色は嗤い、怒は眠る②
竜吞ウーガ ウルの寝室にて
《にーたんへーきかな?》
アカネは、ベッドに横たわった自身の兄の寝顔を覗き込んだ。外から見たウルの表情は特に何ら、変わり在るように見えない。身体を微動だもせず、深く深く眠っている様に見えていた。
「さて、どうかな」
しかしそれは眠っているのではなく瞑想に近い状態だった。それを導いたディズは、ウルの頭を自身の膝に乗せながら、アカネの問いに答えた。
「自身の中の大罪竜との対話なんてのは、当たり前だけど前例がほぼ無い。正直どうなるかわからない。瞑想状態の維持くらいはできるけど」
《ディズもいっしょにもぐれん?》
問いに、ディズは悩ましそうに唸る。
「私は一度ウルの魂と接触をしているから、多分ウルの中には潜れる……けど、多分私の気配を察したら、ラストは出てこない」
《きらわれてるなあ》
「好かれる可能性皆無だからね」
ディズはウルの額に触れながら、ウルの耳元に口を寄せ、囁く。
「気をしっかり持ってね、ウル。君は既に色欲を支配しているんだ。気圧されないで」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ウルは自身の精神の内側でなんとか意識を持ち直していた。
何かに勇気づけられたような気がした。ウルの瞑想状態の補助をしてくれるディズのおかげかもしれない。ウルはそれに感謝しながら首を振る。身体にまとわりつこうとしていた暖かな闇を振り払った。
まだこの空間から追い出されるわけにもいかない。色々と聞けていない部分が多すぎる。
「星海ってなんだ」
『神の 用意した精霊の 巣穴 貴様らにとっての 導』
「もう少し具体的に」
『知 ら ん』
「王の計画をどう思う」
『興味 ない な 』
「魔界ってのはどんな場所なんだ?」
『言わ ぬ そもそも そこまで 知らぬ』
「魔王の悪巧みについて」
『どうでも よい』
やべえ心くじけそう、とウルは思った。
「何故あの時、シズクを狙った」
『我らに 干渉する力があるから だろう ? 詳しくは 知ら ぬ』
「流石に知らん事は無いだろ」
『事実 知らぬ 我は 既に本体の色欲から 完全に別たれた 本体の経験や知識は 断片的だ 」
「思いのほか役に立たねえな」
怪光線が再び奔ったので横っ飛びで回避した。不本意ながら段々慣れてきた。
「お前の力の使い方は?」
『死ね』
「お前、真面目に答える気無いだろ」
『無い な』
なんというか、想像を遙かに超えて協力的では無かった。
ディズ曰く、既に色欲の権能を自在に操れる以上、色欲の魂を我が物としている……筈!と、かなり悩ましそうな表情で言っていたが、全然ラストとの関係が支配関係とは思えなかった。あるいはそういう風に自分が感じているだけで、もっとウルから干渉できることはあるのだろうか。
こればかりは、ディズに頼る訳にもいかない。手探りでやるしかなかった。
「お前は既に俺のものだ」
ウルは、色欲を捕縛する黒槍を更に強く握りしめる。玉座に座るラストを縛る槍の一つが、鋭い刃となってその喉元に伸びた。だが、それでもラストは表情を変えない。
『脅すか 殺したって 構わぬ――――』
刃が喉を掠めるように伸び、玉座の背に突き刺さる。それでもラストは微動だにしなかった。此方を嘲るように見下ろすだけだ。
「……まあ、通じないわな」
ウルはため息を吐き出して、そのまま竜殺しを手放した。
そもそもこの空間で殺したりなんだりしたところでどれほどの影響を与えられるかも分からない。そしてもしも本当に現実と変わらないようなダメージを受けるとしても、ラストが気にするようにも思えなかった。
竜の感性はヒトと違う。そこをまず理解しなければ話にならない。
「お前、なにがしたいんだよ。願望とかねえのか」
『なにも』
「なにもって……」
