邪悪をあがめる者たち②
螺旋図書館の地下深く、そこに自分がたどり着けるかどうかは正直なことを言えば怪しかった。そこを管理するのは希代の魔術師グレーレであり、そして自分の体質はあくまでも魔術の類いを無効化する力しか無い。
迷宮よりも遙かに複雑な魔窟なのだ。
「あら、こんにちは。よくきてくれたわねえ」
だから、あまりにもあっけなくこの場所にたどり着けてしまったのは、自分の潜入技術故とはとても思えなかった。無数の封印術式によって拘束されているこの邪悪なる女が、自分を此所へと誘った結果だとミクリナは理解していた。
それを承知の上で、ミクリナは尋ねた。
「……私のことを覚えているか」
浅黒い緑の髪、少女と言っても良いような若い女。捕まったときは首が跳ね飛ばされたと聞いていたが、今の彼女には身体があった。しかし首から下は無数の封印札によってグルグルに固められて、身じろぎ一つ取れぬように封じられている。その状態で彼女は牢獄の中で嗤っていた。
その姿に哀れみは覚えなかった。異様な嫌悪感が次々と湧き上がってくる。
「覚えてるわよ?ミラちゃんでしょう?」
ミラ、というのは自分の本名だった。もう何年も前のことだったが、彼女は自分のことを覚えていた。かつて家族もろともに、都市間の移動中だった自分たち一団をまるごとに捕らえて、全員一人残らず禍々しい実験の材料にした邪悪。
自分だけが生き残り、他の皆は悲惨な姿となって死んだ。ミクリナは嫌悪と憎悪を押さえつけるのが難しかった。大きく息を吐き出しながら、彼女はゆっくりと問うた。
「【消去体質】上手く機能していてよかったわ。大変だったのよ?貴方に定着―――」
「【邪教徒】、お前達の目的はなんだ」
「なんだったっけ?」
蹴りつけた。鉄格子の間には指を突っ込んだ瞬間、攻性魔術が迸る仕組みだったが、ミクリナには通じなかった。小人の体軀でも届く所に顔面があって、助かった。
「ひーどーいーわね、鼻血出ちゃった」
ボタボタと流れる自分の血を見て、ヨーグはやはり嗤う。何でも無い、というようだった。まあ、そうだろうなとは思う。真っ当な生物としての反応を期待なんてしていなかった。
「何かを得ようとするでもなく、ただただ周囲を害そうとする目的はなんだ」
「皆が皆、思い思いに世界を壊そうとしているだけよ?」
「お前もそうだと?」
「違うわよ?」
もう一度殴ると、ヨーグはゲラゲラと嗤った。やはり会話が通じると思ったのは間違いだったか。だが、そう思っているとヨーグは、何かを思い出すように虚空に視線を彷徨わせながら、言葉を吐き出した。
「私はねえ…………―――――ああ、なんだったかしら」
「貴様」
「ふざけてるわけじゃあ、ないのよ?」
ヨーグはこちらを見る。
「ながあぁぁぁあいこと、生きてきたわ。無理矢理、ねえ。おかげで、頭がぼんやりするの。ああ、でも一つだけ、ハッキリしてる」
「何が―――」
「かわいそうなの」
ぽつりと、ヨーグが言った。
「こんな救いようのない世界で、真っ当でいようとするなんてかわいそう。かわいそうだよ。だから、せめて救いをあげたいって、そう思うの」
その表情にあったのは、慈悲と慈愛だった。
哀れみ、慈しみ、涙を流しながらそう訴えている彼女の姿にミクリナは戦いた。壊れている。わかっていたつもりだった。自分の人生をメチャクチャにしたような女なのだからそうなって当然だと想っていたが、しかしそれにしたって、何故にここまで壊れているのか。
こんな有様になってまで周囲に害をもたらそうとするコイツラはなんだ?
