142.講義審査
だがルーンを消去し、ほっと一息……というわけにはいかない。
まだ契約書にサインはしていないのだ。気を抜くには早すぎる。
トリスターノがエミリアに書類を渡す。
上質紙だがまぁまぁ薄っぺらい。
「これが講義内容のレジュメです」
「ふむふむ……」
丁寧なことに挨拶から喋ること、黒板への板書まで全部記してある。
これを書いたのは相当几帳面な人だとエミリアは思った。
そして字は丸めで癖はない。
トリスターノのルーンとは全然違って非常に読みやすい。
(……この書類の作成者は女性かな?)
「季節外れの生牡蠣を食べて倒れた教員のものです。この書類は事前に提出させたものですが、おかげで講義の内容を再検討する必要はありません」
「やはりそうですか……」
エミリアは心の中でその教員の健康を祈っておく。
やっぱり生の海産物にはリスクが存在してしまうのだ。
「内容に不明な点は?」
「ええ――大丈夫だと思います」
書いてある内容は基礎的なルーンについてだ。
ウォリスの貴族学院では初めのほうに叩き込まれる内容で、難しくはない。
「ただ、途中で内容が終わっているような……?」
「全部を持ってくるとかなりの枚数になります。試すのは最初のほうだけで充分でしょう」
トリスターノがつかつかと教壇から降りて、学生用の机へ向かう。
「では実際に、口頭で喋れるかどうかを見させてもらいます」
学生用には細長く、黒の長机が並んでいる。
やや古めかしいが基本的には日本の大学の講義室と変わらない。
トリスターノがすちゃっと着座する。
そして顎の下で手を組んで……威圧感マシマシだった。
「フローラ、あなたもこちらに」
「……わかったわ」
フローラはトリスターノからちょっと離れたところに座る。
どちらも学生には全然見えない。
(どうやって声を出していこうかな……?)
エミリアには講師の経験などはない。
せいぜい貴族学院でのスピーチとフォードを育てた経験くらいだ。
(……まぁ、ああいうノリでいいのかな?)
イセルナーレの大学は15歳から18歳まで。
この世界の義務教育の期間が短い分、このような形式なのだ。
とはいえ、この制度も前世に近くなっていくだろう。
イセルナーレの新聞にもよく教育期間の延長が議論されている。
もう50年くらいすると……現代とさほど変わらない制度になるかもしれない。
エミリアはこほんと咳払いして喉の調子を整える。
抑揚をつけて、声量は大きめに。でないと後ろまで聞こえない。
『えー、イセルナーレの学生の皆さん。ルーンの基礎講義にようこそ――』
エミリアはレジュメを手に取ったりせず、なるべく前を見て話を続けた。
発声法や立ち振る舞い、これらも貴族の社交術に含まれる。
エミリアにとっては昔取った杵柄だ。
(なりきれ、私は先生だ。先生、先生……)
暗示めいた心持ちでエミリアが話し始めて15分ほど。
ふっとトリスターノが手を挙げた。
なりきったエミリアは先生のテンションのまま、トリスターノへ目線を移す。
「はい、トリスターノ君。質問でしょうか?」
トリスターノとフローラが目を丸くする。
「…………」
しまった!!
エミリアは凍りつく。
つい先生モードで挙手に反応してしまった。
トリスターノもあまりのことに手を挙げたまま動きが止まっている。
マズい。どうしよう。
エミリアは顔を崩さないようにして、頭を回転させる。
流れる沈黙。
どうしよう。どうしよう……!
「ふくく……っ」
気まずい空気を破ったのはフローラだった。
この一連の流れに我慢できなくなり、笑い出したのだ。
「あはは、トリスターノさん! 審査はもういいでしょう?」
「……ええ。挙手への反応も良しとしましょう」
雰囲気が弛緩した瞬間、エミリアは高速で頭を下げた。
「あああーー!! 本当にすみませんーっ!!」
「いいのよ、エミリアさん。手を挙げただけじゃわからないものねぇ」
フローラは明らかに面白がっていた。
トリスターノは――真面目な顔のまま、エミリアに言う。
「書類を見るのも最小限、声もよく通っていて、問題はありませんでしたよ」
「はいっ! どうもありがとうございますっ!!」
……トリスターノのフォローにエミリアは再び頭を下る。
こうしてエミリアは審査をクリアすることができたのだった。
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