひっ……」
声だけでなく環境音まで拾うとは、とんでもない耳だ。
「加えてもう一つ、お嬢様の『魔晶の瞳』と似た力を持っています。『魔声』です」
「マセイ? 聞いたことがないわ」
「強い魔力を持つもの……特にメル・ブラッドの『声』が聞こえるんですよ。『くらい、おなかがすいた、さみしい』って泣き続ける子どもの声が、いまも……。失礼します」
突然肩を引いてぐっと抱き寄せられた。
(え、え、え!!??)
とっさに身を固くしたフレイアだったが、胸元に抱きとめられることはなく単に引っ張られただけだった。気がつくと床に膝をついている。
「きます」
フレイアをかばうようにオニキスが立ちふさがる。
直後、窓の外に人影が見えた。
――ガッシャン!! と派手な音を立てて何かが飛び込んでくる。
(ちょっと待って、ここ三階……!)
右眼でそれを見た瞬間、フレイアは「ひっ」と声を漏らした。
「おなか……すいた……な」
口からダラダラと唾液を垂れ流し、メイド服のエプロンを真っ赤に染めたミリアルが笑っていたのだ。




