123.波と心音
それは一瞬のようで。
エミリアにはずっと長い物語であった。
マルテの旅路をエミリアは追いかけ、見た。
ふっと意識が戻るとエミリアの指先には紫の杖の破片がある。
ほんのわずか、弱々しい魔力が破片から放たれていた。
隣のロダンからマルテに似た温かさを感じる。
エミリアはロダンを心配させたことに気づいた。
「……エミリア?」
「大丈夫、今回は大丈夫よ」
終わってみると前の石板に比べて疲労感はほとんどない。
映画を見ているみたいな感覚だった。
この情景は――杖が保存した記憶か。
それともマルテの刻んだ想いだろうか。
ロダンがエミリアにしか聞こえないように尋ねる。
「見たんだな……?」
「うん。でも、もう見えないわ」
エミリアは爪先で杖の破片を叩く。
……何の反応もない。残った魔力も微弱そのものだ。
「ロダンのほうこそ、金庫のほうはもういいの?」
「……ああ」
エミリアはロダンの抱える赤の袋に視線を向けた。
わずかにロダンが赤の袋をエミリアから隠そうとする。
赤の機密文書が入った袋にどのような書類があるのか、エミリアにはわかっていた。
話すべきことはたくさんある。
しかし焦る必要はない。
ここからイセルナーレの港に戻るまで、たっぷりと時間はあるのだ。
エミリアの仕事は終わった。
残る仕事は現場検証と金庫そのものの移動――それは他に任せ、エミリアはロダンの船でイセルナーレの王都へ戻る。
「今日は本当にありがとうね。お腹いっぱい食べて……!」
エミリアは持ってきた缶詰を開けて、精霊カモメに食べてもらっていた。
甲板に並ぶのは4個の缶詰――イワシ、ツナ、カニ、サバである。
「ふっきゅ、ふきゅう!」
精霊カモメはるんるんと小躍りしながら缶詰を食べていた。
イワシをつまみ、ツナをくわえ、カニを味見し、サバを飲み込む。
缶詰パーティーである。
「美味しい?」
「ふきゅきゅ!」
こくこくと精霊カモメが頷く。
くちばしからカニの白い身とサバの味つけ油身がはみ出ていた。
ミックスして食べるのはアリなのだろうか、と一瞬思ったが……。
精霊カモメはぴょんぴょんしながら食べているので良しとしよう。
精霊カモメへのおもてなしが一段落すると、ロダンがエミリアへ聞いた。
「それで……何を見たんだ?」
「――ちょっと長くなるけれど」
舵を固定したロダンがエミリアのそばに座る。
エミリアは杖の破片を紺色のハンカチに包んで持ってきていた。
膝の上にそのハンカチを広げ、エミリアはロダンへ見たことを語った。
いくつかの出来事は省略しつつ。
省いたのは主に前半部分……マルテとカーリック伯爵の部分だ。
(さすがに両親の馴れ初めはね……)
エミリアも自分の両親の馴れ初めなんて、第三者から聞きたくはない。
初めは冷静に見えたロダンであったが、やはり話を聞くうちに彼の内面が揺れ動くのがわかった。
それはエミリアも同じだった。
過ぎ去る情景を見ていたときは圧倒されるだけだったが、思い出しながら話すと――胸の痛みが止まらない。
マルテはそんな、死ななければならない罪を犯したのだろうか?
わからない……ただ、悲しい。
これはもう過去のことで、エミリアにできるのは伝えることだけ。
エミリアが話し終えると、ロダンは軽く息を吐いた。
彼の膝の上の手が震えている。
「……そうか」
「私が見たのは、ここまで。杖が砕けて――あのさっき見た岩壁にブラックパール号が当たるところまでだった」
「エミリア、辛いことを話させたな」
「えっ……?」
戸惑うエミリアの目元をロダンがそっと拭う。
エミリアはいつの間にか、涙を流していた。
悲しさに身体が反応していたのだ。
「あ、私……私が泣いちゃったら……ごめんなさい」
氷の魔力がエミリアの涙に触れ、白い粒に変える。
対して、ロダンの白く細長い指は熱いほどだった。
エミリアが少し落ち着いてから、ロダンがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「心から感謝する。母は誇り高く、未来を想っていたんだな」
「……そう、最期の瞬間まで。彼女はイセルナーレと……ロダンのことを考えてたよ」
ロダンはほとんどいつも冷静な男だ。
だけど、今は彼も泣きそうになっているようだった。
泣けばいいのに、とエミリアは思う。
でもロダンは泣かないだろう、ともわかっていた。
「ありがとう。俺も母を誇りに思う」
「きっとマルテさんも―――ロダンの成長を嬉しく思ってるよ」
それはエミリアの本心で。
彼女の愛した息子がエミリアの隣にいた。
ふいに。
ロダンがエミリアの肩を静かに抱く。
「…………」
エミリアは何も言わず、そっとロダンの胸へ体重を傾けた。
穏やかな波の音とロダンの心音が重なって聞こえる。
船は水平線の向こうへ、帰るべきイセルナーレへと向かっていた。
これにて第2部第3章終了です!
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