32.アマリア、突然手を掴まれる
翌日の昼下がり。
執務室の奥の部屋で、アマリアとサミュエルは並んで長椅子に腰かけていた。部屋の窓辺には明るい光がきらきらと射し込んでいる。アマリアはそちらに向けていた目をゆっくりと反対方向へ戻した。目の前には別の意味でキラキラと眩しい美貌。
(ううっ……目の、毒!)
苦しげな顔さえも切なげに見えてしまうのは毒と言うか、美しさは罪と言うか。とにかくサミュエルのそんな表情を間近で見ながら手を握られるというのはある意味拷問に近い。こちらはドキドキしているのを覚られないよう、必死で真顔をキープしないといけないのだから。
「はあ……」
彼は苦しそうなため息を吐きながら、アマリアの手の上から自分の手を退けた。
「うん、昨日よりは呼吸が出来ているんじゃないか?」
キューテックは何故か楽しそうに言う。というか、完全に面白がっている気がする。
「でも、だめだ……色んなことをぐるぐると考えてしまって……」
そう言うサミュエルは、すっかり憔悴して顔色が悪い。まるで食あたりかタチの悪い風邪にでも罹ったかのようだが、実際にはたかだか1~2分、アマリアの手を握っていただけである。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫だ」
アマリアがサミュエルを心配して声をかけると、彼は小さく答えて横をプイと向いた。その形の良い頬にほんのりと朱みが滲む。まるで普段とあべこべだ、いつもは宰相のキラキラを浴びて自分が塩対応をしているのになと彼女は内心で考える。
「セーブルズさんの方は大丈夫ですか?」
「あ」
キューテックに言われて初めてアマリアは気がついた。
「……閣下が苦しそうで心配なので、自分の事を忘れていました……」
「ぶふっ」
先輩秘書は思わず吹き出す。
「それはっ……そうですよね。どうみてもサムの方が重症ですから」
「俺は大丈夫だと言っている」
「いや、大丈夫じゃないだろう。こんな状態で来月の誕生パーティーに出てみろよ。大惨事だぞ」
「……いつも通り、女性とは出来るだけ関わらないから……」
「おいおい本気で言ってるのか? お前の花嫁探しでパーティーを開くのに、主役がこれじゃ花嫁が見つかってもどうにもならないだろう?」
「それは!」
サミュエルは何か言いかけたが、はっとしてそのまま黙りこむ。 キューテックはニヤニヤして友人を眺めたあと、アマリアに向き直った。
「セーブルズさん、本当に大丈夫ですか?」
「あ、はい?」
「ちょっと失礼」
彼は唐突にアマリアの手首を取り、座っていた彼女の身体をぐいと引き上げかけた。
「!」
「おい!」
横の宰相から声があがるのと、アマリアが全力でキューテックの手を振り払うのはほぼ同時だった。彼女は真っ青になって掴まれた手首を抱え込む。冷や汗が額に湧き、心臓がバクンバクンと音を立てているのではないかと思うほど激しく動いている。
(あ、危なかった……! もう少しで反射的にキューテックさんを投げ飛ばしてしまうところだったわ!)
そんなことをしたら全てがおしまいだし、書棚や応接セットがある室内で大ケガをするかさせるかの恐れもある。
「……やっぱりまだ男性に手を掴まれるのは怖いですよね。突然乱暴なことをして大変申し訳ありませんでした」
「あ、ああ、大丈夫です!」
キューテックが深々と頭を下げてきた。青い顔をした彼女を見て、まだまだ夜会への恐怖は消えていないと判断したのだろう。実際には正体がバレそうな間一髪の事態に冷や汗をかいていたのだけれども。
(あら?)
アマリアは自分で気がついた。今、冷や汗をかいていたのは夜会への恐怖ではない。手を掴まれた瞬間に心の中には4年前の事は一切浮かばなかったし、ちゃんと振り払うことができたのだ。
(もしかして……)
あの、中庭で男を投げ飛ばした事が自信に繋がったのだろうか。もしくは、サミュエルとキューテックが相手だから手を掴まれても安心できているのかもしれない。家族以外で信用できるとはじめて思えた男性たちだから。
「イアン、今のは本当に酷いと思うぞ。彼女の心の傷が広がったらどうする」
「……申し訳ありませんでした」
その二人が明らかに元気がなくなっているのを見たアマリアは、慌ててフォローに回る。
「本当に大丈夫ですから! 閣下も、キューテックさんも、お気遣いありがとうございます。私、意外と平気みたいです!」
「じゃあ、夜会に出られそうか?」
「あっ」
サミュエルに言われて、彼女は薮をつついてしまった事に気がつく。しかしもう口から出た言葉は消せない。……だいたい、消せるものならとっくの昔に「えーい! どっせい」を消している。
◆
「はぁ……疲れた……」
帰りの辻馬車の中でアマリアは盛大な溜め息を吐いた。仕事も忙しいが、それ以上に気苦労が大きい。
明日以降も引き続き手を握る練習をしようとキューテックは提案した。アマリアがいくら「もう大丈夫」と言ってもキューテックは納得していない。むしろ宰相閣下に手を握られると意識しないようにするのが大変なのだが、そうとは言えず彼女は提案を受け入れた。
(まあ、このままじゃ閣下も困るものね。閣下の練習に付き合ってると思えばいいかしら)
でも、なんだか妙なことになったものだ。サミュエルは声の主を探し、もし声の主が見つかった時のために女性の手に触れる練習をしている。その練習相手が声の主である事を伏せているアマリア本人なのだから。
このままだと声の主は見つからず、練習も無駄になるかもしれない、と考えると彼女の胸に罪悪感が生まれた。
(どうしたらいいの……?)
自分が名乗り出るわけにはいかない。サミュエルは上司としては信用できる男性だ。園遊会では寄ってくる女性に「氷の貴公子」ぶりを相変わらず見せつけていたが、本当は優しさもあると知っている。
でも、やっぱり無理なのだ。自分には人を見る目が壊滅的に無い。エドガーやルミナスの時のように、美しさに溺れて勝手に相手の内面も美しいのだろうと理想像を作り上げ、現実を知った時に勝手に理想像が壊れたとショックを受けるような事をする。
サミュエルを上司ではなくひとりの男性として見た時に、きっといつか彼の内面でショックを受けてしまう日がくるだろう。外見も中身も完璧な人間など居ないのだから。
しょんぼりと気落ちしながら帰宅すると、使用人が「ドーム公爵家よりパーティーの招待状が届いています」とアマリアに伝える。
「えっ、もう?」
それは確かにサミュエルの誕生パーティーの招待状だった。仕事が早い……早すぎると思ったが、一昨日の夜にはサミュエルとキューテックはディケンズに相談していたのだから、秘書であるアマリアの分は既にその時に手配済みだったのだろう。
「これが俺にも届いてるんだな」
そっくりの封筒をぴらぴらと見せながらアイルトンが声をかけた。
「アイル兄様にも?」
「まあ、お前の兄だしイアンの友人だから変ではないんだが。『かわいい婚約者も是非連れてきてくれ』って書いてある」
「エミュナも……」
もしかしたら、とアマリアは思う。彼女が少しでも夜会で落ち着けるように兄と親友も招待してくれたのかもしれない。それは自惚れだろうか。












