そつぎょう / 地獄の底で
嘘は得意だった。
相手の前で自分を偽ること。それらしい笑みを浮かべて、場に溶け込むこと。
物心ついたときから自然としていたそれらの所作が、嘘偽りの類いであることを彼女は後から知った。自分は全く楽しくないのに笑い、相手の感情に寄り添えないのにそのように振る舞うこと、それがどれだけ相手のことを想い、集団に馴染もうとする努力であっても、自分に嘘をついているのは事実だった。
とはいえ、その事を彼女は決して「悪」であるとは思っていなかった。
何故ならそうすることで、相手が喜んでくれていたからだ。
真美は自分が施した髪型を褒めると嬉しそうに顔を綻ばせて、自分のことを強く抱きしめてくれた。成績で伸び悩んでいつもくよくよしている洋子を慰めて、彼女の泣き言を最後まで聞いてあげると、彼女はほっとしたように笑ってくれた。美奈がホログラムで新しい服を考えたとき、その美しさに賛同すると彼女は誇らしげにした。
鍛錬で跳び上がるようにして戦いを披露して見せる蓮を拍手すると、彼は照れくさそうに頭を掻いた。いつも勉強をしている伸介が調べた知識を披露したとき知らぬ振りをして感心すると彼は密やかにそれを喜んだ。健二と真が二人で聖子先生を出し抜いて施錠された部屋を抜け出して皆でゲームをして楽しそうに笑うと、自分たちはゲームが出来なくても二人は大喜びした。
桂子が、なずなが、嘉穂が、千鶴が、可憐が、御子が、栞が、璃子が、絵美が、遙人が、颯太が、翔太が、一馬が、隼人が、春也が、洋介が、宗佑が、弘樹が、一也が、雅大が、孝が、勇太が、秀樹が、――――仲間達が笑ってくれた。
「しずく」
「はい、蓮様」
だから雫は嘘をついた
「ごめ、ん。俺、だめ、かも」
「大丈夫です。蓮様。いつものようにすぐに元気になります。また一緒に遊びましょう」
「真美、を……」
「大丈夫です。彼女とはずっと一緒に居ます。だから安心して、病気を治しましょう」
そうはならなかった。
蓮は奇妙な斑点で埋め尽くされて、かつての快活さを失って死んだ。
「しず、くちゃん。しずくちゃん……」
「はい、洋子様」
雫は嘘をついた
「……どうして……痛い……痛いの……どうして、治らないの」
「大丈夫です。聖子先生が上に頼って、特別な薬を用意してくれることになりました。きっと洋子様の病も、あっという間によくなります」
そうはならなかった。
洋子は痛みに苦しんで、泣いて泣いて、最後には綺麗な鈴の音のようだった声とはかけ離れたうめき声を上げながら、死んだ。
「しず、く……!」
「はい。伸介様」
雫は嘘をついた
「ごめ、ん、間に合わなかった……気づけなかった」
「大丈夫です。伸介様。」
「もし、もの時は、僕の………ベッドの………」
「わかりました。でも、大丈夫です。きっと、もしもの時なんて来ません。よくなります」
そうはならなかった。
聡明だった彼は、最後には意識ももうろうとして、言葉にならないようなうわごとを繰り返しながら、死んだ。
雫は嘘をついた。
雫は嘘をついた。
雫は嘘をついた。
嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を、嘘を――――
「しずく」
「真美様。大丈夫ですよ」
雫は嘘をついた。
「蓮様ももう、回復に向かいました。ピンピンとしていらっしゃいます」
雫は嘘をついた。
「洋子様も、伸介様も、真様も、皆皆、元気になっています」
雫は嘘をついた。
「新しい薬が届いたのです。見る見るうちによくなっていきました。」
雫は嘘をついた。
「だから、真美様も――――」
雫は嘘を、つけなかった。
声が出なかった。いつもすらすらと出るはずの嘘が出てこない。喉が痙攣する。お腹の中が自分でもビックリするくらいに冷たいのに、鼻の奥は痛いほどに熱い。雫は今どういう状態なのか自分でも理解できなかった。
「だいじょうぶよ」
そんな彼女の頬を、真美が触れた。いつもの優しい彼女の手の平だった。今は酷く青白くて、痩せていて、それでも暖かい彼女の手だった。
「ありがと。あんしんした。だから、もういいのよ。」
ひび割れた唇で彼女は微笑む。血が流れた。拭き取ってあげなければ。そう思っても、身体が動かなかった。頬に触れる彼女の手を、手放したくはなかった。
「うそついて、そんなふうにわらわなくて、いいの」
それだけを言って、彼女の手の力は抜けていった。
背後で、医者達が慌ただしくなにかを叫んで、ベッドに眠る彼女を連れて奥の部屋へと入っていった。他の29人の仲間達と同じように、連れて行かれた。
雫は一人、彼女の温もりを求めるように虚空に手を彷徨わせて、しかしそこには誰も居なかった。誰も居なくなった医務室で彼女は暫し座り込み続けた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
学校の職員室は、実質的に聖子一人のものだった。
学校の教師は彼女一人だ。外部の演習時に時折自警部隊の兵士達と鉢合わせることはあったとしても、彼らとの接触は最低限で済まされる。子供達の存在自体、上層の住民達には秘匿情報だからだ。
最深層にいる職員達は「学校」の子供達を全員知っているが、彼らとて定期的な健康診断などのタイミング以外では決して必要以上に接触することはない。