ウルは眉をひそめてラストの顔を見た。ラストの表情は、先程のように怒りや嘲りと言った感情は拭い去られていた。虚ろな絶望がそこにあった。
『なにもない 心底 どうでもいい 』
幼い少女のような形をしていたラストが、急に年老いた老婆の様に見えたのは気のせいではないだろう。
『勝手に生み出し 勝手に利用し 勝手に排斥し 食い潰す』
『放置したと思えば 掘り返し 利用し また捨てる』
『うんざりだ なにもかも 死に腐れ』
言葉に重みがあるのなら、ウルは潰れていたかもしれない。それくらい、ラストの言葉には絶望が込められていた。それを茶化す気にも、指摘する気にもなれず、ウルは黙ってその嘆きを聞いた。
が、そんな態度すら気に食わなかったのか、ラストは憎悪に満ちた声をあげた。
『哀れむ か』
「嫌なら声に出さなければ良い。悲鳴は相手に訴える為にある」
『……』
「心配しなくても、お前の絶望に軽々しく理解を示すつもりはねえよ」
易い理解や共感は、時に相手を傷つける。
この色欲の竜は、どう考えても自分とは違う生物で、違う生き方をして、違う時間を過ごしている。違うものなのだ。その点をはき違えて歩み寄れば、恐らくこの竜は自分の消滅すら厭わず、此方を殺してくる。
そして、一つ分かったことがある。というよりもウル自身の反省点だ。
「……好きなものはあるか?」
『は?』
ラストは心底怪訝な表情を浮かべたが、ウルは真面目だ。
大罪竜ラストから情報を聞き出す。
必要なことなのは間違いないし、それは戦いのようなものだとウルは思っていた。しかし、その考え方は間違っていたと気がついた。相手から話を聞くのは対話であり、そこには一定の敬意と、交流が必要だ。
嫌いな相手に、ペラペラと口が回る奴はあまりいない。そんな当然の事実に、ウルは改めて気がついた。
「相手の好みを聞くのは、コミュニケーションの基本だろう」
「……」
「おい、心底度しがたいって眼で見てくるな。傷つく」
竜の価値観から見ても大分イカれた応対だったらしい。此方を見るラストの視線は痛かった。世界で最も邪悪なる竜から狂人扱いされるのはなかなか傷つくが、ウルはもう開き直った。
「で、好きなものは?」
『ヒトの快楽 情欲 我の糧となる』
「お前を抱けってか?」
『やってみるか?』
首を倒して、目を細め、足を開いて、ラストは笑う。ヒトとしての形をただなぞっただけの体つきが、嫌に生々しく思えた。変貌した竜殺しに縛られた身体が余計にくっきりとその凹凸をウルに示した。
腹の下を鷲づかみにされるような感覚にウルはぞっとした。目の前の、ヒトからはかけ離れた存在に自分が欲情していることに気がつく。
色欲の力だろう。ウルは此処に落ちる前、ディズに言われたとおり呼吸を整える。此処は心の内側なのだ。肉欲など存在しない。その事実を改める。
目を開いたときには、ウルは落ち着きを取り戻していた。
「……頭おかしくなって死にそうだ。遠慮しておく」
そう返すと、ラストは不愉快そうに顔を顰め、舌打ちした。
『ヘタレが ならば現実で 女を貪れ』
「どれくらいよそれ」
『100 万 人』
「枯死するなぁ……」
『ああ 死ね』
ラストは斬り捨てる。まあ、現時点で好感度最悪の相手との交流がスムーズに進むはずも無いのだが、取り付く島もなかった。
「っつーか、それって飯とかそういう話だろうが。そうじゃなくて――――」
『おはな』
ん?とその時、別の方向から声がした。振り返るが、そこには誰もいなかった。が、足下で何かが引っ張ってくる。
「は?」
下を見ると、背丈のとても小さな、黒いヒトガタがいた。ラストとどこか似通った、形だけヒトのものに整えた姿のその子供は、ウルの裾を掴みながら、玉座に座るラストを指さして、言った。
『ラスト、おはな、すき』
『ラース !!』
ラストは鬱陶しそうに、憤怒の竜の名を叫んだ。




