【番外編⑦】兄の人生も、わりと波乱に満ちている
アイルトンはエミュナの気が変わらないうちに、とすぐさま行動を起こし、領地の父に連絡を取り男爵家に正式に婚約を申し入れた。
エミュナの両親は高望みをして婚期をじりじりと遅らせている娘に内心気を揉んでいたので、伯爵令息で有望な騎士団員であるアイルトンとの結婚を喜んで承諾した。
斯くして、二人のお話はハッピーエンドを迎える……ように見えたが、婚約してからもまあまあ小さな揉め事は起きている。
ウェディングドレスの件などもあるが、主に妹にまつわる出来事が多い。
◇
アイルトンは、友人であるイアン・キューテックに婚約を報告する手紙を送った。しかし同じ城内勤めにもかかわらずなかなか返事が来ない。
数日後、やっと返信が来たが几帳面なキューテックの手とはとても思えぬ、ヘロヘロに歪んだ文字で数行の文が綴られていた。
『ご婚約おめでとう。是非とも祝いたいが、現在非常に多忙につき厳しい。機会をみて祝わせてくれ』
アイルトンはとても心配になった。彼と友人になってから二年と半年ばかり経つが、こんな筆跡は初めて見た。
そういえばセーブルズ領が洪水に遭った約半年後、つまり今から一年半前に彼の友人であり上司でもあるあるサミュエル・ドーム公爵が宰相職を父親から譲り受けた。その際、イアンは正式に宰相の秘書官になったのだが、こんなことを言っていた気がする。
「今はまだ前宰相閣下を支えていたベテランの先輩秘書達が残ってくれている。だから安心なんだが、一年後にはその先輩方も引退する予定でね。俺とサムの真価が問われるのはそこからだ」
アイルトンはあっと小さく叫んで頭を抱えた。ここ半年ほどエミュナと夜会を共にして浮かれていた事もあり、友人との連絡の頻度が少なくなっていた。イアンの方からも連絡がなかったので忙しいのかもなどと安易に考えていたのだが、ちょうどその時期が「真価が問われる」時期と重なっていたのだ。
きっと忙しいなんて言葉では片付けられない程だったのだろう。
その日の夕刻。武官としての仕事を終えたアイルトンは急いで宰相の執務室に向かった。執務室と言っても、正確にはその手前の秘書室に用事がある。宰相の部屋はそこから更に奥の扉の向こうなので、秘書室を訪れて友人の様子を確かめるだけならアポ無しでも許されるだろうと思ったのだ。
「お先に失礼します」
アイルトンのすぐ前で、そう言って秘書室から出てきた男がいる。おそらくイアンの下についている秘書官だろう。
アイルトンはおや、と思った。男の顔色は良いし定時に帰ると言うことはそれほど仕事が溜まっていないのではないか。
悠々と帰っていく秘書官を背に、彼は扉をノックする。
「失礼します。騎士団第三隊所属のアイルトン・セーブルズです。入ってよろしいでしょうか!」
「…………どう、ぞ」
蚊の鳴くような小ささで、息も切れ切れな返答が聞こえた。アイルトンはその声に背筋が寒くなる。
(やっぱり忙しいんじゃ!?)
