6.宰相閣下が妙なことを口走る
翌日。
とんでもない出来事が次々と降りかかった昨日とは違い、穏やかに時が過ぎる。仕事も順調だ……とアマリアは思っていたが、後にそれは間違いだったと知る。
まず最初はブラウンが現れたことだった。
「失礼します。今朝、宰相閣下宛に早馬でこちらが届きました!」
「ありがとうございます」
アマリアはいつも通り書類を受け取ろうとしたのだが、ぐっと抵抗する力を感じる。ブラウンがいつまでも書類から手を離さないのだ。不思議に思い、見上げると彼は赤い顔でアマリアを見つめていた。
「あ、あの、セーブルズさんっ」
「はい」
「きょ、今日、お昼などご一緒に、い、行きませんかっ!?」
「はい?」
アマリアの声とほぼ同時に背後でガタン!! と大きく椅子が音を立てた。振り向くと宰相が立ち上がっている。
「……あ、早馬の知らせであればすぐに見せろ」
「へ? あっ、申し訳ありません!」
ブラウンはサッと書類から手を引いた。
「……それと、今日の昼はセーブルズは弁当を食べるから無理だろう?」
「あ、はい」
「じゃ、じゃあ」
ブラウンの言葉を宰相は遮る。
「ついでに明日もダメだ。セーブルズは我々とランチミーティングをする予定なのでな」
「はい?」
アマリアは唖然とした。そんな話は聞いていない。……というか、宰相とランチミーティングなど過去一度もしたことがないのに。サミュエルは何を口走っているのか?
「本当だぞ! な、キューテック?」
話を振られた第一秘書は何故か明後日の方を向いていて表情が全く見えない。しかも僅かに、ほんの少しだがプルプルと震えてもいるようである。
「はい……もう既に食事の手配も……しておりますので……」
「そういうわけだから、いいね?」
公爵閣下はにこり、と微笑んだ。だがキラキラの笑顔ではなく……ダイヤモンドダストのキラキラの幻覚がブラウンには見えていたかもしれない。「氷の貴公子」による極寒の笑みは実に迫力があった。
「……は、はぃ……失礼します……」
赤かった顔からザーッと血の気を引かせた文官の青年は、すごすごと帰って行ったのである。扉を閉めた後、アマリアは未だに顔を見せない先輩秘書と、顔を正面から見たくない上司のどちらに「ランチミーティングってどういうことですか?」と質問をすべきか一瞬考えたが、すぐにそれよりも早馬で来たという手元の書類を確認する方が先だと気づく。彼女は封を切った。
(……これは!)
書類を持つ手にぎゅっと力が入る。それは、彼女にとっては他人事に思えない内容だった。
「閣下、キューテックさん、ハーゲン地方で洪水が発生したそうです! 領主から支援要請が来ています」
「!」
「洪水か! 被害の規模は?」
宰相閣下と第一秘書の空気がサッと変わる。
「詳しい情報はこの後届くのかもしれませんが、かなりの農地が被害を受けたと……」
キューテックに書類を渡すアマリアの手は、細かく震えていた。今は初夏。畑に植えられた青々とした麦が風に揺れる様や、今年の収穫を期待していた領民達の笑顔。それらが洪水で何もかも流され、皆が絶望にうちひしがれたのを嫌でも思い出してしまう。
キューテックが嘆願書にサッと目を通す。
「幸いなことに死傷者は殆ど出ていないようですから、急速な人命救助ではなく、洪水で荒れた農地の保障と、治水工事の費用支援を王家に求めているようですね?」
「む……かなりの額になるかもな。財務大臣がキーキー喚きそうだ」
「保障までは難しいかもしれませんが、治水工事は支援すべきではありませんか?」
「何故だ? セーブルズ」
サミュエルが冷たい仕事の顔を保っているので、アマリアは彼を真っ直ぐ見ながら答えることができた。
「ハーゲン地方は11年前にも大洪水が起きていますが、その時も資金難のため場当たり的な対処をしたのみで治水工事までは出来ていません。しかし約10年に一度の頻度で洪水が起きているのなら……」
「なるほど。その度に農地は荒れる。その年はおろか、下手をすればその翌年も作物の収穫量に影響が出る。税収どころではないな」
「このままでは、領地も、その領民も徐々に弱っていくばかりかと」
「……取り急ぎ、陛下と財務大臣に報告しよう。調査員も派遣しなくてはな」
宰相は財務大臣へ一筆したためる。その間にキューテックはアマリアに囁いた。
「11年前の地方の出来事や、その後の対処まで即座に思い出せるとは。凄いですね」
