後日談⑥
未来は真っ直ぐに俺を見つめ、返事を待っている。
彼女の視線を受け止め、俺は口を開く。
「本当はもっと早く話をするべきだった。未来が母親に話をしたいって思っていることに、気付いていたから」
俺の言葉を聞いた未来の表情に、驚きはなかった。
「未来からは話題にしにくかったのも、分かってる。だけどこれまで、俺からその話をすることはなかった。その話をすると、お互いに辛いことも思い出すだろうから……無理に話をしたくなかった」
俺たちは互いの親に挨拶をしたが、その時に彼女の母親の話題は出なかった。
それは、不自然なほどに。
「未来からその話を引き出しておいて、卑怯だと自分でも思うけど……反対だ。俺は未来のお母さんのことを許せないし、会いたくもない」
俺は、自分の母親に会いたいという娘に向かって、はっきりと言った。
未来を追い詰めた母親を前にして、十年経った今でも冷静でいられる自信はない。
「知ってる。暁は私のこと、大切に想ってくれてるからこそ……そう言うと思ってたわ」
残念がるそぶりも見せずに、未来はそう言った。
それから続けて、
「だけど、ごめんね。暁がなんて言っても……引きずってでも。一緒にお母さんに会いに行くから」
と、力強い眼差しを俺に向けて、未来は言った。
その目に、迷いはなかった。
俺は、わざとらしく「はぁ」とため息を吐く。
「知ってる。だからやっぱり、この話はしたくなかったんだ。俺が折れることになるのは、目に見えていたし――」
俺はそれから一つ呼吸をしてから、いじけたように言う。
「何より、未来が本気で会いに行きたいって言っても、素直にその背中を押すことができない心の狭さを見られるのが嫌だったんだよ」
俺の言葉を聞いた未来は、何故か嬉しそうな様子だった。
「安心しなさい。私は暁がどんなに心が狭くても、変わらず大好きだから」
自信満々で、不敵に笑みを浮かべ。
未来は俺に向かってそういった。
「今宵に愚痴られないように、早いうちに態度を改めることにするよ」
「殊勝な心掛けね」
「……でも、母親が今どこにいるのか知ってるのか? 少し前に聞いた話じゃ、お義父さんの口座に振り込みがあるからどこかで生きてるのは分かる、くらいの情報しかなかったと思うんだけど」
俺の言葉に、未来は頷いた。
「この間、母方のおばあちゃんとおじいちゃんに、お父さんと一緒に挨拶に行ったのよ。それこそ、10年ぶりに。そこで、暁と婚約することを話して。……その時に、お母さんが今どこで何をしているか聞いたの」
俺の知らない内に、未来はお義父さんと一緒に祖父母に会いに行っていたらしい。
「もっと早く行っても良かったんだけど。私も、お父さんも。きっかけがなかったし、お母さんが今どこで何をしているかを知るのは、怖くもあったから……」
知りたいけど、怖い。
未来のその気持ちを完全に理解できると己惚れることはできないが、想像は出来る。
「どこで何をしているかは分かっても、お母さんに会いに行く勇気はないのよ。私も、お父さんも。……だけど暁と一緒なら、私は大丈夫だから」
それから、彼女は俺と正面で向き合い、手を握ってきた。
少し震えているが、それは単純に寒いからではないはずだ。
「だから、私と一緒に来て。……昔から、暁が隣にいれば私は何でもできる気がするのよ」
握る手に、ギュッと力が籠められる。
さっき未来は、ひきずってでも連れて行くと言ったが、本当はちゃんと俺の意思で、一緒にお母さんに会いに行くことを望んでいるのだろう。
だからこうして、改めてお願いをしてきたのだ。
上目遣いに俺を覗き込んできている未来は、返事を待っている。
「さっきも言ったけど、後ろから背中を押してはあげられない。……だけど、隣に立つことくらいはできるから。一緒に、お母さんに会いに行こう」
俺が答えると、未来は俺に力いっぱい抱きついてから、言う。
「ありがとう暁、愛してるわ」
やれやれと首を竦めるものの、俺は結局未来の望み通り、彼女の母親に会いに行くことにするのだった。
