29.宰相が過去を思い出し、表情が陰る
次の日はそこそこ忙しかった。昨日の断罪劇の後始末に追われたからだ。
「ハーゲン地方の治水工事の為に特別支援金が王家から出ていたなんて知りませんでした……」
「僕もサムも、前宰相閣下の時代だからよくは知らないんですが、当時は王家の財政が潤い始めたばかりだったので、今ほど支援制度がきっちりと確立していなかったこともあって、支援金そのものが内密に支払われたそうです」
休憩時間にキューテックがお茶を淹れながら言う。
「治水工事が行われたか、後日調査員が派遣されたんですけどね……どうもリバワーム伯は領民が堰に土を盛った箇所を見せて『もうこのように仮工事は終えていて、後日ちゃんと工事をする』と誤魔化したようです」
「そんないい加減な……」
「ですね。まあ当時の宰相職は今よりとても忙しかったので、ちゃんと調査のフォローもできなかったのかもしれませんが」
「今よりも?」
アマリアはぞっとした。第一秘書は苦笑しながら自分で淹れた茶を飲み、満足げに頷いてから話を続ける。
「リバワーム伯は一方で領民には支援金のことを伏せ、領地経営が苦しいから治水工事まではできないと説明していたそうですよ。家を流された領民の面倒は少しは見たようなので、領民もそれ以上は仕方ないと諦めていたとか」
「はあ……」
「セーブルズさんがハーゲン地方は治水工事が行われていない、と言うまでは僕もサムもその事を知りませんでした。特別支援金が支払われたかどうかもね。それで師匠に相談したんですよ」
「師匠って……ディケンズさん?」
「そうです。前宰相はあんまり忙しかったので、公爵家の執事である師匠を一時期第三秘書代わりに使ってたんです」
「まあ! てっきりお茶の師匠かと……」
第一秘書は軽く笑う。
「はは。半分正解です。僕は見習いの時代に師匠に秘書のいろはとお茶の淹れ方を教えていただきました。……まあそんなわけで師匠は当時のことも覚えていて、ちゃんと奥の書棚のどこに記録が入ってるかも教えてくれましたよ」
そう言ってキューテックは奥の部屋を指さした。あの巨大な書棚に納められた膨大な書類の束から、目印なしに目的のものを探し出すのは相当大変な作業だ。ディケンズから聞いていなければ見つけられなかったかもしれない。
「そうだったんですね……」
「リバワームが今回の洪水が発生した直後に過去を反省し、私財を全て売り払っていれば温情のかけようもあったがな。調子に乗ってまた美味しい思いができるぐらいに考えていたんだろう。馬鹿なやつだ。9年前と今では全く違うというのに」
サミュエルが冷たい表情で切り捨てる。
「こういうことが今後起きないように、前宰相が支援制度を一からきっちり作ってから引退したんだ。地域と領民のためを思って支援した金で領主が『堕落』し、貴族階級が腐敗して国が傾いたんじゃ笑い話にもならないからな」
「確かにそうですね。でもそのお陰でセーブルズ領は救われました……」
アマリアは礼を言いつつも、あの何度も書き直さなければならなかった厳しい書類はそういう訳だったのか、と昔のことを思い出していた。今でこそ慣れているから良いが、当時はイライラもしたものだ。現宰相はそんな彼女の内心を読み取ったのかフッと笑みを漏らす。
「そちらも書類を揃えるのは大変だったろうが、こちらも制度が確立するまでが物凄く忙しくてな……俺も手伝ってたが昔のここは酷い惨状だったぞ。こんな風に茶を飲む時間すらなかった」
「そうそう。前宰相もサムも泊まり込む事がよくありましたしね。あの時はしょっちゅう寝不足で」
「……ああ、父の名代で社交も調査もやらされたな……」
懐かしそうに言っていたサミュエルの表情が、最後だけふっと陰りを見せる。だがすぐにそれは晴れ、彼はきりりと仕事の顔に戻った。
「さて、リバワーム家には支援金の返還をさせるとして、横領の処罰をどうするかな。追徴金でも良いが……洪水があった地域を含め一部の領地を取り上げるべきと陛下に進言するか?」
「王家直轄となれば以降はこちらで治水工事を進められますし、誤魔化しがききませんからね」
「そうだな。まあリバワームからは相当反発されるだろうが……いい見せしめにもなるだろう」
見せしめ。つまり、昔の時期にリバワーム伯爵と似たようなことをした者がまだいるかもしれない。今回のことは彼らに「表沙汰になれば厳罰がくだるぞ。その前に正直に申し出るか、使うべきところに金を使え」という警告も兼ねていると言うことだ。それには領地を取り上げるくらいの派手さがあった方がいい。
(でも……)
アマリアは何となく、心の隅にもやっとしたものを抱えた。これはやり過ぎではないかしら、と。
なぜなら、あの断罪劇は見せしめの他にアマリアの名誉を回復するというミシェルの個人的な希望も含まれ、宰相もそれに同調してアマリアを皆の前で誉めたからだ。
王族や宰相として不正を正す公の意向と、彼女とセーブルズ伯爵家を誉めるという個人的な意向がぐちゃぐちゃに混ざっている状況である。そこに厳しい処罰が加われば、リバワーム親子は「皆の前でセーブルズ伯爵家と比べられて辱しめられた上に、厳罰までくだされた」と逆恨みをするのではないかと少し心配になったのだ。
そう。逆恨みだ。逆恨みはする方が悪いし理不尽な行動だ。でも、アマリアは理不尽な行動に傷つけられた過去を持つ。ミシェルと親しくなったことで嫉妬され、乱暴な男をけしかけられた過去を。
(なにも起きなければ良いのだけれど……)
けれどもアマリアは心配しすぎだとすぐに思い直し、言葉を飲み込んだ。
◆
それから数日後までは何も起きなかった。正確に言うと、数日後もアマリアが心配したようなことは起きていない。起きたのは別の問題だ。
その日、仕事が終わって帰宅しようと通用門へ向かうアマリアを、元気いっぱいな野太い声が呼び止める。
「閣下の秘書さん!」
「あ……オーガスタさん」
そこにはやはり帰宅中の見習い女騎士、シェリーン・オーガスタの姿があった。彼女はアマリア目指し一直線に駆けてくる。












