後日談②
1軒目で早々に泥酔した伊織をタクシーで自宅に送り届けてから、俺と未来は同棲中のマンションの一室に帰宅し、リビングのソファに座り一息ついた。
「友達相手とはいえ、こういう報告をするのはやっぱりちょっと、緊張するよな」
俺が言うと、隣に座った未来が、ニヤリと意地悪く微笑む。
「うちのお父さんに挨拶する時なんて、笑えるくらい緊張してたわよね」
と、揶揄うように言う未来。
「婚約者の相手に挨拶する時は、誰だってそうなるだろ……」
と言ってから、俺はお義父さんに挨拶をした時のことを思いだす。
☆
「よく来たね、暁くん」
1DKのマンションの一室で、俺と未来を迎え入れてくれた、未来の父。
かつては23区内にマンションを所有していたが、10年前にそれを手放してからは、職場の最寄り駅まで始発が出ているこの千葉県北西部の賃貸マンションに住んでいるらしい。
「久しぶり、お父さん」
笑顔を浮かべて未来は父に挨拶をする。
「お久しぶりです、本日はお時間をいただきありがとうございます!」
俺はがちがちに緊張をしたまま、挨拶をした。
これまでも、友人として何度か会うことはあったが、婚約者として挨拶をするのは当然初めてだ。
「そんなに緊張する必要はないよ、暁君。さぁ二人とも、上がって」
彼は緊張をほぐすように、優しい声音でそう言った。
俺と未来は、部屋の中に入ることとした。
先を歩く未来の父の背中を見ながら、俺の背筋は無意識に伸びる。
改めて、俺はこの人が苦手だと実感した。
リビングに通されてテーブルにつくと、お茶を出される。
俺は緊張してこの後のことを考えすぎるあまり、未来やお父さんの和やかな世間話に、あいまいな相槌を打つしか出来ない。
世間話もひと段落し、未来が肘で俺を小突く。
俺は彼女の顔を見て頷いてから、大きく深呼吸をし、口を開く。
「未来さんのお父さん、本日は未来さんとの結婚のお許しをいただきだく、ご挨拶に伺いました」
俺はそれから、何日も考えていた言葉を口にしようとしたが、
「うん、暁君なら未来を任せられる。……娘を、よろしくお願いします」
と、俺が言葉を続ける前に、あっさりと言ったお父さんに頭を下げられた。
俺がポカンとした表情で呆けていると、
「ね、大丈夫って言ったでしょ? そんなに緊張する必要なんてなかったじゃない」
と、微笑む未来が俺の肩を叩きながらそう言った。「え、ああ……うん。」と反応してから、俺は未来のお父さん……いや、お義父さんに向かって頭を下げて言う。
「ありがとうございます! これからもよろしくお願いします」
俺が頭を下げると、ポンと優しく肩を叩かれた。
「二人とも、今日は電車だろ。少し、飲んでいかないか?」
そう言ってから、お義父さんは立ち上がって、キッチンの冷蔵庫へと向かう。
「あー、すまない。未来、ビールを切らしているから、今から何本か買ってきてくれないかい?
「それじゃあ、僕が行きますよ」
と俺が立ち上がろうとすると、
「分かった、行ってくる」
と、未来が俺を座らせてから立ち上がり、ささっと外へ出て行った。
部屋の中に置いて行かれ、俺はお義父さんと二人っきりになる。
……突然の事態に、俺は呆然としていると、
「すまないね。暁くんとは二人で話をしたいことがあってね」
テーブルの向かいに座りなおしたお義父さんが、微笑を浮かべてそう言った。
「話、ですか?」
お義父さんの言葉を聞いて、事前に二人きりになる段取りを未来とつけていたのだと思った。
「うん。君にも迷惑をかけてしまった……私の失敗談のことさ」
それから彼は、ふぅと息を吐いてから、話し始める。
「私はね、10年前未來が屋上から飛び降りるその日まで……妻と娘の悩みや苦しみを想像すらせずに、楽しく過ごしているんだろうと呑気に考えていた」
俺にも迷惑をかけたという言葉で予想はついていたが、10年前の事件のことを今、話そうとしているらしい。
「妻……正確には、元妻だね。彼女には、未来のことを任せきりにしていただけじゃない。進学資金や老後の貯えに、日々の生活費。お金の管理は全て私は彼女に任せていて、貯蓄用の口座の暗証番号も私は知らないくらいだった。大切なお金を任せることが夫婦の信頼の証だと思っていたけど、今考えれば、それも彼女の負担になっていたんだろう」
未来の母がお金を使いこむことが出来たのも、家計を一任されていたからだった。
「私の生活口座には、毎月事前に決めていたお金は振り込まれた。二人の様子を見に会いに行ったのも、未来が高校三年生になってからは一度もない。二年生の頃に会った時には、少なくとも私の前では明るく振る舞っていて、周囲とうまく行ってないなんて思いもしなかったし、受験勉強を頑張っている中、娘の邪魔をしてはいけない。……なんて、そんなことを考えて、月に数回電話で話をするだけ。もし直接会って話をしていたら、少なくとも妻の変化には気付けたかもしれないのに。……だから、手遅れになるまで私は何も気づけなかった」
俯きながら語る彼の声音は硬い。
「父親としても、夫としても。私は失格だった」
暗い表情を浮かべて、彼はそう言った。
