優しさの定義
「ここの生活は、どう?」
潮村と十文字が消え、過ぎ去りつつある夏にしがみつく蝉の声だけがこだまする屋上でふと玲華がそんな事を言い出す。
「……そこまで、前と変わらねぇよ。一年の後半くらいで正体がバレた後は、な」
特に何か、おかしな事はなかった。
いや、あったか。
その気づきとほぼ同時に、玲華から叱責が飛ぶ。
「そんなわけなさそうじゃない。特にあの、癖毛の子なんて随分親しいみたいだけど。お弁当まで作ってもらってるみたいだし」
一気に氷点下まで下がった視線の温度に頬を引き攣らせつつ、努めて平静に答える。
「あいつの『声』だけが何故か『聴こえ』ねぇんだ。そのせいで妙に懐かれた。お前の方はどうだ?」
これ以上この件を追求されると色々面倒な説明をしなければならなくなりそうだ。それは避けたいので、さりげなさを装って話題の転換を図る。
それを察してか察さずか、玲華はそれに従った。
「そうね、別に普通よ。高校入ったらいじめが無くなって、多少告白されたくらいかしら」
挑発的にそう告げ、オレの反応を窺っている。オレとてそれについて少々腹立たしくもあれば後悔もなくはないが、それを素直に表に出すのはどうにも気が引ける。というか単純にアイツの挑発に乗るのは苛立たしい。どこ吹く風を装い、嘯く。
「ま、いじめられなくなったならよかったじゃねぇか」
その様子に、玲華の眉間が深い谷を刻んだ。
「……まさか、そのために消えたなんて言わないわよね」
そのまさかなんだが、どうもそうだとは言えない雰囲気だな。
オレの逡巡を嗅ぎ取ったのか、これ見よがしなため息を零した玲華は、庇の反対側まで離れているオレへとつかつかと歩み寄り、ネクタイをぐいと引いた。
「うわっ、なんだよ」
「なんだもへったくれもないわよ。あなたがいなくなったからいじめがなくなったわけじゃないわ。高校に入ってみんな他の事に意識が向いたからなくなったのよ。私はあなたが突然消えて悲しかった、寂しかったわよ。あなただって引っ越しだのなんだのと面倒な事が一気に増えた。それが直接の解決になってないのなら損じゃない。それとも、私が嫌いになったけど、面と向かってそうとも言えないから消えたの?」
突然叩きつけられた長文に反応できず、思わず硬直する。
どうにかこうにか口から零れたのは、
「お、落ち着けよ……レイ」
子供の頃に慣れ親しんだあだ名だった。
少しだけ頬を緩ませた玲華は、
《……ま……事で……されると……から》
相も変わらず聞き取りにくい『声』を放ちつつ、オレのネクタイをもう一度引く。
「懐かしい呼び名ね。……それで、どうなの?」
中々に必死なその様子が少し面白くて、意地の悪い返答が口を突く。
「どっちで答えればいい?」
「あなたの本心が選ぶ方よ」
間髪入れずに返ってきたのは、にべも無い答え。
そこでふと、ネクタイを緩め、視線を逸らす。
「……けれど、そうね。強いて言うなら嫌われたとは思いたくないわね」
思いのほか真剣に返ってきた。身から出た錆ではあるが、心が痛む。照れくさくて屋上のフェンスなんかに目を泳がせながら、つっけんどんに答えた。
「前者だ」
沈黙。
「……そう」
前髪が押しのけられた感覚で、焦点が再び近距離の玲華に合う。
瞬間。
ビシッ、と。額に衝撃が走り、思わず声が漏れる。
「うおっ!?」
でこピンだ。しかも強烈な。全身全霊での。
「何すんだよ」
オレの抗議はどこ吹く風、冷然とした雰囲気を壊す事無く、玲華はそらとぼける。
「あら、恋人の前から見当違いな優しさで突然姿を消した挙句、自分はさっさと別れたつもりになっていたクズ男をこれくらいで赦すのよ? むしろ喜びに咽び泣いてもいいくらいね」
そんな言い方をされると、ぐうの音も出ない。流石に咽び泣く事はしないが、一応、形式上礼だけは言っておく。
「悪いな」
「私が欲しいのはそんな言葉じゃないわ」
切り返された言葉に、首を傾げる。何を言えと言われているのか。
思い当たる節の無いオレの戸惑いを感じ取り、玲華はため息と共に続きを吐き出す。
「……私は、別れたつもりなんてないのよ」
その言葉は、甘美で、魅力的で。ずぶずぶと、引きずり込まれてしまいそうになる。
けれどオレは、それに抗わなくてはならない。魅惑的なその言葉の誘惑に。
「……私は、あなたの事が」
「ストップだ」
抱きついているのと遜色ない密着度から、体を引き剥がす。
その体温に、その言葉に、その優しさに。触れる権利など、オレには無いのだと言い聞かせて。
渾身の台詞を邪魔された事で不機嫌を露にする玲華を真っ直ぐに見て、一言一言、選びながら発する。
「……それで、お前はどうなった。中学のとき、何が起きた? それはダメだ。ダメなんだよ。また、お前をオレのところまで引き摺り落とすわけにはいかねぇ。だから、それはダメだ」
選んだわりに、随分と直接的な否定になってしまった。これが理系の限界だ。
それをぶつけられた玲華は、不機嫌と言うよりも呆然としたように、オレのネクタイから手を離した。
「……ちゃんと言えなかったのは、オレが弱かったからだ。それは、悪い。もっとしっかり言うべきだった」
気取ったようにポケットへ手を突っ込み、その中で拳を握る。気づかれないよう、決意が揺るがぬよう。自らを罰し続ける。
玲華は、何も言わない。
「……もう、関わらないほうがいい」
吐き捨て、踵を返す。
残暑の中に響く蝉の声だけが、ただ聞こえていた。




