122.過去7
マルテの部下は退避命令に抵抗したが、最終的に全員が救命ボートに乗ってブラックパール号を去った。
やはり彼らも思っていたのだ。
この任務は何かが妙だと。
あとはロンダート男爵の船団が救命ボートを回収してくれるはず……。
部下はなんとかなるだろう。
カローナ連合の艦隊さえ、どうにかすれば。
荷を積んだ船団で逃げ切れるかは運次第としか言いようがない。
査察官の姿は見えなかったが、さっさと逃げたか。まぁ、彼が長居するはずもない。
「……あなたが嵐を呼ぶというのなら」
マルテは甲板でひとり、カローナ連合の艦隊に対峙した。
航路の左右に美しい小島と岩壁が見える。
マルテの手には紫の杖が握られていた。
杖は奇妙なほど手に馴染んでいる。
……彼女が待っていた。
「ただ、一度だけ。呼んで」
マルテはあの岬の情景を思い出し、杖に魔力を込めて解き放った。
超高密度のルーンが杖に浮かび上がる。
「ぐぅぅっ!」
杖がマルテの魔力を恐ろしい勢いで吸い上げる。
意識が飛びそうになるのを、マルテはなんとか踏み止まった。
……杖は歓喜に震えていた。
災いを呼び起こせ。
破滅と蹂躙、嵐の宴の幕を開けよ。
黒の魔力が天空へと解き放たれる。
あの時の夢に見たまま。
まもなく、黒雲が天空を覆い始めた。
風、雨、波がブラックパール号を揺らす。
このまま進めば、どうなるだろうか。
いくら嵐といえども今の時代の艦隊を沈めることは不可能だろう。
きっとカローナ連合の軍艦が砲弾を放ち、ブラックパール号を粉々に打ち砕く。
あるいは岩壁にぶち当たり、沈没するだろうか。
「……それでいいわ」
マルテの心は穏やかだった。
これでやっと杖を終わらせることができるのだから。
瞬間、風の音に紛れて銃声が響いた。
「あっ――」
マルテが振り向く。
いなくなったと思っていた査察官の男がライフルを構えていた。
感情のない男だと思っていたが、その男の顔には今や、任務への暗い情熱が渦巻いていた。
マルテは膝から崩れ落ちた。脇腹を撃たれている。
打ちつける雨の中、血がにじんだ。
「やはりあなたは裏切っていたのですね」
査察官の男が厳しい目でマルテを見下ろし、彼女の元へと歩いていく。
「我々から逃げることはできない――あなたはその教訓となる」
「……そう」
肺から空気が漏れ出る。
身体の熱が叩きつける雨と水だまりに溶けていく。
嵐は――止まない。
マルテは倒れながらも杖から手を離さなかった。
否、離せなかったのだ。
杖はマルテの魔力を最期まで吸い尽くそうとしている。
査察官が屈み、杖に手を伸ばす。
「この素晴らしいルーンの遺産は貰っていきますよ」
「どうぞ、差し上げるわ」
マルテは査察官に哀れみの視線を向けた。
これは人が制御できる範疇の代物ではない。
マルテもこの男も、そのために破滅する。
査察官の手が杖を掴み――表情が一変する。
恐怖と絶望……見てはならない深淵を彼も見たのだ。
「あっ、ぐぁぁぁっつ!?」
査察官が首元を抑えながら絶叫する。
彼は何を見ているのか、見させられているのか。
ただ、マルテには確信があった。
「あなたは選ばれなかったようね」
「はぁっ! ああああーーーっ!!」
査察官の魔力も杖に奪われていく。
嵐はさらに強く、ブラックパール号は何メートルも上下に揺られた。
はちゃめちゃな揺れに翻弄され、船が巨大な岩壁へと近づく。
杖の力は想像以上だった。
査察官がなんとか杖から手を離し、マルテを睨む。
「き、貴様……!」
「これが私の選択よ」
ぐわんと高波にブラックパール号がさらわれる。
同時に、鉄が裂ける衝撃音が響いた。
どうやら船底が岩礁に接触したようだ。
さらに斜めになっていくブラックパール号。査察官は立っていられず、甲板の大砲へと叩きつけられる。
「……がはっ!」
まばたきの間に、ブラックパール号は振り子のように揺れた。
マルテもなす術もなく、甲板の手すりに摑まるしかない。
杖はまだマルテの手にあった。
まだほんの少しだけ、時間は残っている。
もう首が動かない。ロンダート男爵の船団は無事だろうか。
ごめんなさい。信じることしかマルテにはできなかった。
もしも彼が無事でないなら、マルテには大きな重荷があった。
アルシャンテ諸島の石板だ。
あの石板を遺してしまったのが、善か悪か。
後世に託すより他にない。
杖にあるのは査察官の魔力と残った自分の魔力――マルテは最後のメッセージを甲板に記した。
『アルシャンテ諸島 月の交差する岩壁 ふたつの首』
マルテは息を吐いた。
甲板の後方が裂け、マルテの身体は海に投げ出される寸前である。
でも、まだだ。マルテはわずかな力で杖を掲げる。
流されるべき血も、もうほとんど残っていない。
それでもまだ、あとひとつだけ。
試すべきことがある。
マルテは手のひらに魔力を込め、拙いルーンを杖に刻み始めた。杖に干渉させるために。
これはルーン魔術の禁じ手だ。
ルーンが不用意に干渉すると、時に悲惨な事故が起きる。
特に劣化したルーンや異なる魔力なら……。
今、杖には査察官の魔力が取り込まれている。
さらには周囲に人や物もない。
思ってもみなかったチャンスだった。
『――やめろ』
彼女の抵抗が初めて聞こえた。
マルテの指先は止まらない。震える指がルーンを刻む。
……試して正解だった。
新しく刻むのは止められないらしい。
もっとも、こんな状況でなければ杖は無傷だろうが。
でもこの瞬間――機能が発現し、魔力を蓄えている今ならば。
マルテは気力を振り絞って言い放つ。
「断るわ。あなたも私も――海の藻屑になるのよ!」
乱雑なマルテのルーンが杖のルーンをかき乱す。
そして、黒の光が杖に満ちた。
衝撃の中で、杖がひび割れるのが見える。
やり遂げたのだ。杖の内部から魔力があふれ、器の杖を砕く。
ブラックパール号の眼前には岩壁が迫っていた。
後悔はない。
自分は開けてはならない墓を暴いた。
その報いを受けるだけ――墓掘人として。
遠く、最期にマルテはかすむ目で見た。
黒雲の下、カローナ連合の艦隊が嵐から逃げていく。
あの方角ならロンダート男爵の船団は助かるだろう。
カローナ連合は船団への攻撃を諦めたのだ。
本当に良かった。
マルテはささやく。
「――私、頑張れたかな? あなたにふさわしい母親になれたかな、ロダン」
次回よりエミリアの話に戻ります。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。
【お願い】
お読みいただき、ありがとうございます!!
「面白かった!」「続きが気になる!」と思ってくれた方は、
『ブックマーク』やポイントの☆☆☆☆☆を★★★★★に変えて応援していただければ、とても嬉しく思います!
皆様のブックマークと評価はモチベーションと今後の更新の励みになります!!!
何卒、よろしくお願いいたします!







