32話 side 05 静かなる責任
春。
桜の花がまだ少しだけ残る校門をくぐりながら、私は深く息を吸い込んだ。
今日からこの学校の校長として、正式に着任する。
福井県立福井西高校。
県内でも上位に入る進学校だ。
生徒たちの学力レベルは高く、大学進学実績も安定している。
私が今まで勤務してきた学校と比べても、ずいぶんと「落ち着いている」印象だった。
* * *
着任初日。
職員室で簡単な紹介を終えたあと、すぐに全校朝礼があった。
体育館に集まった生徒たちは、全員きちんと制服を着こなし、整然と並んでいた。
号令があると、まるで指揮を受けたかのように、全員がスッと立ち上がる。
(……見事だな)
壇上から見下ろすと、1,000人近い生徒たちが、誰一人として私語をすることなく、こちらに顔を向けていた。
緊張している、というよりは――
「きちんと話を聞こう」という空気。
(進学校とは、こういうものなのか)
静かな感動すら覚えながら、私はマイクの前に立った。
「本日より、福井県立C高校の校長を務めることになりました、吉田です」
声が、体育館に静かに響く。
生徒たちは、真剣なまなざしで聞いていた。
挨拶の内容は、ごく簡単なものだった。
• 「新しい環境でも、変わらず努力を重ねてほしいこと」
• 「高校時代は将来を形作る大事な時間であること」
• 「勉強だけでなく、心も育てていこうということ」
それだけを、静かに伝えた。
長く話す必要はない。
この生徒たちなら、短い言葉でもきっと伝わる。
挨拶を終えると、また一糸乱れず、全員がきちんと着席した。
(立派なものだ……)
壇上から眺める景色が、妙に誇らしかった。
* * *
校長の仕事は、派手なものではない。
日々、細々とした書類に目を通し、予算の確認をし、学校行事の計画に目を通し、ときには地域との調整役もこなす。
生徒たちと直接関わる機会は、実はそれほど多くない。
だが、それでも。
ふと廊下を歩いているとき、すれ違った生徒たちが小さく頭を下げる。
部活動帰りのグラウンドから、「ありがとうございました!」と元気な声が聞こえる。
そんな、ほんの些細な場面で、
(この学校の空気は、確かにいい)
と実感する。
* * *
私の日常は、静かに流れていく。
朝は少し早く出勤し、校舎を一周して異常がないか確認。
授業中は、校内を歩きながら、生徒たちの様子を見守る。
昼休みには、職員室で先生方と情報交換。
夕方には、
校長室に戻って、翌日の予定を整理する。
(静かだが――確かな責任がある)
そんな日々だった。
私には、ひとつだけ――
頭の痛い問題が生まれ始めていた。
それは、「朝礼の話」だった。
この学校では、毎週月曜日の朝礼で、校長が5分以上話をするというのが、長年の慣習だった。
最初の数回はよかった。
新学期に向けた心構え。
学校生活のリズムの作り方。
春の目標設定について――
そんなテーマなら、自然と話すことがあった。
調子に乗り10分以上話したこともある。
だが、5月に入り、ゴールデンウィークも過ぎると――
(……もうネタがない)
正直なところ、私は完全に悩んでいた。
生徒たちに向けて、毎週、意味のある話をする。
しかも5分以上。
(そんなに毎週、人生の教訓みたいなものが思いつくわけないだろ……)
校長室で、原稿用紙を前に頭を抱える日々。
本音を言えば、「無理して話を引き延ばすくらいなら、短い方がいい」とすら思った。
だが、ここは進学校。
しかも、歴代の校長たちは、毎週きちんと話を用意していたらしい。
(手を抜くわけには、いかない)
校長室の窓から、中庭で昼休みを過ごす生徒たちの姿が見えた。
日陰で参考書を広げる生徒。
友達同士、静かに談笑している生徒。
体育館でバスケをしている生徒。
彼らは、黙って私の話を聞いてくれる。
真面目に。
誠実に。
だからこそ、中途半端な話はしたくなかった。
(……さて、どうしたものか)
悩みに悩んだある日の放課後。
校長室で、パソコンを開いた私は、ふと検索をかけてみた。
【朝礼 スピーチ ネタ 高校】
出てくるのは、ありがちな例文サイトばかりだった。
(こういうのじゃないんだよな……)
せっかく生徒たちが真剣に耳を傾けてくれているのに、どこかの誰かが適当に書いたテンプレみたいな話じゃ、申し訳ない。
もっと、ちゃんと心に届くような話がしたかった。
(……もう少し探してみるか)
根気よくページをめくっていくうちに、ふと、ひとつの小さなサイトが目に留まった。
【文章代行サービス】
(文章代行、か……)
最初はあまり期待していなかった。
正直、あまりに安っぽいサイト名で、プロが作ったものには見えなかったからだ。
だが、サイトに載っていたサンプル文章を読んで、私は少し目を見張った。
(……悪くない)
柔らかい語り口で、だけど芯の通った文章。
読んでいて嫌味がない。
料金も、べらぼうに高いわけじゃない。
1,000文字2,000円。
(試しに、頼んでみるか)
軽い気持ちで、依頼フォームに文章を打ち込んだ。
【内容】
「高校の全校朝礼で使う5分程度のスピーチ原稿。5月らしい季節感を取り入れつつ、生徒たちへの励ましを入れてほしい。」
送信ボタンを押して、あとは気楽に待つだけ――だった。
* * *
翌日の昼休み。
メールボックスに、返信が届いていた。
(早いな……)
少し驚きながら開封すると、そこには完成されたスピーチ原稿が添付されていた。
読み始めた瞬間――
私は思わず、体を前のめりにした。
季節の描写が自然で、励ましの言葉も押し付けがましくない。
そして、何よりも――
生徒たちに語りかけるような、優しいリズム。
(これだ……)
思わず唸った。
自分が数時間悩んでも絞り出せなかったものが、そこには、自然に、完璧にまとめられていた。
「……すごいな」
声に出して呟いた。
一体誰が書いているのかは分からない。
大手の会社でもなさそうだし、プロの作家がやっているようにも見えない。
だけど、この文章は確かに、
私が求めていたものだった。
* * *
翌週の朝礼。
私は、その原稿を少しアレンジして、壇上に立った。
春から初夏へと移り変わる季節。
新しい環境にも少しずつ慣れ、それでもふと不安を覚える時期。
そんな生徒たちへ、さりげないエールを送る話だった。
話しながら、生徒たちの表情を見た。
いつものように、きちんと真剣に聞いている。
でも――今日は、
ほんの少し、彼らの目が柔らかくなった気がした。
(……よかった)
壇上から降りるとき、小さく、そう思った。




