91.石板の女性
「うん、私はなんともない……」
今、見た光景はいったい何なのだろうか。
石板の前に知らない黒髪の女性がいて――恨み言をいっていた。
「ふきゅー」
「あれ? この子は……」
エミリアの太もも近くに精霊アザラシがいる。
岩の扉で寝そべっていた、太めでパプリカみたいな子だ。
精霊アザラシはぺちぺちとヒレでエミリアの脚を撫でていた。
半分、閉じかけた眼はとても眠そう……だが、愛情に満ちている。
温かみのある精霊アザラシの魔力はさっきの情景でも感じ取れていた。
エミリアが手を伸ばし、精霊アザラシのヒレに触れる。
「……あなたも助けてくれたの?」
「ふきゅきゅ」
精霊アザラシはごろんと寝転がると、そのまま目を閉じた。
どうやら完全に寝るつもりらしい。
「エミリア……一体、何があったんだ?」
「うーんと、私も自分に何が起きたか、よくわからないんだけど……」
「君はあの石板のルーンに触れて気絶した」
ロダンが忌々しそうに石板を睨んだ。
石板からはもうルーンの魔力が消えている。
「同時に石板に信じられないほどのルーンが現れて……だが、その魔力も消えた。もうあの石板には何の異常も感じられない」
「……なるほどね」
心配するロダンの手を取り、エミリアは体勢を整えた。
岩の床にちょこんと座る。
体調的には何の問題もない。
「ちょっと信じられないことがあったんだけど――」
エミリアはさきほどのことを、ロダンに整理して伝えた。
意識が遠ざかり、知らない女性の背後から声を聞いたこと。
その女性が強い負の感情を抱いていたこと。
……そしてロダンの魔力を感じて、抜け出せたこと。
「そんなことが……」
エミリアの話を聞いて、ロダンは顎に手を当てる。
それは彼の常識ではありえない話だった。
ルーン魔術は即物的な効果が発揮されるものばかり。
今、ロダンが履いている脚力強化の靴とか。
過去の情景を映し出したり追体験させるルーンなど、エミリアもロダンも知らない。
「信じられん。影響は残っていないんだろうな」
「大丈夫だと思うけど……。え? 気にするところ、そこ?」
ロダンが真面目な顔でエミリアの頭の各所に触れる。
髪、額、頬、首。触診されているみたいだ。
エミリアの言葉を受けて、ロダンが目を細める。
「当然だ。そんな奇怪なルーン、どんな悪影響があるかわからん」
「うーん……まぁ、言われてみれば」
「息子の名前は?」
「フォード・セリド」
「今日の日付は?」
「大陸歴1898年8月13日」
「学院時代、君が授業で釣りに出かけて湖に落ちた日は?」
「……よくそんな下らない出来事を……大陸歴1894年8月9日よ」
エミリアが不服そうに唇を曲げる。
あの日、釣りに不慣れなエミリアはあろうことか流木に針をひっかけたのだ。
そのまま力を入れたエミリアは湖へどぽーん……。
そして溺れるかと思ってパニックになったエミリアを、ロダンが飛び込んで助けてくれたのだ。
『ありがとう、助かったわ』
『うん……だけど足が着く深さだ』
『…………』
こんな出来事なので、エミリアの脳裏にも深く刻み込まれている。
本当に下らない出来事だ。
記憶の確からしさを測定するなら、いいエピソードかもしれないが。
「……ふむ。とりあえず問題はないようだ。魔力にも異常なし」
「安心できた?」
「なるべく早く、医者に診せたほうがいいと思うがな」
エミリアはそこまでの必要性を感じないのだが。
実際、前世の知識的にはテレビや映画を見ていたような気分だった。
ジャンルとしてはホラー映画だろうが。
見ている時は真に迫った恐ろしさがあったものの、終わってみればそこまで害があるようには思えない……。
それよりも今はあの情景について、エミリアは知りたかった。
「私が見た女性に心当たりは?」
「ない」
ロダンの言葉にはエミリアだけが感じ取れる嘘があった。
エミリアが素早く指摘する。
「嘘ついた」
「……嘘ではない」
「絶対に嘘だと思う」
エミリアが食い下がると、ロダンが観念したように息を吐く。
「黒髪の強大な女性魔術師――イセルナーレの歴史に詳しい者なら、思い浮かべる人物がひとりいる」
「ふむふむ」
「銛の勇者ヘルスドットの宿敵。悪の魔術師のモーガンだ」
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