【番外編⑧】兄の人生も、わりと波乱に満ちている
ただ、騎士団ではそんな不真面目な者が居れば士気にかかわるため、一定の見習い期間がある。その間に腑抜けた人間は徹底的に厳しくしごかれ、根性を叩き直されるか自ら退官していく。
宰相閣下とイアンは忙しすぎて新しい人員の人間性をじっくり見極める時間も、しごいて悔い改めさせる時間もない。結果的に希望者はとりあえず採用し、使ってはみるが裏切られてばかりいる状況だ。
アイルトンはイアンの苦境を何とかしてやりたいが、どうにもならずため息をついた。
(だって俺が手伝うのは絶対に無理だしなぁ……)
彼は書類仕事がこの上なく苦手である。かつての洪水の際、王家へ支援を依頼する嘆願書の書類など全くわからず、兄と妹に全部頼む羽目になったくらいだ。
(ん?)
ここでアイルトンは閃いた。洪水から二年余り。領地は順調に復興しており、父と兄を手伝っていた妹の手もそろそろ空いてきた筈だ。
「なあ、新しい秘書なんだが女性を雇うのはダメか?」
「女性……は、ちょっと」
イアンは渋い顔をした。
「サムはあの容姿だろ。今まで仕事にかこつけてすり寄ってきた女性も沢山いてな。女性に秋波を送られる行為にうんざりしてるんだ」
「ああ、それなら心配ない。妹はあの夜会の事件のせいですっかり男嫌いになってるんだ。だから職場で恋愛沙汰になんかならないさ」
「え?」
友人の動きが止まる。黒縁メガネの奥にある琥珀色の瞳が真ん丸になった。
「妹って……まさか、あのアマリア・セーブルズ伯爵令嬢か!!」
「まさかも何も俺に妹は一人しかいないぞ? アマリアは親父や兄貴の手伝いをしてる。真面目で几帳面な方だし、嘆願書を書いた経験もあるから俺と違ってきっと役に立つ筈だ!」
「……」
イアンは紅茶のカップを口元に運ぶと、機械的に中身を飲み下し、ぶつぶつと独り言を始めた。
「いや……でも確かに……だが、男嫌いだと……?」
そうして暫く後に、急に真剣な面持ちになってアイルトンにこう言ったのである。
「よし、明日サムに提案してみる。けれどサムが承諾するかはわからない。とりあえずアイルの方でも妹君にその気はあるのか確認して欲しい」
◇
このアイルトンのアイデアは長期的に見ると大成功だった。現在の妹はエドガーと婚約した時とは比べ物にならないほどの幸せを掴んだのだから。
しかし短期的に見ると大失敗だったと当時の彼は思っていた。
確かにアマリアは仕事は抜かりなくやったようで、イアンも宰相閣下も大変喜んでくれた。
だが秘書の仕事にも慣れてきたと思われし頃。アマリアは休日に珍しくお洒落をして出掛けたが、エミュナに付き添われて帰ってきた時には涙の跡を頬に残し、酷く憔悴していたのである。
アイルトンはその様子を見て、あの夜会の記憶が甦り、ゾッとした。また妹が不埒な男に襲われたのかと思ったのだ。
「アマリア? どうした? なにがあったんだ?」
何度訊いても妹は俯いて答えてくれず、アイルトンは大型犬よろしくオロオロしながら彼女の周りをうろついた。
と、突然下方から耳をギューッと引っ張られる。
「イテテッ。なんだよエミュナ……」
痛みを逃すため腰を軽くががめると、ちょうど耳がエミュナの顔の辺りに近づく。そこに彼女は囁いた。
「大丈夫よ。軽く失恋したようなものだから」
「失……!? えっ、だってアマリアは男嫌いで」
「いいから。これ以上デリカシーの無い質問はしない! 放っておいてあげて!」
「……うぅ。わかった」
妹の親友であり、自分の愛しい婚約者でもあるエミュナにそう言われてアイルトンは黙らざるを得なかった。
そしてその後妹は気晴らしのために庭で鍛練を始めたのだ。
「えーい、どっせい!」
かつてアイルトンが護身術として教えた背負い投げだが、どうやら領地復興の合間にもストレス解消を兼ねてずっと練習をしていたらしい。
もう少しアマリアの体格が良かったら女騎士にもなれたのではないかと思うほど、技が磨かれて完成度が上がっている。
