混沌の只中で
その日のエシェル・レーネ・ラーレイの朝は本当に最悪だった。
身体に重石がのしかかったように重い。頭が割れるように痛い。迷宮から帰って丸一日が経過しているにもかかわらず、身体は重い。
理由は分かっている。精霊ミラルフィーネの力を数年ぶりに引き出した反動だ。
精霊の力は、精霊から分け与えられた、魔術とは違う超常の力。だがいかに奇跡の力であろうと、それを起こすのは自分の身体だ。無茶をすれば反動も強い。まして、エシェルはミラルフィーネの力を忌避していたが為に、長い間精霊の力を起こすことをしてこなかった。
反射的に力の一部を意図せず使ってしまう事はあっても、自らの意思で引き出すのは本当に久しぶりだ。反動は必然だった。
カルカラが用意してくれた回復薬をゆっくりと口に含み少しは回復する。が、体調がいくらか回復しても、気分は全く全然晴れる事はない。
何故かと問うまでもない。竜吞ウーガの魔物化だ。
バケモノのようになった、自分が統治すべき都市。あまりに悍ましいその光景を目の当たりにした時、エシェルは疲労も相まって意識が遠のきかけた。あの不気味な結界のようなものに覆われただけでも卒倒しそうだったのに、あんなのはあんまりだ。
「一日経って、仮神殿の様子は、どうなった……」
エシェルの問いに対して、カルカラはいつも通り淡々とした表情で回答した。
「駐留している名無しを護衛として使って、3割ほどが早々に逃げ出しました。残りも恐慌状態になっています。いつ逃げ出すか」
「……そうか」
その事に驚きはしなかった。あの異常事態が起こって間もなく、神殿の【従者】達は恐慌状態に陥っていた。
彼等は確かに不真面目でいい加減な連中だったが、もし彼等が真っ当な従者達だったとしても、こんな事態になったら普通逃げるだろう。エシェルだって自分がこの場の責任者でないならそうしている。
「カルカラは、どうする」
「私はまだ使命があります。そもそもエシェル様を置いて逃げることはありません」
「……すまない」
カルカラのいつもと変わらぬ態度にエシェルは力なく微笑んだ。
彼女とも長い付き合いだった。
エシェルが天陽騎士になるよりも前、実家に居た時からだから、もう十年以上になる。
幼くして邪霊に憑かれたが故に苦しい立場に居た彼女とずっと共に居た。血の繋がった家族よりも、ずっと長く一緒に居たのは間違いない。兄弟姉妹達からエシェルへと向けられた悪意の巻き添えになった事も少なくは無かったが、それでも今日までその献身に揺らぎはない。
そしてエシェルに代わり神官としての任務をこなす彼女に深く感謝しているし、信頼していた。いつも無愛想で、言葉が結構キツくて少し怖いが。
「エシェル様?」
「いや、少し、昔を思い出しただけだ」
「昔からエシェル様と一緒にいると、いろいろな事に巻き込まれましたが、ここまで酷い事になったことは初めてだったと思います」
「ああ、全くだ……精霊から授かった力の実験台にされたときよりも酷い」
「実験にかこつけてエシェル様を亡き者にする気だったのかと思いましたよ、アレは」
真顔で言い放つカルカラにエシェルは少し顔を引きつらせながら笑った。実際、冗談ではなく、その可能性はあった。エシェルの家族、血の繋がっている筈の者達のエシェルへの態度は、嫌悪というよりも憎悪に近い。殺すつもりだったと言われても、エシェルは驚きはしない。彼女にとって家族とはそういう関係だ。
だからこそ、余計にカルカラに頼ってしまうところはあった。
だからこそ、今彼女に依存するわけにも、頼りっぱなしになるわけにもいかなかった。
ただでさえ、ウーガの都市建設から、避難後の仮都市の補強や気紛れにやってくる魔物達の対処には彼女に頼らざるを得ないのだ。せめて、少しでも結果を出さねば。彼女にも、誰にも顔向けできない。
そう言い聞かせて、エシェルはなんとか立ち上がった。
「ウル達を、呼んでくれ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
仮神殿、執務室
「…………えっらいことになったな」
なんとか回復し病室から抜け出したウルは、現在の状況を雑に一言でまとめた。
えらいことになった。と言う他ない。ウルの激動の人生経験の中でもこのような状況に遭遇したことはない。他の連中だってそうだろう。いや、それどころか銀級や金級の冒険者だって経験したことなんてそうそうないだろう。あってたまるか。
