121.過去6
その日、イセルナーレの空は晴天であった。
雲ひとつなく、絶好の航海日和である。
ブラックパール号の甲板でマルテはロンダート男爵と握手を交わした。
ロンダート男爵は浅く日焼けした、兄とそう変わらない年齢の偉丈夫である。
彼とは海軍に就職して以来、長い付き合いだ。
金髪をなびかせる彼にマルテは声をかけた。
「また航海をご一緒できて光栄です、ロンダート殿」
「こちらこそ、マルテ大尉。船団の護衛、お頼みいたします」
ロンダート男爵はマルテの部下もほぼ把握していた。
そんな彼が甲板上で唯一見慣れない人物――査察官に目配せする。
査察官は片眼鏡の四角い顔の男であり、油断なく観察する様は狩猟者のようであった。
「……どうやら情勢は中々に緊迫しているようですな」
「ええ――何事もなければいいのですが」
海軍からの指令はカローナ連合に敵対する、第三国への輸送船団の護衛。
場所的にカローナ海を通過しなければならない。
マルテはロンダート船舶の船団を見やった。
「今回はイヴァン君も船団におられるので?」
「私の船に乗せて色々と学ばせる予定です。あいつにはこの船団を継いでもらわないといけないですからね」
「もうそんな年齢ですか」
海軍にマルテが入った時は10歳にもなっておらず、ロンダート男爵の脚にしがみついていた気がする。
月日が経つのは早いものだ。
マルテは肩から下げるバッグから小さなオルゴールを取り出した。
手のひらに乗るほどのオルゴールだ。
マルテは心の動きを察知されないよう、つとめて抑制した。
査察官がマルテとロンダート男爵に注目している。
「これをオルゴール好きのイヴァン君へ。彼の誕生日も近いですよね?」
「大尉……はい、そうですね」
ロンダート男爵も一流の商人だ。
顔色をまったく崩さず、オルゴールを受け取る。
もちろんイヴァンはオルゴール好きではない。
適当に言っただけだ。だが、こうすればメッセージを届けられる。
大した量のメッセージは入れられないが、仕方ない。
出航時間が近づいている。マルテとロンダート男爵は目配せをし、甲板から別れた。
ブラックパール号とロンダート男爵の船団は出航する。
蒸気の煙を吐き出し、遠国へ。
事件が起きたのは、カローナ海に近づいてからだった。
それまで言葉をほぼ発さず、佇んでいた査察官が船長室に来たのだ。
「大尉、命令書です」
「……命令書?」
「カローナ海に接近してから渡すようにと仰せつかっておりましたので」
査察官はにべもなく答えて、赤色の皮袋をマルテへ差し出した。
受け取ったマルテは早速、命令書を確認する。
命令書は正式な機密文書で、不審な点は何もない。
『カローナ海、オルフェン諸島へ通過して目的地へ進行せよ』
「オルフェン諸島……!?」
マルテは驚愕した。
オルフェン諸島は小島が多く、視界が効かない。
しかもカローナ連合の海上要塞にも近いはず。
もし襲われたらひとたまりもなかった。
「カローナ連合を不必要に刺激しますよ」
「承知の上です。航路を変更してください、大尉」
「…………」
マルテは査察官をじっと睨んだ。
心がざわめき、ささくれだつ。
「まさか――あえて火種を起こそうと?」
「口を慎みなさい。あなたに選択権はありませんよ」
査察官はそれだけ言い、船長室から出ていった。
ひとり残され、やはりそうなのかとマルテは得心した。
墓堀人はイセルナーレ内の主戦派に近い……思想的に無理もないが。
主戦派には知識という武器が必要で、墓堀人はその知識を漁る組織なのだから。
マルテは船長室のロッカーを開ける。
そこには秘密裏に持ち込んだ、紫の杖があった。
――呼んでいる。
彼女は飢え、乾き、欲している。
血と涙と嵐を。
そのために杖はあり、マルテがいる。
――時が来たのだ。
カローナ海へ突き進むにつれ、ブラックパール号の船員は不安に苛まれていた。
あまりにカローナ連合の勢力圏に近すぎるからだ。
それでもマルテの部下は忠実に職務をこなす。
小島、岩壁……四方を監視し続ける。
そしてついに。
船員が恐れていたこと、マルテの予期していたことが起きた。
「――カローナ連合の艦隊だ! 20隻以上いる!」
マストの上部から怒声が飛ぶ。
見計らったかのように、カローナ連合の艦隊と出くわしたのだ。
その絶望的な報告を聞きながらも、マルテの鼓動は平常だった。
あまりに都合が良すぎる。
(……どうやら信頼を失っただけじゃ、なかったようね)
墓堀人の影は遠くまで、遥か彼方にまで伸びる。
カローナ連合を動かすことさえ不可能ではないだろう。
ブラックパール号は生贄なのだ。
墓堀人を失望させた報いか。それとも主戦派の手駒か。
一気に恐慌状態へ追い込まれる甲板で、マルテは拳を振り上げた。
「後方の船団へ光通信! ただちに航路予定を破棄し、本国へ帰還せよと! 本船は――」
マルテは息を吸って、叫んだ。
もう戻れない。だが後悔はなかった。
「このまま直進! 船員は即座に退避せよ!」
「ど、どういうことですか!? 大尉はどうされるおつもりで!」
マルテは微笑んだ。
船員を安心させるために。
「私はここに残るわ」
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