「学校」の大人は彼女一人で、教師も彼女一人だ。
だから職員室に入って来るのは生徒達だけで、そして今は、入ってくる者は殆ど居ない。子供達は一人を残して居なくなった。
だから、扉が開いた瞬間、誰が来たのかは聖子にはすぐに分かった。
「雫様、どうされました――――が」
そして、次の瞬間、聖子は自身の肩に激痛が走り、彼女は地面に転がった。銃で撃たれたのかとも思ったが、彼女の肩に突き刺さっていたのは、恐ろしく細く、鋭く、そして冷たい”氷の針”だった。
「【氷棘】……とても、上達、したんですね、雫、様」
痛みを堪えながら起き上がる。雫はいつも彼女が浮かべていた微笑みを拭い去り、一切の感情が消え去った無表情で此方を見つめていた。聖子はそれこそが彼女の本当の顔であることを知っていた。
「彼女の病を治してください」
淡々と、雫は告げる。聖子は彼女が、真実にたどり着いたことを理解した。
「私達が仕掛けたものと、突き止めたのですか?」
そう言って彼女がぱらりと一枚のメモを落とす。電子情報ではない、今時は殆どない手書きのメモだ。それを書いた伸介が、電子データで情報を残すことが危険であると察していた証拠でもある。全くもって、優秀な子だった。
「何重ものセキュリティとダミーを突破したのですね。本当に素晴らしい子供でした。」
「止めてください」
雫は聖子の賞賛を無視して、再び指先を向けた。再び透明の針が彼女の腕に突き刺さる。音も無く、詠唱もない。しかも狙いは徹底的に急所を外し、此方に痛みを与えるためだけの攻撃を繰り返している。
恐ろしい精度だった。訓練で彼女はこれほどの技術を見せてはいなかった。真美の後ろを見て眺め、時折洋子に唄による詠唱の仕方を教わって、それでも失敗の方が多かった。
あれも、周りを立てるための彼女の嘘だったのだろう。
と、なると、既に自分では彼女を止める力は無い。聖子はそれを理解した。
「何故止めて欲しいのですか?」
だから、初めて嘘偽り無く、雫に尋ねることにした
「突き止めたのなら、理解しているでしょう。これは世界の救済に必要な実験です」
何の罪も無い子供達を、次々と病によって殺すあまりにも惨たらしい所業も、別に、望んでしているわけではない。
「イスラリアに対抗するために人類が編み出した苦肉の策」
イスラリアへの反攻作戦。太陽神ゼウラディアを統べる彼らに抵抗し、彼らが垂れ流す汚染物質を止め、世界に平穏を取り戻すための唯一の解決策の為の手段をとっているに過ぎない。
彼らの残酷は手段であって、目的ではない。
彼らの目的はただただひたすら、人類救済のためのものである。
「貴方の生まれた目的を考えるなら、止めるなど、もってのほか。違いますか?」
ならば、雫は拒否する理由はないはずだ。
彼女はその為に生まれたのだから。その為に生きてきたのだから。彼女のために死亡した30人の子供達も、その為に生まれ、育てられた。
家畜の育成のようだと揶揄した研究者がいたが、彼女の物言いは正しい。その為に生まれ、育てられ、そして殺された。人の役に立つために生まれた生物がその生命を全うすることに何の問題があるのか。それを良しとした彼女が、何故疑問に思うのか。
「何故止めたいのです」
雫は硬直した。呆然と、感情のない顔で、答えを探し求めていた。一番最初の頃、誰とも親しくする前の彼女と全く同じように、沈黙し、自分の内側を探り、そして答えを導き出した。
「……失いたく、ないから」
彼女は、そう言った。辿々しくも紛れもなく、彼女自身の内からの衝動だった。研究者の誰も与えていない、誰の模倣でもない彼女自身の言葉だった。
「素晴らしい。良かった。間に合って」
聖子は、そんな彼女を見て優しく、本当に嬉しそうに微笑みを浮かべた。多分、教師として勤めてから初めて、心の底から浮かべて笑顔だった。聖女のような、母親のような、美しい笑みではない。浅ましくも、心から安心した罪人の笑みだ。
「真美様を治してください」
雫は繰り返し問うた。だが、聖子は首を横に振る。
「残念ながら、つい今しがた、お亡くなりになりました――――があ!?」
透明の針が幾つも彼女を貫く。
雫の望みは潰えた。にもかかわらず彼女は聖子を攻撃する。それは痛めつけるための攻撃だった。彼女の心の奥底から湧き出る衝動そのものだった。ああ、良かったと納得した。
彼女は、人となったのだ。
だから、と、聖子は血塗れの指先で、ゆっくりと千切れた自分の服を引き裂いていく。彼女の素肌が露わになる。血で汚れた白い肌。そして、下に薄らと浮かぶのは――
「それ、は」
「私も実験の対象者ですよ。雫様」
クラスの友人達を苦しめ続けた病の発疹だった。
ただ一人、シズクのみを傷つけないその病は、一切の例外なく彼女もまた侵していた。苦しめ、呼吸を狭め、痛みを与え、宿主に諦めを与えるためだけに創られた悪意の病は彼女を蝕み続けてきた。
それでも苦しみを決して口に出さなかったのは、己の罪を知っていたからだ。
「ずっと嘘をついて御免なさい」
自分と同じ境遇の子供達を、見殺しにすると決めたからだ。
「身勝手な事を託します。どうか、貴方が、貴方こそが」
血にまみれた手足を引きずりながら、雫へと近寄る。縋り付くようにして、聖子はただひたすらに祈った。
「世界を救って」
最後にそれだけ言って、彼女も死に絶えた。