都市が、人類の生存圏が、魔物になるなどと。
「ウーガの様子はどうなんだ?」
ウルが問うと、シズクが頷く。ウルが完全に回復するまでの間、調査を行なっていたのは彼女だ。
「遠目で見たときと同じです。防壁に発生した眼球のようなもので周囲を見渡す以外、コレといった動きはありません。あの黒い結界のようなものも引き続き健在です」
「中には入れない?」
「音で確認する限り、物理的な障壁は確認出来ませんので、今までと同じ正門から中には入れるかと。ただし、以前と比べ、中が大きく動き続けています」
『まさに、生物の腹の中じゃったのありゃ。ま、いきなり胃液で溶かされることはなかったから安心せい、カカ!』
シズクの指示で、先んじて中に調査に向かったロックが笑う。こういったとき、身体が欠損するような大怪我も容易く修繕可能なロックの身体は便利だった。
「暁の大鷲にも話を聞いてみましたが、向こうも混乱しているようでしたし、そもそもこの状況自体、彼等にとっても未知のようです」
「だろうなあ…」
シズクの報告にウルは納得する。この状況への理解、知識がある者は多くはいまい。そもそも暁の大鷲は通商ギルドだ。魔物退治の専門家は別だ。
「白の蟒蛇の連中はどうだった?」
「彼らのキャンプ地を覗いてみましたが、誰も居ませんでした」
「……まさか、都市の異変の時に中にいたとか?」
彼らはあの竜呑都市ウーガを中心に魔石狩りを行なっていたのだ。その可能性は十分あり得るだろう。しかし彼女は首を横に振った。
「少なくとも、帰ってきていたのは他の名無し達が目撃していました」
「なら逃げた?」
「キャンプ地に資材は置いてありました。全てを放置して逃げ出したとも思えません」
「うーん……」
出来れば魔物狩りのギルドの意見を聞いておきたかったが、いない者をアテにしても仕方がない。ウルは白の蟒蛇は思考からひとまず除外した。
「仮神殿、此処の状況はどうなった?」
ウルが問う、エシェルは顔を上げた。その顔色はすこぶる悪い。ロクに身体を洗えていないのか髪もよれよれだ。正直無理はするな、と言いたいが、状況はそうさせてもくれない。ウルはのどから出そうになった配慮の言葉を飲み込んだ。
エシェルも今は無理をしなければならないと分かっているのだろう。なんとか顔を上げ、ウル達を見た。
「状況は、最悪だ。名無しも従者も次々に逃げ出している。今残ってる連中も、じきに逃げ出すか、あるいは都市外に逃げ出すための手段が見つからないだけだ。この場所は崩壊していると言って良い」
「……本当に最悪だな」
「都市建設の再開は、諦めるほか無い……元々、もう無理な話だったけどな」
エシェルは自嘲する。その引きつった笑みは実に痛々しかったが、ある意味で肩の力が抜けて、少し楽そうでもあった。今にも崩れそうな砂上の城を支えようとして、それがいよいよ崩れたのだ。ある意味、楽になった所もあるのかも知れない。
「……大罪都市グラドルの天陽騎士団に連絡を取る。異常事態につき、都市の迷宮化の解除は困難と連絡し、判断を仰ぐ」
「いいのか」
「良いも悪いもない。選択肢は残ってない。私は失敗の責任を取るだけだ」
エシェルは弱々しく微笑む。確かに現状、エシェルがとれる手段はそれくらいだ。元々、ギリギリのバランスで成り立っていたのがこの仮都市だ。少しでも崩れればこうなることは予想は出来ていた。
せめて、従者達がちりぢりにならなければ、まだ選択肢もあったのかもしれないが――
「エシェル様」
と、そこで、沈黙していたシズクが口を開く。彼女は視線をエシェルの方ではなく、部屋の隅、何も無いところを見つめていた。まるで虚空を見上げる猫のような動作だが、彼女がこうしているときは、ウル達には聞こえない“音”を拾ってるときだ。
「良いニュース、となるかわかりませんが、連絡します」
実に嫌な前振りと共に、彼女はソレを告げた。
「逃げ出した従者達が戻ってきています…………傷だらけの姿で」
「…………………は?」
エシェルに降りかかる災難は、未だ途中であると彼女は間もなく知ることになる。
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