彼はまたもや考えを改め、心配しながらサッとドアを開ける。果たして秘書室の中は予想以上に酷い状況だった。
書類、書類、書類……紙の山が秘書室内の四つの机全てに積み上げられている。
その書類の山に埋まるかのように机に上半身を預けている男が二人。残りの二つの机には誰も座っていなかった。
二人の内一人は長い銀髪の男。もう一人の黒髪の男が机から顔を上げ、疲れきった顔に無理やり微笑みを浮かべる。
「……やあ、アイル……」
「イアン! これはどう言う事だ!」
「恥ずかしながら、仕事が終わらなくてね。ははは……」
キューテックの乾いた笑いは痛ましく聞こえる。目の下にはハッキリと隈ができており、顔色は青を通り越して黒に近い。もうその顔を見ただけで尋常ではないのがわかる。
「イアン、とっとと家に帰って休め! ぶっ倒れちまうぞ!」
「だが、まだ仕事が……」
「いや、彼の言う通りだ。イアン、今日はもう帰れ。俺も早々に休ませて貰う」
「サム!」
イアンの隣の机にいた銀髪の男が顔を上げる。アイルトンは度肝を抜かれた。てっきりイアンの秘書仲間だと思っていたその彼は、疲れが色濃く出ているにもかかわらず、まるで絵画から抜け出したような美男だ。サムと呼ばれたことからも間違いなくサミュエル・ドーム宰相閣下その人である。
「どうせ疲労が溜まったこの状態では仕事の効率も悪い。あいつも堂々と定時で帰っていったし、俺たちもたまには早く仕事を切り上げよう」
宰相閣下は「あいつ」と言う時に苦い顔で扉の方を顎でしゃくってみせた。先に帰った秘書官の事を指しているのだろう。
「だけどサム!」
「これは上司命令だ。キューテック、ご苦労」
サミュエルはわざと友人ではなく部下としてのイアンの名字を呼ぶと、アイスブルーの目を細めた。その美貌で苛立たしげな表情をすると周りの空気が凍りつくような迫力がある。
(おお、怖い。まさに氷の貴公子サマだな)
アイルトンは暢気に心の内で呟き、イアンの腕を引き上げて席を立たせる。
「では閣下、お言葉に甘えて失礼致します。この男は責任を持って俺が家まで送り届けますのでご安心を」
「ああ、セーブルズだったか。感謝する」
「おいサム、アイル! 勝手に決めるな! 今日中にやらなきゃいけない書類が……」
アイルトンは自慢の膂力にモノを言わせてわあわあ言うイアンを引きずっていき、城を出たところで辻馬車に押し込んだ。
◇
友人は辻馬車の中でもまだぶつぶつ言っていたが、家に帰るところりと態度を変えた。
「イアン、おかえりなさい! こんなに早く帰ってこれるなんて嬉しい!!」
彼ご自慢の細君が、目をキラキラさせて出迎えたのだ。
「あ、もしかしてセーブルズさんが連れて帰って下さったんですか!?」
アイルトンは苦笑しながらキューテック夫人に説明する。
「彼がワーカホリック気味だったので、宰相閣下に了承頂いて今日はゆっくり休ませることにしました」
「ああ……良かった。心配していたんです。あの、良かったら夕食をご一緒にいかがですか?」
「えっ、いやそんな」
「いいえ、お嫌でなければ是非! セーブルズさんが居なかったら夫は倒れていたかもしれませんもの」
夫人に熱心に勧められ、アイルトンは夕食をご馳走になった。ご機嫌の夫人を見て、イアンの機嫌もいっぺんに良くなった。
夕食後にイアンが紅茶を淹れてくれたので、ソファーで寛ぎながら茶と会話を楽しむ余裕がやっとできた。
「忙しそうだとは予想していたけど、なんであんなに仕事が溜まってるんだ? 仕事量が多いなら秘書を増やせばいいんじゃないか?」
「それがだな……」
イアンが再び暗い顔になり説明を始めた。半年前、先輩秘書から仕事を完全に引き継ぎ、自分達だけできちんとやってみせよう! と誓い合った仲間の秘書官はイアンの他に二人居たそうだ。
ところがその内の一人はたった1ヶ月で忙しさに音を上げ辞めてしまった。もう一人も3ヶ月で辞めたそうだ。代わりに入れた人員の内、一人も似たような人間で1ヶ月以内に辞めてしまった。もう一人がさっきアイルトンが見かけた男だ。仕事に身を入れず能率が悪い上、どんなに仕事が残っていても「時間だから失礼します」と全て放り出して帰ってしまうのだそうだ。
「あいつら、皆俺たちと違って、黙っていても将来爵位や領地が転がり込んでくる奴らばかりなんだよ。『宰相閣下の秘書を勤めた事がある』って肩書きが欲しいだけだから、仕事を真面目にやる気なんてハナから無いのさ」
イアンの愚痴には憎悪さえ感じられた。友人と同じく爵位や領地を継げないアイルトンはその気持ちに大いに共感し、同情した。自分も騎士団の仕事に誇りを持ち努力しているが、不真面目な態度の貴族のお坊ちゃんが同僚にいれば良い気持ちはしないからだ。












