26.(回想)宰相閣下がハンカチを押し付ける
(……嘘)
アマリアは一瞬、現実逃避に浸りかけた。
(うそ、よ。この人はお姉様じゃない)
目の前にいるのはルミナス・グリーンウォールに良く似た別人だと思い込もうとした。
「あら、いらっしゃいミシェル妃殿下」
しかしその声は相変わらず天使の笛の音のようだし、その微笑みはアマリアの心を虜にしたものと間違いなく同じである。
「ルミナス様、わたくし、ちゃんとお約束の時間どおりに来ましたのに、どうしてお部屋もお髪も汚いままですの!?」
ミシェルが遠慮無く……というよりも、ややイラつきながら指摘する。確かにこんなに明け透けにものを言えるのは親しい間柄なのだろう。
「え~、だって妃殿下はわたくしのことを良くご存じだから、別に取り繕う必要もありませんし」
顔だけはすまして言うルミナスは長椅子に寝そべり、お菓子を食べながら本を読んでいた。しかもお菓子の屑をポロポロ服や絨毯に落としまくっている。
「それに、時間どおりかしら?」
寝巻きの裾から白い足がぬうと伸びる。その足には白魚のような指に桜貝に似た綺麗な形の爪があり、彼女は爪先すらも美しい……と見惚れかけたアマリアは、次の瞬間「ひっ」と小さく息をのんだ。ルミナスの足先は寝そべっている長椅子の横にあるテーブルに向かい、そこに置いてあった手紙の一つを器用に足の指で挟んで持ち上げたのだ。
「えーと……ほら、まだ約束の時間の3分前でしてよ」
寝そべったまま足で取った手紙を手に持ち直し、中身を確認してからひらひらさせるルミナスにミシェルは憮然としているし、エミュナは視線を横にずらして見なかったことにしている。アマリアはぽかんと口を開けたまま、そこから魂が抜けていきそうな感覚を覚えた。
(そんな、そんな馬鹿な!! これがお姉様だなんて、そんなの信じられない!! そうよ、頭を打って記憶を無くされたとか、何かあったとしか……)
「あら、そちらは?」
呆然とするアマリアにルミナスが気づき、ミシェルを促す。ミシェルはアマリアの様子を痛ましげにチラリと見てから紹介する。
「覚えておいででは? アマリア・セーブルズ伯爵令嬢ですわ」
「セーブルズ……? ああ! その瞳」
今日のアマリアは地味な中でも精一杯のお洒落をしてきていたので伊達眼鏡はかけていない。彼女の薄紫の瞳を見てルミナスは思い出したようだ。
「緑の宝石を持った可愛らしいスミレさんでしょう? あの事件は大事になって大変だったわね」
「は、はい……ルミナス様のおかげで私は救われました……」
「いやだ、救うなんて大げさだからやめて頂戴。ミシェル妃殿下にも最初のうちは私の誤解を解くのが大変だったのよ」
当代一の美女は、汚い恰好のままころころと笑った。アマリアはぼうっとした頭で、その言葉の意味をよく呑み込めずに言葉を返す。
「はあ、誤解……?」
「だってわたくしを正義の使者だの光の女神だのって崇めたてるんですもの。まいったわ」
アマリアはギクリと身を固くする。それは3年もの間、彼女がずっと行ってきたことそのものだった。だがルミナスはそれには気づかずに美しい唇から続く言葉を放つ。
「わたくしは、ただ、見過ごせないほど酷い場の乱れや、明らかな不正があった時にちょっと口を出しただけよ。だって貴族階級や王族の『堕落』があれ以上広がったら、裕福で楽ができるような嫁入り先が無くなってしまうと思ったんだもの」
「嫁入り先……って、お姉様、今は陛下の愛妾でいらして……」
「そう! 最高でしょう?」
ルミナスは光り輝く眩しい笑顔を見せた。
「毎日毎日、こうやって好きな事を好きなだけ、だらだらしていても誰にも怒られないのよ。面倒くさい社交や愛想を振りまく必要もなくて……はあ、最っ高……!」
才色兼備で男に媚びず、不正や乱れを許さない。そしてそれを指摘する時もやんわりと言う淑女の見本。多くの令嬢たちの憧れの存在で、光の女神と謳われたルミナス・グリーンウォール。
実は彼女は貴族社会の中でも稀に見るぐうたらで、面倒くさがりやで、打算的で、そしてそれらを完璧に包み隠すような出来過ぎた外面を持つ女性だったのである。
◇
ルミナスの部屋を辞去した後、ミシェルは蒼白な顔したアマリアを労わった。
「かわいそうなアマリア。でも貴女が一番ルミナス様に心酔していたから、きっと口で伝えただけではあの事を信じてもらえないと思ったのよ。だけど貴女がここまでショックを受けるなんて……」