「何なんだお前たちは…」
「だから思い出せないって言ったじゃなあい…………ああ、でもまってね」
ぴたりと、涙を流すのをとめて、不意に首を傾げる。
「……もう少しで思い出せそう、かも?」
言葉を待つ。だが、そうしていく内に、カツン、カツンと、地下に足音が響いた。ミクリナはギョッと身体を翻す。近くに来ていたことに気づかなかった。ヨーグの言動に惑わされすぎていた。そして自分は言い訳の余地もない不法侵入者だ。
どこかに身を隠さなければ、と、そう思うよりも速く、その者は姿を現していた。
「ま、さか……!」
「あら、王様――――」
偉大なる王
天賢王アルノルド・シンラ・プロミネンスが姿を現した。何故ここに?たった一人で?彼もこのヨーグを知っているのか?そんな様々な疑問が頭を過って動けなくなっている間に、天賢王は動いた。
「【天罰覿面】」
右の拳を握りしめ、振り上げる。輝く巨大な巨神の腕が地下牢に出現した。それはまっすぐに、こちらを睨み付けている。バベルの塔の秘中とも言えるこの場所に無断で入ってきた自分へと向かって。
「……!!」
身体を庇うが、無意味だろう。あらゆる災害から都市を守ってきた神の御手から、逃れる術も無い。ミクリナは観念して、自分が粉みじんになるのを待った。
「あら、おっしい」
「え!?」
だが、拳は自分にはたたき込まれなかった。自分の後ろ、背後に迫っていたモノ。密やかに、壁を伝うようにしてヨーグの身体から伸びた影、その触手を、王の手は粉みじんに叩き潰したのだ。
それを見て、ヨーグは悔しそうに言った。
「もうすこしで、この子をもういっかい、台無しに――――」
「沈め」
そして、再び激しい音が鳴る。ヨーグのいた場所に拳がたたき込まれ、血だまりが出来ていた。ピクピクと肉塊が痙攣している。まだ生きているのだろうか。
そして、状況を理解できた。不敬にもバベルに侵入した自分を、王は守ってくれたのだ。
「あ、あの、わ、私、は」
お礼を言うべきか、逃げるべきか、判断に困った。だが、この地下牢の中にあっても眩く輝いて見える王は、こちらの様子を暫く観察した後に、踵を返した。
「来なさい。此処は危険だ」
ミクリナには、それに従う以外の選択肢は無かった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「休暇はどうだった」
「…………」
無言でいるミクリナに対して、ドートルはため息をはいた。彼は自分の休暇中の行動をおおよそ把握している。まあ、まあ、ロクなものでは無かったのだろう。と、すぐに想像できたのだろう。
「言っただろう。徒労と。これ以上不必要に命を危険に晒すのはよせ」
実に真っ当な忠告だった。しかし、ミクリナは首を横に振った。
「いえ、そうでもありませんでした」
「……ふむ?」
そうではなかった。
今回に限っては無駄な徒労ではなかった。
―――帰りなさい。今日のことは忘れるように。そしてもう、戻ってきてはならない。
あの後、本当に何事も無かったかのようにミクリナはバベルの塔の地上部まで戻された。いくつかの魔術による検査と確認、そして口外禁止の制約を受けただけだ。悪辣で不敬なる侵入者に対しての境遇としては異様だった。理由を尋ねると「バベルの存在しない場所に入ってはならないという法は無いからだ」などと、冗談なのか本気なのか天然なのか分かりかねる回答が帰ってきた。
―――邪教徒とは、一体何なのでしょうか。
咄嗟に、ミクリナは尋ねた。
不法侵入した上で助けられて、挙げ句の果てに質問をぶつけるなんて、厳しいと名高い天剣でもいたら確実に殺されるだろうという気がしたが、もうなるようになれという気持ちだった。
―――言えぬ。すまない。
返ってきた答えは、誠実だった。はぐらかすわけでも無い。無視するわけでも無い。ただ、答えられないからそう言ったのだと分かった。こんな自分に対しても、王はどこまでも誠実だった。
―――何故知りたい。
―――私のような者が、あのような者が、もう出ないで欲しい。それだけなのです。
だから、正直にミクリナも答えた。
―――私もそう願う。だから、今少し待っていて欲しい。
そう言って、子供を相手にするように自分の頭を撫でる王は、父に少し似ていた。
「さて、仕事だが、どうする。小間使いのようなものばかりだが」
「……世間に、多少は貢献できる仕事があるなら、それを」
「…………殊勝なことを言うな」
ドートルは少し奇妙な顔になった。だろうな、と思う。邪教徒から助け出されてから、割とミクリナはこの世界に対して敵対的だった。自分の家族を救ってくれない国に対しての、敵意もあった。邪教徒のようにならなかったのは、自分の家族を殺した彼らのようになりたくないという嫌悪でしかなかった。
だが、それが今は少し薄れていた。
「今は、そういう気分なだけです」
「よろしい。では白銀殿から回された仕事が幾つか―――」
「それはいやです」
何はともあれ、ミクリナは仕事の日々に戻った。
そしてそれ以降、自分自身を蔑ろにするような無茶な仕事は、彼女も避けるようになったのだった。




