1.吹雪の中の出会い
(もうイヤ! 何もかも!)
フレイア・ディ・リッチは真新しいドレスを引きずって吹雪の中を進んでいた。
雪で湿ったドレスは重く、足先の感覚はすでにない。口の中には雪が入り込み、息をするのも苦しい。
――今日は待ちに待った晴れの舞台だった。王都エルゼリアで国王主催による舞踏会が開かれ、16歳になる貴族の子息や令嬢が一同に集って大人の仲間入りを祝うのだ。多くの者にとっては社交界デビューとなる。この日のために何年も前から衣装を揃え、礼儀作法を叩きこまれ、貴族として相応しい品格を身に着ける。
貴族の子どもなら誰しもが憧れる社交界デビュー、その舞踏会に臨んだフレイアを待ち構えていたのは、泣きたくなるほど惨めで哀しい出来事だった。
数時間前。
フレイアは母親とともに王都で開かれる舞踏会に参加した。
「いいことフレイア。失敗は許されないわ。もし貴方が失態をおかせばリッチ家は没落してしまうのよ」
母マリアは脅すようにコルセットの紐を引っぱった。
腹部がぎゅっと締め上げられたことでフレイアは思わず吐きそうになったが、必死にこらえる。
「わかっています、お母様。この舞台で将来の伴侶となる方を見つけなければいけないのですよね」
というのも、フレイアの父は元々爵位をもたない宝石商だった。財政難の折、国に多額の献金をしたことから一代限りの男爵位を授けられたのだ。父が存命の間は一人娘のフレイアも男爵令嬢として扱われるが、亡くなればそこまでだ。
ゆえに今回の舞踏会に賭けていた。期間限定の貴族であるフレイアは有力な貴族との繋がり――簡単に言えば、結婚相手を早急に見つける必要があった。由緒正しい血統貴族と婚姻すればリッチ家は一生安泰で、それは母マリアにとっての悲願であった。
「もしその醜い痕を見られたらおしまいと思いなさい。なんとしても隠し通すのよ」
「……はい、お母様」
フレイアは子どもの頃の火事が原因で顔の右側に火傷を負っていた。額から頬骨にかけて変色し、血管が浮き出ている。右目は白濁しており、物の輪郭がぼんやりと見える程度だ。貴族たちに『キズもの』だと気づかれたら一巻の終わり。この火傷を隠すために念入りに化粧を施し、長く伸びた前髪で覆い隠すようにしていた。すべてはリッチ家の為、母の為。
だが涙ぐましい努力は一瞬で台無しになってしまった。
「みんなみろ、この醜い火傷を。こいつは悪魔に呪われている!」
会場に入って間もなく、初対面の令息がずかずかと近づいてきたかと思うと綺麗に整えていた前髪を無造作に掴み、皮膚をさらしたのだ。
「悪魔め、うまく隠して我々貴族の懐に入り込もうとしたんだろうがオレの目は騙されないぞ!」
前髪を掴んだ指先に力を込める。フレイアはあまりの痛みに悲鳴を上げた。
「やめてください、放して!」
「いいや、やめるもんか。おまえの父親は貴族たちを騙してニセモノの宝石を高値で買わせてるんだ。この詐欺師! 盗んだ金を返せ!」
「お父様は嘘なんかついてない。ちゃんとした鑑定書をつけて正規の値段で取引しているわ」
「信じられるもんか! あの宝石のせいで母上は変わってしまった。何もかもおまえたちのせいだ。醜い火傷の成金令嬢め、ここはおまえが来る場所じゃない! 失せろ!」
「……ぁっ」
――ドン、と乱暴に突き飛ばされて床に倒れ込んだ。肩を強く打った拍子に首飾りの鎖が千切れ、この日のために父が選んでくれた宝石がばらばらと床に散らばった。床には髪の毛が数本抜け落ち、靴は片方脱げていた。真新しいドレスも皺くちゃだ。
頭の中がまっしろになる。
(……ひどい)
怒りと悲しみでぶるぶると震えた。人間に対する行為ではない。これではケダモノではないか。なぜだれも彼を批難しないのだろう。
「……ぷっ、くすくす」
「いいきみ。成金貴族がでしゃばるからよ」
「そのドレスも靴も俺たちの親から巻き上げた金で買ったくせに、図々しい」
だれかひとりでも理性のある貴族が止めに入るかと思いきや、フレイアたちを取り囲む貴族たちは手や羽扇で口元を隠しながら笑い声をあげている。
じつは由緒ある血統貴族たちはフレイアの父のように国への貢献によって爵位を授かった者たちを快く思っていなかったのだ。金を積んで爵位を買った卑しい平民だと蔑み『成金貴族』と影でバカにしていた。
(信じられない。国の中枢にいる貴族がこんなに野蛮だったなんて)
怒りを通り越して、むしろ不思議だった。貴族には『まとも』な人間はひとりもいないのか。
「――フレイア、なにをしているの!?」
背後から母の声がした。
控室で待機しているはずが、いつの間にか会場に乗り込んできていたのだ。
「お母様――……!」
こんな状況になって申し訳ない気持ちがある一方で、娘の惨状を見て貴族たちに怒りを露わにしてくれるのではないか――……と少しでも期待したのが間違いだった。
「なにをしているの、早く謝りなさい!」
人込みを割ってきた母は、あろうことかフレイアの頭を掴んで床に押しつけたのだ。
「申し訳ありません、バルトレー子爵令息。この度は娘が大変失礼を……」
冷たい床に頭をこすりつけられたフレイアは目の前がチカチカした。
(謝る? なぜ? 私が? この傍若無人な男に? 逆ではなくて?)
