92.精霊のお腹の下
モーガン……もちろんエミリアも銛の勇者の絵本でその名前は知っている。
だが絵本の中のモーガンとさきほどの女性ではまるで違う。
「てっきりモーガンって架空の人物だと思っていたわ。絵本の中だと禿頭の男だし」
「それは銛の勇者の物語が形成されていく過程で変質したものだ。歴史的文献では女性だったとされている」
「へぇー……でもどれくらい前の人物なの? ここ数百年じゃないわよね」
ウォリス王国でも高名なら他国の魔術師についても学ぶ。
まぁ、前世でニュートンやガリレオ・ガリレイについて学ぶようなものだ。
でもエミリアの記憶の中にモーガンという魔術師はいない。
ということは、かなり前の人物ではないだろうか。
「ふむ、実在したとしても2000年以上前の人物だからな」
「……え?」
それはあまりにも昔すぎないだろうか。
この世界で使われる大陸歴は、初めて魔術を体系化させて大陸を席巻したネレイリス帝国にちなむ。
ネレイリス帝国の初代皇帝の即位から、今日まで1898年……それよりもさらに古い。
ネレイリス帝国はもはや欠片も残っていないが、それさえも途方もなく昔の話だ。
現代日本からしたら2000年前は弥生時代、西洋でもローマの頃である。
エミリアの戸惑いを察したロダンが言わんことではない、という視線を送ってきた。
「だから言っただろう。雲をも掴むような話だ」
「……そうね。予想よりも昔の人だったわ」
「イセルナーレでは他に該当しそうな人物はいない。人の意識を奪い、夢を見せるような強大なルーンが2000年以上前に残せたかも疑問だ」
ロダンが立ち上がり、エミリアの手を取る。
エミリアはロダンを心配させないよう、ぐっと手を握って力強く立ち上がった。
「足元もしっかりしていそうだな」
「ええ、大丈夫よ……!」
ふたりは並んで石板にもう一度向き合う。
超高密度のルーンは消え失せ、今は何の魔力も感じられない。
ロダンが石板に触れる。
石板に残されたのはわずかな魔力の痕跡だけだった。
「蓄えていた魔力が弾けて消えたか……」
「……私が触れたから? 一度、発動したら消えるとか」
ルーン魔術にはスイッチ式のものもある。
魔力灯や鉄道列車はその代表格だ。
「スイッチ式のルーンが実用化されたのはここ100年の話だ。古代のルーン魔術師に可能な技術とは思えんが」
ロダンは慎重に石板の表面を確かめる。
普通ならルーン文字から機構や効果が逆算できるのだが……あまりに細かく、高密度の文字列ゆえに内容が読み取れない。
エミリアも石板に触れないよう見てみるが、とても無理だった。
目と感覚をいくら集中させてもわからない。
「……パスタに書かれた辞書を読もうとしてるみたいだな」
「適切な例えね」
石板に魔力を流そうにも、構造もわからずに行うのは憚られる。
これほど繊細なルーンだと壊してしまうのでは……。
「困ったわね」
魔力のなくなった石板からは何も読み取れず、役立たずということだ。
手掛かりが途切れてしまった。
「魔力が溜まるのを待つのは時間がかかりすぎる。やれやれだ」
「はぁ……んん?」
エミリアが地面を見ると、寝転がっている精霊アザラシが尾ひれをぴくぴくさせていた。
何かに反応しているみたいな、妙な動きだ……。
「ふきゅん」
「ふむむ……?」
エミリアが屈んで精霊アザラシくんをじっと見つめる。
「……精霊アザラシがどうかしたか?」
「うーん……」
観察していると、精霊アザラシの全身がぴくぴくしているような……。
さっき、岩の扉のところではこんな風に寝ていなかった気がする。
「ちょっと失礼」
言って、エミリアは精霊アザラシをごろんと転がしてみる。
パプリカのような精霊アザラシくんは簡単に転がった。
「……ふきゅ、すー……」
精霊アザラシは転がされてもそのまま寝ている。
のんきな子だった。
「あ」
そして精霊アザラシの寝ていた場所に魔力の反応がある。
小さくて精霊の魔力に紛れていたが、人の刻んだルーンだ。
冷たくて、どこか滑らかで。
エミリアは一目でロダンの刻むルーンに雰囲気が似ていると直感した。
「精霊が下敷きにしていたのか」
「鉄道のレールの上でも寝ていたでしょ? もしかしてと思って」
「よく気がついたな……。寝るのが好きな丸すぎるアザラシとしか思ってなかった」
ちょっと笑える。
アザラシなんだから寝ててもいいじゃないか……!
床に刻まれたルーンの上の土埃と精霊アザラシの魔力を払う。
するとはっきりとルーンが読み取れるようになった。
間違いない――。
これはロダンの母、マルテの刻んだルーンだ。
スヤァ…(˘ω˘ っ )3
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