☆
年末の帰省から東京に戻り、1月も半ばほどになったころ。
週末の休みを利用して、未来と一緒に関東のとある地方都市に車で来ていた。
宿泊予定の繁華街近くのホテルに車を止めてチェックインをして、荷物を部屋に置いてから、スマホのナビアプリを立ち上げる。
ナビの案内に従い辿り着いたのは、一軒のスナックだ。
そこは未来の母の友人がオーナーをしているため、雇われ店長をやっているそうだ。
場末ではないそのスナックには、『明美』という看板が掲げられていた。
それを見て、俺は未来に問いかける。
「そういえば、未来のお母さんの名前知らないな」
「季節の夏に子どもの子で、夏子。明美じゃないわよ」
「いや、分かってるよ。スナック明美なんて、ちょっと検索すればいくらでも出てくる店名だし、素直に考えればオーナーの名前だろうし」
そんな話をしていると、店内から騒々しい声が漏れ聞こえてきた。
どうやら、好況を呈しているらしい。
「結構お客さんいそうだけど、今から入る?」
俺の言葉に、未来は腕時計を見て時刻を確かめる。
現在は20時を少し過ぎたところだ。
それから、入り口に立てかけられている案内を見て、未来は口を開いた。
「営業時間0時までだって。……まだ時間はあるけど、お店が閉まってからで良いでしょ」
心の準備に、もう少し時間がかかるのかもしれない。
俺は「それじゃあ、それまでどこか店に入って、ご飯でも食べて温まろう」と提案する。
「ううん。あっちにベンチがあったから、時間までそこで待っとくから。暁は、入る時間の前に呼ぶから、私のことは気にしないで」
そう言って、未来は近くにある公園……というには少々寂しい、遊具のないベンチがあるだけの広場に向かって歩いた。
俺は溜息を吐いてから、彼女の隣に並び、言う。
「気を遣うところじゃないって。一人には出来ないし、付き合うよ」
俺たちは二人でベンチに腰掛けた。
都合よいことに、出入り口が良く見える位置関係だった。
「……ありがと」
そう言って、未来は俺の手を握ってきた。
冷たく強張ったその手を、俺は握り返す。
それから少しして、スナック明美の扉から酔っ払いのおっさんが二人出てきた。
その後に一人の女性が出てくる。
「……お母さん」
未来の母、夏子さんだ。
10年前に見た頃よりも、年老いてはいる。
だけど、スナックのネオン看板に照らされている彼女の横顔は、年齢よりも若く見えた。
彼女の姿を見て、俺の脳裏には10年前の苦しんだ記憶が思い起こされ、自然と手に力が込められていた。
その手を、未来がギュッと強い力で握り返してきた。
彼女は、俺の方を見ていない。
ただ、緊張した様子で、久しぶりに見た母の様子を伺っている。
俺は深呼吸をして、冷静であるように努めた。
未来の隣にいるのは、彼女を支えるためだ。
自分の苦悩を思い返していては、支えるどころか、迷惑をかけることになってしまう。
「ママ、今度はおじさん二人じゃなくて、若いのも連れてくるよ!」
酔っ払いの呂律は怪しかったが、無駄に声が大きく、少し離れた場所にいる俺たちの耳にもよく聞こえた。
「最近はアルハラとか厳しいんだから、無理に連れてきちゃダメよ」
そんな酔っ払いに負けないくらいはきはきとした声で、夏子さんは答える。
「無理になんて連れてこないって~! 若い奴らもさ、みんな美人ママに会いたがってるんだよ、本当だよ~!」
夏子さんはその言葉をまともに取り合わずに、肩を竦めてから口を開いた。
「はいはい。それじゃ気を付けて帰ってね」
「また来るよ!」
と改めて言い残し、帰っていく上機嫌な酔っ払いおじさん二人。
彼らを綺麗なお辞儀で見送った夏子さんは、騒がしい店内に戻っていった。
「……本当にいた」
久しぶりに母親を見た未来の表情を窺う。
苦しそうで、今にも泣きだしそうに見えるけど、どこか嬉しそうでもあった。
「ん」
俺はぶっきらぼうにそう言って、ポケットから取り出したハンカチを差し出す。