これまで母の言うことには素直に従ってきたが、謝れ、という言葉にはどうしても納得がいかなかった。
「君たち、何をしているんだい?」
にやにや笑っていた子息たちの空気が一変した。
人垣がさっと割れて奥から一人の青年が近づいてくる。
「一体何があったのか説明してもらえるかい。バルトレー子爵令息と……君は?」
アレクシス・グランツ・エルバトリ。この国の第三王子だ。18歳。穏やかな雰囲気ながら、凛とした空気をまとっている。くわえて令嬢たちがため息を漏らすほどの眉目秀麗である。
「王子……これは願ってもないチャンスだわ」
ぽつりと漏らした母の目つきは獲物を狙うソレだった。
渾身の力で押さえつけていた腕をぱっと放すと、ぐったりしているフレイアの腕を掴んで無理やり立ち上がらせる。ささっと前髪を直すと深々と会釈した。
「殿下。大変お見苦しいところを失礼しました。わたくはマリア・ディ・リッチと申します。この子は一人娘のフレイア――」
猫なで声で王子に取り入ろうとしている。
(……ふざけるんじゃないわよ)
フレイアの中が何かがプツッと切れた。
「放してください」
ぱしっ、と母の手をはねのけた。
乱れたドレスをそのままに裾を掴んで王子に会釈する。最低限のマナーとして。
「ごきげんよう殿下。このような醜態で舞踏会を台無しにしてしまい申し訳ございません。本当に最悪な夜でした。わたくしはこれにて失礼いたします」
くるりと背中を向けて歩き出す。
「え? レディ、ちょっと待ってくれ……!」
呼び止める声から逃げるように走り出した。
(もう終わりね。なにもかも)
片方の靴もぽいっと脱ぎ捨てて素足で外に出る。空は分厚い雲に覆われ、ちらちらと白い雪が舞っていた。
いまになってじわりと熱いものがこみあげてくる。
(ぜんぶ終わりにしたい。最後は、自分の意思で)
フレイアは雪に誘われるように駆けだした。
郊外に出ると猛吹雪に見舞われていた。
吹きすさぶ雪。積もった雪に足をとられてうまく歩けない。息をするたびに肺の中が冷たく感じる。いま自分がどこにいるのか分からない。
ゴゥッ、と横殴りの風が吹いた。
「きゃっ!」
足をとられて倒れ込む。もう手足の感覚がない。立ち上がる気力もない。どうせなら、と手足を伸ばして雪の上に大の字で寝転んだ。地面が冷たいせいで、顔に降り注ぐ雪はむしろ暖かく感じた。
「……もう、つかれちゃった」
目を閉じると思いのほか静かだった。
(天国にいらっしゃるという女神ルシカ、いまそちらへ参ります)
何も聞こえない。
何も見えない。
分からない。
体の感覚がなくなり、雪と同化していくようだ。
すべてが白く染まっていく――……。
「フレイア、おきて」
やさしい、やさしい声がした。暖かな手が雪と同化した顔の輪郭をなぞっていく。凍りついていた睫毛の雪が解け、フレイアはゆっくりと目を開けた。
(……だれ)
目の前に青白い光が見えた。天国からの迎え火かと思ったが、中心にいるのは見知らぬ少年だった。金色の髪が風にあおられ、吸い込まれそうな青い瞳でフレイアを見つめている。どこか哀しそうな笑顔だ。
「フレイア、きみは、生きなくちゃダメだ」
両手で頬を包み込むと火傷の痕に優しく口づけを落とした。




