93.遺したもの
「……母はここに来ていたんだな」
ロダンの小さな呟きが波間から聞こえる。
愛情と郷愁の響きだ。
「君がアザラシを転がさなければ、気づかなかっただろう。感謝する」
「どういたしまして」
エミリアは言いながら、精霊アザラシの背中を撫でる。
ちょっとつるっとして温かい。ルルとは違う、癒しの触感だった。
「で、何て書いてあるかだけど……」
エミリアとロダンは床へと顔を近づけた。
刻まれているルーンがかなり小さいので、必然的に髪が触れ合う距離だ。
星降る夜、海へ船で。ふたりきりであっても。
これでドキドキするような関係ではない……。
「暗号化はされてないな、どれ……」
ルーンの文字は小さいだけで普通に読み取れた。
ここまで来た人間に暗号は不要、ということか。
『私は罪を犯しました』
魔力の質と筆跡はマルテのものだった。
だけど、意味がわからない。懺悔から一文が始まっている……?
ふたりはそのままマルテの文を読み進める。
『長い探索の末、私はこのルーンに辿り着きました。ですが、私には資格がなかったようです。結局のところ、私には理解できませんでした――』
エミリアはぎょっとした。
てっきりマルテはこの石板のルーンを読み解いたものだと思ったのに。
そうではなかったらしい。
ということは、この石板を読み解いたのはエミリアが初ということだろうか?
その前にも読んだ人間がいるのだろうか。
『この古代ルーンは公開されるべきですが、私にはできませんでした。イセルナーレと世界の安全を考えた時、何が起きてしまうのか。私にはその責任を負えません』
……エミリアは言葉の意味を考えていた。
確かにこのルーンは他に類するものがない、遺産だ。
でもせいぜい過去の情景を映し出すだけ。
どうせ、あと数十年もすれば写真だって映画だって出てくる。
北の諸国ではもう実用化間近だとも……。
このルーンで何かが大きく変わるとは思えなかった。
しかしそれはエミリアの知識と感性だから判断できることだ。
ロダンはずいぶんとこのルーンの影響を気にしていた。
『それゆえ私はこの探索が何をもたらしたのか、できる限りの結果を信頼できる貴族、ロンダート男爵へ託します』
「えっ……? ロンダート男爵って……!」
「今のブラックパール船舶だな。だが、母が生きていた頃の先代ロンダート男爵はもう亡くなっている。イヴァン・ロンダートが聞いているなら……」
なんてことだ。
結局、イヴァンの元に集まっているなんて。
いや、これは因果が逆だとエミリアは思った。
この遺言は間違いなく、ブラックパール号が沈む前の懺悔なのだから。
15年経過してもイヴァンはマルテと父からの遺言を実行している。
あの昼食の時に聞いた、熱意と執念のままに。
床のルーンはもう終わりに近づいていた。
残る文章はふたつだけ。
『最後にこのルーンを見つけてくれた知恵ある人へ。もしロダン・カーリックが生きていたらずっと愛していたと伝えてください――』
ルーンの文字列が震えて歪み、切ない愛情が伝わってきた。
別れの文というにはあまりにいじらしく、胸が張り裂けそうになる。
このルーンを刻んだマルテは、きっと心優しい人だったのだろう。
最後まで息子を想っていたのだ。
「……母さん」
エミリアの瞳に涙が集まってくる。
年齢を重ねると、こういうのが駄目になってしまう。
ああ、どうしても涙が抑えきれない。
自分が泣いてどうするんだ。
でも……やっとだ。
15年振りにロダンとマルテが再会できて――。
「ロダン……」
「君が泣くな」
エミリアの瞳からこぼれそうな涙をロダンが指で拭う。
白い魔力が涙越しに伝わって、エミリアの心を満たす。
感謝と惜別。
別れを伝えられなかったふたりの想いが交差していた。
「……母は俺を愛していたんだな」
「そうだよ。うん……!」
「遺体もなく、母がいなくなり――どこか今まで、夢のように感じていた」
ロダンが静かに言葉を紡ぐ。
それはきっと、彼が他の人に言ったことのない感情だったのだろう。
「母は…………もう去っていたんだな。やっと納得できた」
エミリアがロダンの腕を取る。
そっと寄り添いたい気持ちでエミリアの心はあふれていた。
残るルーンも、あと一文だけ。
それはマルテの署名だった。
『許されざる墓堀人のマルテ』
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