「ありがとう。でも、大丈夫よ」
と断った未来の言葉を聞いて、俺はハンカチを握ったまま、立ち上がった。
「ちょっとコンビニにコーヒーを買いに行ってくる」
未来は、一人になっても泣いたりはしないだろう。
一人になる必要があるのは、俺の方だった。
気を抜くと、夏子さんに対する怒りが再燃してしまう。
10年前の事件は、元を辿れば彼女だけの責任ではない。
だから、夏子さんだけを責めるのはフェアではない。
そう自分に言い聞かせ、深呼吸して気持ちを落ち着かせながら俺は歩く。
コンビニに着くと、俺はトイレに入り、用を足してから手と顔を洗う。
冬の水道水は冷たく、気持ちが引き締まる。
ハンカチで手と顔を拭いてから、ホットコーヒーを二つ購入する。
両手にコーヒーをもって、未来のいるベンチに戻った。
「はい」
と言って、俺は未来にコーヒーを差し出した。
「ありがとう」
彼女は素直にお礼を言って、受け取った。
俺たちは並んでベンチに座り、コーヒーを飲みながらスナック明美を眺めていた。
それから十数分後、再び酔っ払いの男性が扉から出てきた。
今回は一人で、またしても夏子さんが続いて扉から出てきた。
先ほどと同じように酔っ払いの見送りをした夏子さん。
さっきと違ったのは、店に戻る前にこちらを見たことだ。
「目、合った。私を見てる」
隣の未来が硬い声音で言う。
確かに、夏子さんはこちらを見ているようだが……。
「気のせいじゃないか?」
俺たちは夏子さんがいると分かっているからこそ、10年後の今も一目見てわかったが、相手はこんなところに俺たちがいるなんて想像もしていないだろう。
他人の空似で、少しこちらを見てしまっただけだと思う。
しかし、俺の言葉に未来は反応せずに、ただ無言で母親を見ていた。
ほんの数秒だけこちらを見ていた夏子さんは、何かしらの行動を起こすことなく、店の中に戻った。
「ほら、やっぱり気のせいだって」
俺がそう言っても、未来は店を無言のまま見つめていた。
数分後、またしても店の扉が開いた。
これまでと違うのは、酔っ払いのお客さんはおらず、コートを羽織った夏子さんが一人で出てきたことだった。
「一人だ。……買い出しかなんかかな?」
俺が呟いてると、夏子さんは速足で、俺たちのいる方向とは反対側に、速足で歩いて行った。
それを見た未来は、勢いよく立ち上がった。
「買い出しじゃない、逃げるつもりよ……!」
「逃げる……?」
俺は疑問を口にしたが、未来は答えないまま走り出した。
いきなりの未来の行動に困惑しつつも、俺は彼女の後を追う。
しばらく先に進んだ場所で夏子さんはこちら側を振り返り、それから未来から逃げ出すように、走り出した。
まだ、俺たちとの距離はあった。追いかけられて驚いた、という様子ではない。
それでも、必死に走る様子を見て、未来の予想があたっていることを、薄々感じた。
「お母さん!」
未来が母の背に呼び掛けるも、反応はない。
以外にも夏子さんは健脚で、未来は中々差が詰められない。
俺は先に夏子さんを捕まえようと、速度を速めたところ……。
未来が盛大にすっころんだ。
「ちょ、大丈夫か!?」
俺は立ち止り、未来に声をかける。
「うん……痛っ」
彼女は立ち上がろうとしたが、転んだ時に咄嗟についた手のひらをすりむき、血が流れていた。
痛々しいその手のひらを見て、他にもどこか痛めているかもしれない、と心配した俺は未来の顔を見て声をかけようとした。
しかし、未来はどうしてか俺の後ろを見て、驚いたような表情を浮かべていた。
どうしたのだろう?
そう思って、俺も背後を見るとそこには――。
「……大丈夫?」
心配そうな表情で、未来へ向かってハンカチを差し出す夏子さんがいつの間にかいた。
未来はその言葉に首を振る。
「すっごく、痛い。お母さんが逃げたせいだ」
未来は、震える声で責めるようにそう言ってから――。
夏子さんから差し出されたハンカチを受取るのだった。