「……気にしないで、ミシェル。私が悪いのよ」
アマリアは王子妃に返答しながら心の中で付け足す。
(本当に……私が悪いもの。人を見る目が無さ過ぎるわ)
最初はエドガーに。次にはルミナスに。確かに二人とも美形であったが、その美形好きが災いして中身を見抜けず、とんでもない人物にばかり恋をしたり憧れたりしていた。そんな自分が情けなくて仕方がない。
「今日はもう失礼するわ。ミシェル、エミュナ、またね」
青い顔で無理に笑顔を作るアマリアを親友の二人は心配したようだ。
「ちょっと待って! エミュナ、アマリアを馬車まで送ってあげて」
「はいっ! 勿論!」
エミュナに連れられアマリアは出口に向かい城内を歩いていくが、その足元も少しふらついていた。
「ねえ、大丈夫? 伯爵邸まで送っていこうか?」
「大丈夫よ……ありがとう」
「でもほら、ルミナス様への気持ちは恋じゃなくて憧れだったんでしょう? 王都にいれば素敵な人と出会う事もあるわよ! 今度こそ本物の恋をして……」
エミュナの励ましを嬉しく思いつつも、それをアマリアは肯定できなかった。
「……私は一生誰かに恋をしてはいけない人間なのよ」
「そんな事ないわ!」
「きっと次に誰かを好きになっても、その人も……」
言いかけて思わず自嘲する。
(そもそもルミナス様より美しい人なんて居ないのだから、きっと好きになる相手も居ないわ)
「アマリア……」
エミュナはアマリアを、アマリアは俯いて床の方を見ながら歩いていたので、二人とも前方不注意の状態だった。廊下の角を曲がろうとした時に危うく人とぶつかりそうになる。
「おっと」
「失礼いたしました! ……ってひゃあ! さ、宰相閣下!?」
エミュナの声にアマリアが顔を上げると、驚いた顔をした上司が目の前にいた。
「……セーブルズ?」
「……閣下」
その、とても美しい顔にルミナスの面影を見た瞬間、アマリアの中でぽきりと芯が折れた。数々の辛い出来事があった3年間、彼女の心をずっと支えてきた『憧れのお姉様』という名の芯。それが幻想だと知らされても、気丈な彼女はここまでかろうじて己を保っていた。
けれども、サミュエルの顔を見た瞬間にそれが保てなくなってしまったのだ。あっと言う間に目の縁に透明な液体が盛り上がり、そこから零れ落ちて涙の玉になる。その玉はぽろぽろととめどなく零れ続けた。
「セーブルズ、どうした!? な、何かあったのか?」
「大丈夫です、申し訳ありません……」
「と、とりあえず……イアン、どうしたらいい?」
宰相は傍らの秘書に助けを求める。キューテックは周りを見渡し、近くの窓のひとつを開けた。そこは掃き出し窓になっており、バルコニーに繋がっている。
「こちらなら人目もありませんし、外の空気を吸った方が落ち着くかと」
仮にも王城の廊下で宰相が女性を泣かしたと噂になれば大変だ。アマリアたちは素直にバルコニーに出る。キューテックの言うとおり、外の風が彼女の頬を撫ぜると少しだけ気分転換になった。
「これを使ってくれ」
公爵家の家紋入りの上等なハンカチを差し出され、アマリアは恐れ多くなり、頭が冷えた。そして冷静になってくると「突然泣き出す女が部下だなんて面倒だ」と上司に思われるかも、という心配も頭をもたげた。
「け、結構です。閣下には関係のないことです。巻き込んでしまい申し訳ございません」
「……そんなことを言わないでくれ。俺にはこれぐらいしかできなくて……すまない」
「え?」
「いいから、もうちょっとここでゆっくりしていけ」
ハンカチを強引に押し付けられ、仕方なく受け取ると宰相と第一秘書はその場を離れた。サミュエルに何故「すまない」と謝られたのかわからず、その背中を見送るアマリアの横でエミュナが意外そうな声を出す。
「ええ? 宰相閣下って女性には凄く冷たくて怖いって話だったのに……仏頂面だけど優しい人じゃない?」
「……そうね、閣下は悪い人じゃないと思うわ」
悪い人じゃない。
まだこの時は、男嫌いかつ人を信用できなくなったアマリアの中では、その程度の認識だった。
はいここで問題です。
アマリアは夜会の事件の後、外に出る時は基本的に伊達眼鏡をかけていました。
当然、秘書としてサミュエルの前でも常にかけています。
なのに何故、今日はおめかし(地味ですけど)をして瞳の色も違うアマリアの事をすぐに気づけたのでしょうか?