「妻のことを許せないという気持ちは、もちろん今もある。未来を追い詰めた、そのことは絶対に許せない。でも、妻の苦悩も知らず、未来のために何もできなかった私に、彼女を責める資格はないと思っている。なにより、未来の抱える問題に気づかずに放置し続けていた私に、未来を救ってくれた暁君に対して偉そうに言えることなんて、何もないんだ。……それでも、一つだけ言わせてほしい」
お義父さんは顔を上げて、真っ直ぐに俺を見つめてから、言う。
「私が言えたことじゃないのは分かっているけど。君たちは、苦しいときはお互いに頼って、支え合って、笑い合えるようになってほしい。私には出来なかったけど、君たちには幸せになってほしい」
彼はその言葉の後に、立ち上がる。
「未来のことを大切に想ってくれる暁君だからこそ、勝手なことを言う私を許せないと思うかもしれない。もしそうなら……気が済むまで、私を殴ってくれて構わない」
その言葉を聞いて、俺は立ち上がる。
『昔のことだから、もう良いんです』と答えようとして……。
身体が勝手に、硬く握りしめた拳でお義父さんの横っ面をぶん殴っていた。
俺はその後、戸惑いつつお義父さんの方を見た。
殴ってきたはずの俺が戸惑っていることに、彼も困惑を浮かべている。
何も言わずに呆然としている俺に向かって、お義父さんは頬を抑えながら、
「は、判断が早いね……」
と苦笑しつつ、心の中の鱗滝さんが顔を出していた。
その言葉を聞いて、ようやく俺は落ち着きを取り戻した。
挨拶に来たはずなのに、婚約者の父親に大変なことをしてしまった……という思いはもちろんあったが、これは良い機会だとも思った。
「……確かに俺は、あなたたちに迷惑をかけられました」
それから、俺は思い出す。
未来が生きることを決めるまでに繰り返した日々と、自らの愚かさを。
何度も未来を救えなかった。
その度に、地獄のような苦しみを味わった。
そして……未来を救えなかった世界で、彼に本来は感じる必要のなかった怒りや悲しみを味わわせてしまったことがあった。
俺の苦しみと、お義父さんに味わわせてしまった苦しみを秤に乗せると……その差は今のパンチ一発分くらいでチャラにしようと、勝手に決めた
「でも、今の俺はもうあなたにとって、娘を助けてくれた男の子じゃないです。未来の夫で、あなたの義理の息子で、家族なんです。もし俺が昔のあなたのように、未来とすれ違って不幸にさせてしまいそうになったら、遠慮なく今の一発を殴り返しに来てください。それから、10年前にできなかったことを、今度は果たしてください」
俺の言葉に、お義父さんは目を丸くして驚いた。
「俺と未来が幸せになるのを傍観せずに、ちゃんと見守ってください。……今後とも、よろしくお願いします。お義父さん」
俺はそう言って、頭を下げる。
すると彼は、少しだけ苦笑してから、
「もし、君が未来を不当に苦しめているようだったら、倍返しじゃすまないからね?」
と、冗談っぽく言った。
……冗談と分かっていても、俺の背筋は反射的に強張る。
彼に苦手意識を持っている原因であると同時に、今の彼には身に覚えのないことだが、俺にはお義父さんに半殺しにされた記憶があるのだ。
「そんなことはしないと、約束します」
俺は再びガチガチに緊張しながら、そう答えた。
その言葉に、彼は柔和な笑みを浮かべてから、
「暁君。未来のことを、よろしくお願いします」
と、改めてそう言った。
☆
あの後、ビールを買って帰ってきた未来が、頬を腫らした父とビクビクと緊張をしている夫を見比べて、相当焦っていたなぁと思い返していると、
「私はお義父さまとお義母さまに挨拶する時も、そんなに緊張しなかったけど?」
未来は自慢げにそう言った。
俺の言った、「相手の両親に挨拶に行くときは、誰でも緊張するだろう」という言葉に対して、彼女はマウントを取ってきたのだ。
……確かに、未来は俺の両親に対して物怖じせずに挨拶をしていた。
そして、あっさりと俺たちの結婚は認められた。
改まって挨拶なんてしなくても良かったんじゃないか? と思うほど簡単に挨拶は済んだ。
「未来のその、たまに見せる大胆さや行動力には今でも驚かされるよ」
俺の言葉に、未来は微笑んだ。
「面識があったもの。お二人とも優しくて良い人だから、何も不安はなかったわ」
未来はそう言って……どこか寂しそうな表情を浮かべた。
それは、俺の勘違いでも、気のせいでもないだろう。
未来がそんな表情を浮かべる心当たりが、俺にはあった。
「……あのさ、未来」
彼女が寂しさを抱える原因について触れようとすると、
「今月末は、熱田先生に挨拶に行くのよね? ガチガチに緊張にしないように予行練習でもしておく?」
揶揄うような表情を浮かべて、俺の言葉を遮るように未来は言った。
まだ、その件には触れてほしくはないようだ。
……彼女の心の中で整理がつくまで、そっとしておこう。
「流石に、熱田先生相手に緊張はしないから。余計なお世話だよ」
俺の言葉に、「それなら良いんだけどね」と悪戯っぽく、未来は笑うのだった。





