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第63話 過去編

 2年足らずしか住んでいないマンションを引き払い、広いマンションへと越したのは棗がまだ1歳になる前の事だった。



 これから増えていく家族を見据え、前よりも部屋数が多く勤務地から近い場所を選ぶことにした。その分お金はかかったが、未来への投資と思えば救われた。



 さらに、ここではペットも飼える。予てより妻が希望していた子犬を新しい家族として迎える計画もしている。





「将来は自然に溢れた広大な土地でいっぱいの動物と一緒に暮らしたいなぁ」




 自然とはかけ離れた無機質な町並みにあるマンションの一室で、妻が愚痴ともとれる言い方をした。ここに住む限りは一生叶うことはない。




「マンションのローンを組んでからそういう事言うのやめてくれないかな」私も冗談で言った。



「それか、ポツポツと植えられてる可哀相な植物たちが反逆を起こして、東京を侵略しないかぁ」




 近所の植木があちこちに根を伸ばし、巨大な樹木へと変貌を遂げる想像をしてみた。逃げまとう人々を尻目にあちらこちらで植物たちが猛威を振るい街はパニックに陥る。




「・・・棗に変なこと吹き込まないでくれよ」



「変なとはなんだ変なとは!」




 プンスカと効果音が聞こえてきそうな幼い怒り方で私を責めた。でもその暮らし方は魅力的だ。時々、ここは息が詰まりそうになる。




「とりあえず犬を飼うことから始めようか」



「そうだね」



「それと、この娘が大きくなる前に料理も練習しておかないとな」



「うっ、もももももちろん、家にいる間はそっちの勉強も頑張るつもりだし!?」




 妻は残念なことに食品メーカーの会社は辞めていない。現在は休職扱いで、数年には現場復帰を見据えている。一旦平和になった食品産業に、再び災厄が送り込まれると思うといたたまれなくなる。



 相変わらず料理はダメダメで、料理ができない呪いにでもかかっていると説明されたほうが腑に落ちるくらいだ。




 それから、一匹の子犬を家族として迎え入れた。犬種は「キャバリアキングチャールズスパニエル」。耳が長く、クリクリとした目が愛らしい。



 名前は「リリー」。妻が命名した。日本語にすると百合という意味で、また植物から名前をとったのか、と呆れて笑えた。







 営みはあったが、棗が小学生にあがるまで次の子供は授からなかった。そして、そのタイミングで思いも寄らない報告が妻からあった。




「検査入院?」



「うん」




 復帰を果たした職場の健康診断で検査入院の結果を受けたと妻から言われたのは、仕事が終わり棗とリリーが寝静まった夜だった。長年お世話になった上司が実家の家業を継ぐために退職し、そのポストを継ぐべく会社で奮起している時に、出鼻をくじかれた気持ちになった。




「どこか異常がみつかったのか?」



「それを確かめるための検査入院だって」





 私は棗に「お母さんは用事で2.3日居ないから、お父さんと一緒に楽しい事をしよう」と伝えた。当たり前だ。「体の具合が悪いかもしれないから入院で居ないよ」とは良いはずがない。





「帰ってくるぅ?」



 首をかしげて聞いてくる最愛の娘に、「あぁ、すぐ帰ってくるよ」と返事をしたあとに抱きしめた。今になって思えば、棗を安心させるためじゃなく、不安に苛まれている私が安心するためにそうしたのだ。



 


 短いが、妻のいない2人と一匹だけの時間を過ごした。




「おいし~!」



「ふふふ、そうだろそうだろ」




 棗が出来たて熱々のからあげを小さな口いっぱいに頬張る。口の中が火傷をしないか心配になったの注意をした。




 正直生活をする経済的な余裕は十分にあった。しかし、我が家の教育方針では外食はできるだけ控え、子供には自炊した料理を食べさせようと方針を私が打ち出した。妻には青い顔をされたが、「ルーを溶かしたカレー」や「茹でたパスタに既製品ソース」に「既製品を出汁の鍋」といった、限りなく黒寄りのグレーな一品で毎日をやり過ごしていた。