エミュナに「なに、あれ?」と訊かれ、アイルトンはため息をこぼした。
「もしも変なやつに捕まっても投げ飛ばせるように俺が教えたんだが、正直失敗したと思ってる……」
「ええ、そうかもね……」
エミュナが自分を見る目の冷たさに、流石にガサツなアイルトンも「なんでそんなものを教えたの? やっぱりガッカリな兄ね」と言いたげなのがわかった。
◇
その後暫く経ってから。再びアイルトンは妹を秘書に推薦したことを後悔した。「アマリア・セーブルズは宰相閣下の秘書だが、実情は愛人である」という下劣な噂を耳にしたからだ。その噂を彼に話した人物にはきっぱりと否定したが、それだけで噂が消えることは無いだろう。
自分の耳に届いたということは、おそらくイアン・キューテックもこの事を知っている筈だ。揉め事はだいたい肉体的な事で解決しようとするアイルトンが下手に騒ぎ立てるよりも、彼なら上手く処理をしてくれる気がする。
(うん、様子を見よう)
今の彼は頭に血が上って行動に出たりはしない。
上司に匂わされていた昇進はきちんと内示が出た。本来ならばもっと早くてもよかったのだが、夏の終わりにはエミュナと結婚式を挙げ、特別休暇を貰う予定になっている。休暇明けには正式に第二近衛隊に異動だ。
その前に城内でトラブルを起こしてはいけないことくらい彼にもわかる。
そこでイアンの対処を期待して暫く黙って状況を見ていたが、噂が消える気配はなかった。さてどうしたものかと気を揉んでいたところに事件が起きたのだ。
「おいセーブルズ、ちょっと来てくれ!」
職務中、珍しく隊長が焦った様子で彼に呼び出しをかける。なんだろうと行った先に居たのは難しい顔をした友人のキューテックと、その上司のドーム公爵だった。アポ無しで宰相閣下が秘書を引き連れて怖い顔でやってくれば、第三隊長でも少々焦るというものである。
「隊長、席を外していただきたい」
「閣下、セーブルズは何もしていない筈ですが……?」
なんで語尾に疑問系が混じっているのか。そこは上司として堂々と何もしていません! と言いきって欲しかったとアイルトンは悲しくなる。とはいえ、すぐに宰相が「ああ、そうではなく彼に個人的な依頼をしたいだけでね。彼は信用がおける人物ですから」とフォローを入れてくれたお陰で、隊長は安心して出ていった。
「閣下、ご依頼というのは?」
「依頼というか、相談なんだが……いやその前にまず謝罪だな……」
「?」
先程までの態度から一転、ごにょごにょと口ごもる宰相。氷の貴公子らしからぬ煮えきらない様子をアイルトンは不思議に思って見ていると、ドーム公爵は頭を下げた。
「すまない! 俺が卑怯な真似をしたばかりに、セーブルズが……君の妹が男に襲われそうになった」
「は!? どういう事ですか!?」
彼は頭を下げたままの宰相を睨み付けた。と、その宰相の横に控えていたイアン・キューテックが口を挟む。
「アイル、君は閣下とセーブルズさんの下劣な噂を知っているか?」
「ああ、事実無根だろ! その、愛人とかいう……」
「確かに事実無根だし、セーブルズさんに嫉妬した馬鹿な奴らが流した噂だろうがな。サムはその下劣な噂を表立って否定はしなかった。そうすればセーブルズさんに悪い虫がつかないだろうって魂胆だったんだ」
「は!?」
悪い虫とは、つまり妹に言い寄る男という意味か。しかし彼女は今は男嫌いだし、男を寄せ付けないような堅物で地味な格好をしているうえ、特殊な眼鏡をかけて目の色まで地味に見せているというのに?
状況把握ができず混乱するアイルトンを更に益々混乱させるような出来事が襲う。頭を上げたドーム公爵が情けない顔をして話し出したのだ。
「自分でも卑怯な真似だと思う。でも上司として彼女に強引に迫る事は許されないから、少しずつ距離を縮める間に他のライバルが介入出来ないようにしたかった。申し訳ない。まさかもっと卑怯な男が『俺の愛人にもなれ』と言い出すなんて考えていなかったんだ……」












