38.公衆の面前で手を握る羽目に陥る
◇
後に、アマリアは社交界で一番の噂の的になるわけだが。この時の事を質問されるといつも顔を朱くしてこう言うのであった。
「やめて頂戴。あの時の私は冷静ではなかったの。もっと他の方法もあったはずなのに、あれが一番良い手だと思ってしまったんだもの……」
確かに淑女が刃物を持った男性を投げ飛ばすなど前代未聞である。それは噂になるわけだ。
「でも、パーティーの会場でエドガーのやり口を知っていたのは私だけよ。彼はきっと本当にナイフを胸に突き立ててしまうと思ったの。……勿論、死なない程度に軽く傷をつける程度だろうけれど」
エドガーは自分が周りにどう見えているか熟知し、そしてそれを最大限に利用する男だった。公爵家のパーティーに乗り込み「公爵の罠で婚約者を奪われたので死をもって抗議する」と言ってちょっぴり血を流して倒れれば、本当に死ななくてもその効果は劇的だ。たとえ少数でもエドガーに同情しサミュエルを悪辣な人物だと信じる人間がいれば、今までの氷の貴公子ぶりも相まってその噂は国中を駆け巡るだろう。
一度汚された名誉は、簡単には灌げない。その事は誰よりもアマリア自身が知っている。
「だから絶対にあの場で閣下に汚名を着せるわけにはいかなかったのよ。彼の胸からナイフを外させ、しかもあれ以上デタラメを言わせない為に、私は彼を投げ飛ばしてしまえばいいと判断してしまったの」
◇
公爵邸の広いボールルームは、シン……と静まり返った。皆が今起きた出来事は現実なのかと目を瞬き、アマリアを見つめる。このパーティーの主役であるサミュエルでさえも。
誰よりも早く動いたのはアマリアの兄、アイルトンだった。床に倒れたエドガーに近寄り、ナイフを蹴って遠くに飛ばした後、彼を拘束する。
「まて、アマリア! 俺は無実なんだ。助けてくれ……!」
「お兄様、この詐欺師の口を塞いで!」
アマリアが厳しい口調でそう言うと、一斉に周りがハッと気を取り直した。キューテックが素早く胸のチーフを取り出しエドガーに猿轡を嚙ませる。それを見ていた招待客達も「詐欺師……?」とひそひそと言い合う。アマリアは手袋を嵌めた両手をパンパンと打ち払いながら、ボールルームをぐるりと見渡して招待客の皆に聞こえるような大声で宣言した。
「この男性は確かに昔は私の婚約者でしたが、その見た目と口の上手さで幾人もの女性を騙していた詐欺師です。恥ずかしながら私は詐欺師と見抜けなかった間抜けな女ですの。ですから今は文官勤めをしていますのよ! 自分で働いて稼ぎ、一生独身を誓えば結婚詐欺師にも遭わないでしょう?」
自虐的な言葉を使うことに恥ずかしさがないわけではない。しかしエドガーの逆恨みは自分にも一因がある。それでサミュエルの名誉を汚され、誤解されたままでいるくらいなら自分の恥を晒した方がまだましだ。そもそも、恥と言うなら大勢の前で男を投げ飛ばしたことの方が遥かに恥である。もう破れかぶれだ。
「ついでに閣下の名誉の為に申し上げますと、この方は身分や性別ではなく、純粋に能力で評価をしてくださる立派な上司ですわ! それに女性を利用したり、愛人として囲うなどありえません。何故なら閣下は、手を握るのに5分ももたないほど女性に免疫がないのですから」
「え!?」
「嘘でしょ!?」
「あの『氷の貴公子』が……?」
アマリアの言葉でパーティ会場は再びどよめいた。ごく一部の人間を除き、皆が信じられないと言う顔をする。この、ごく一部の人間と言うのは公爵家の人間とキューテック夫妻、そしてアイルトンとエミュナだった。エミュナに至っては後方で腕組みをし、ドヤ顔でうんうんと頷いてまでいる。
そして当のサミュエル本人はと言うと。さっきまで青ざめ震えていた顔が一転、僅かに朱くなり戸惑っていた。勘のいい人間ならこの様子を見ただけでアマリアの言葉に説得力を感じただろう。だが勘の鈍い人間にまで知らしめようとキューテックが口を出す。
「では閣下、セーブルズさんの手を握ってください」
「「えっ!?」」
サミュエルとアマリアの声がハモった。キューテックはにやにや顔を隠さない。
「ほらほら、皆さん信じられないでしょうから実際にお見せした方が早いですよ」
「イアン! こんなところで質の悪い冗談を言うな!」
「冗談じゃなくて本気ですよ。はいどうぞ」
第一秘書で親友でもある彼は、宰相の背中をぐいぐい押してアマリアの前に立たせる。
「セーブルズさんには申し訳ないですが、ご自身で言われたことの証明をする必要がありますよね?」
「……っ!」
そう言われてしまっては彼女も反論できなかった。だが、だからと言ってはいそうですかと公衆の面前でサミュエルと手を繋ぐなど簡単にできない。
「さあ、さあ早く」
せかすキューテックの声に、サミュエルが何とも言えない表情でアマリアを見つめる。
「すまない、セーブルズ」
(ううっ!!)
その、軽く頬を染めてはにかんだような困ったような顔がまた麗しく、アマリアの心臓が跳ねてしまう。このサミュエルと手を繋ぐなんて拷問だ。感情を表に出さないようにできるだろうか。ぐるぐると考えるアマリアの手にサミュエルがそっと触れた。
「!」
彼女はびくっとしたが、全力で思考を働かせて堪えようとする。
(大丈夫、今は手袋をしているから体温を感じない。大丈夫。ああでも手袋越しでも手の持ち方が優しいわ。それにいい匂いが……わあああ、だめ、消えて私の煩悩っ!)
だめだと思えば思うほど、色々思い出してしまう。手を重ねたところから恋人繋ぎ、さっきのイヤリングのやり取りまで一気に彼女の頭に蘇ってしまい耐えられなくなった。彼女は自身の頬から耳まで朱くなってしまったと自覚し、恥ずかしさのあまり目を伏せる。
「あ……」
サミュエルから不意に言葉がこぼれ落ちる。一拍置いて、周りからも「あ」という声が漏れ聞こえて来た。
「?」
妙な空気を感じた彼女が目を上げると、そこにはアマリア以上に真っ赤な顔をしたサミュエルの姿が。5分どころか1分ももたなかった。氷の貴公子が茹でダコの貴公子になっている。彼女はホッと息を吐いた。
「ほら! 皆様、ご覧になりましたか? 閣下はこんなに純粋な方なんです……」
アマリアは周りにアピールをしながら、サミュエルから手を離そうとした。が、手をがっしりと握られていて離せない。
「……あ、あの、閣下?」
真っ赤な顔のまま、アマリアだけを見つめているサミュエルの口からとんでもない呟きが放たれた。
「ダメだ……可愛すぎる……」
「!?」