 今日は妻の検査入院に合わせ、会社を早退して買い物をしてキッチンに立っていた。大層なものは作れないが、一般的な料理なら作れるほどの腕はある、それに、たまにはこうして料理の腕を振るうのも悪くはない。家の家業がなかったら、料理の道に進みたいと思ったこともある。





「明日はオムライスを作ろうな」



「やったー!」




 掌に愛情をたっぷりと滲ませ、棗の頭を撫でた。それは一種の(まじな)いでもあった。



 大丈夫だ、苗の検査は至って健康だと診断される。



 リリーを抱きながら気持ちよさそうに目を細め、私の手を受け入れる棗を見ていると自然に前向きになれた。






 神様が人生のシナリオを手掛けているとしたら、そいつはクソ脚本家だ。入院を終えた妻からかかってきた電話で癌が見つかったと宣告された。

 




 ◇◆◇◆◇◆◇◆




 大腸癌。調べてみると、女性の死亡率が高い癌である事を知った。ステージは既に3にまで進行していた。



 手術は二週間後に決まった。




「まさかまさかだよ」




 あっけらかんと妻は言った。宝くじの3万円が当たった程度の反応であったため、現実と夢との区別が曖昧となりそうになった。いっその事夢であればどんなに良いだろうか。




「手術すれば多分大丈夫みたいな事言ってたし、ちょいと幸せの遠回りをするってだけだって」



「多分じゃ困るんだ」




 次の日、私は会社を休んだ。妻に会社を休むと言ったら「そんな大げさだって!心配ないからはやく仕事行ってきて」と家を追い払われたが、とてもじゃないが出勤できるメンタルではなかった。





 適当にカフェ時間を潰し、時間になったら書店へと向かう。付け焼き刃だが医学書を購入して自分なりに癌についてさらに詳しく調べてみた。知識を得れば得るほど、状況を理解して気持ちが楽になれると考えた。



 浅はかだった。無事に切除に成功しても、再発の可能性が高い現状を知れば知るほど徐々に首を締め付けられるような苦しさが襲ってきた。



 もう活字を見ていられなかった。外にある空き缶のゴミ箱に医学書を投げ捨てた。もう、飲みに行こう。昼間から営業している居酒屋で、久しぶりに1人でお酒を煽った。




 お酒は凄い。娘を撫でているよりも、医学書を開いているよりも、「妻は大丈夫だ、なんとかなる」という暗示がかかって安心できた。今にして思えば、よく酒に溺れなかったなと自分に感心してしまう。




 棗には適当な言い訳をその都度してやり過ごした。子供の前では不安を悟られてはいけないのだ。リリーの散歩も妻の日課だが私が引き受けることにした。何も知らない白色とオレンジ色の毛並みを併せ持つリリーの愛らしい顔は、名前の花言葉通りだった。



「純粋」

「無垢」

「華麗」



 私が意味もなく屈むと、リリーは尻尾を優雅に揺らしながら近づいてきた。神秘的に映った愛犬の姿は、不安に押しつぶされそうな私を救ってくれる神に思えた。


  



 手術は終わったが、その後も経過観察でしばらく入院が必要だった。妻のいない日が多くなり、流石に棗につく嘘もネタが尽きた。




「母さんな、ちょっと具合が悪いんだ」



「どのくらい?」



「にがーいお薬を飲んだらまたよくなるくらい」



 言いながら胸が苦しくなった。夜風にあたりたくなったので、夜景が売りのマンションのベランダへ出ると、弱気の僕の顔を殴るような強い風が吹いた。



 夜に煌々と輝く景色一つ一つに灯った生活を想像しながら、私はおもむろに携帯を操作した。



 発信ボタンを押して少し待つと、相手の声が聞こえた。




「もしもし、どうしたの」



「どうかしなきゃ電話しちゃいけないんですか」




 相手の楓さんにいつもの憎まれ口を行った途端、少し心が軽くなった気がした。認めたくはないが、心の拠り所はこの人なんだとしみじみと実感する。




 「実はですね・・・」楓さんに妻の病気と私の心境を洗いざらい告白した。





 どうだ、今度は驚いたか先輩。






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