「ご存じでしょう? あの時、セーブルズ領を再建するため、私は他の地域ではどう対処をしているのか、詳しく調べたんです」
「……そうでしたね」
セーブルズ伯爵領は3年前に洪水に見舞われ、一時期は領地の経営が非常に苦しかったことがある。
アマリアはその日を境に令嬢らしい生活を捨てた。手持ちの宝石や高級なドレスを手放し、親しい友人にごくたまに手紙を出す程度で社交界からは完全に離れた。質素な生活を続けながら父と兄を手伝って領地の隅々まで把握し、金策や新たな産業を産み出せるチャンスがないか考えを巡らす日々に明け暮れたのだ。
友人の助けもあり、なんとか領地が復興した頃には2年の月日が過ぎており、彼女はもう19歳だった。社交界に独身の令嬢として復帰するにはやや遅い年齢である。アマリアはそのまま華やかな世界には戻らないことにした。もう自身の結婚を諦めかけていたから、というのもある。
婚約者に裏切られ不名誉な話もつき、その後は領地が苦しくなり婚期を逃したアマリアは端から見れば不幸な女性だろう。だが、この経験のお陰で領地経営や嘆願書にも詳しくなり、結果、彼女は今の仕事に就くことが出来たのだから不思議なものである。
(禍福は糾える縄のごとし、って言うんだったかしら。私、今の生活、まあまあ幸せだもの)
サミュエルから託された一筆と書類を財務大臣に渡すべく、大臣の執務室へ向かうアマリアはそんなことをふと思った。
◆
財務大臣付きの文官、ミレーに書類を渡すと、彼は宰相からのメッセージを開き、眉をピクリとさせた。
「これを、宰相閣下が?」
「? 何か不備でも?」
珍しいこともあるものだ。ミレーはサミュエルの筆跡を見慣れているし、一筆は宰相専用の印を捺して封筒に入れたのだから疑いようもないだろうに。
「……いえ、すみません。至急大臣にお伝え致します。ありがとうございました」
「はい、失礼致します」
封筒の中身を知らない(宛先に届ける前にこっそり見るなんていう違反行為をするわけがない!)アマリアは、戻りながらサミュエルが何を書いたのだろうとあれこれ想像を巡らしたが、これだと思うものは出てこなかった。そうしていると、気がついた時には宰相の執務室の前に帰ってきている。
「ただいま戻りました」
執務室に入ったが返事がない。宰相も第一秘書もデスクは空……とアマリアが確認した瞬間、奥の扉が開いた。
「セーブルズさん、お帰りなさい。閣下は直接陛下に報告に上がると仰って出ていかれましたが、すぐに戻ると思いますよ」
奥の部屋から出てきたキューテックは、シャツの袖を腕捲りし、手に布巾を持って爽やかな笑顔を見せている。
「あ、はい……」
実は奥の部屋は本当の「宰相の執務室」だ。今執務室として使っているこの部屋は、本来はキューテックとアマリアが使用する秘書の為の部屋なのだ。来客や書類を秘書が受け付け、奥の宰相に取り次ぐというのがあるべき姿だし、前宰相の時はそうであったのだろうが、サミュエルはその慣習を「無駄」と取り払ったのである。
「いちいちそんなもの、時間がかかるだけだろう? 君の横にいて直接指示を出せる方が効率が良い」
そう言って豪華な執務室から自分の机をキューテックの隣に運ばせたのだそうだ。
「奥の部屋に何か用事があったんですか?」
「ああ、実はね」
第一秘書は眼鏡の奥の目を細める。
「明日、特別な来客がある予定でしてね。この部屋で昼食をご一緒するので、空気を入れ換えて軽く掃除をしていたんですよ」
「え?」
「ほら、さっきの話です。……ランチミーティングっ」
キューテックはごく自然に拳を口の前に持ってきたが、最後に「グっ」と妙な言い方をした。
「ランチミーティング……」
「……こほん。正確には、ある女性を招いての簡単な会食なんですがね。あまり他の人に話を聞かれたくないのでここで行うのが都合が良いんですが……やはりどうしても密室になるでしょう? こちらが男性ばかりの顔ぶれでは、お客様も寛げないかと思いまして。セーブルズさんにも同席して貰えないと困るんですよ」
「ああ、そうだったんですか」
アマリアも納得する。なんだ、と拍子抜けだ。
「それならそう言ってくだされば」
「すみません。昨日の夕刻急に決まったことなので、後できちんと説明するつもりだったんですが、閣下があんなに慌てるとは……っ」
キューテックはまた、急に明後日の方を向いてプルプルと震えた。












