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第二章 最高の人生を謳歌する【完】

 新郎の着物に着替えたシンジュは、さっと周囲を見回したあと、壁の向こうにいるナルを思うと不安に心が揺れた。

 この結婚式は、国民への『結婚』という概念を知ってもらうための余興のようなもの。

 本来見えないはずの概念をカタチにし、国民がわかりやすく知る絶好の機会だ。


 とはいえ、控室用の屋敷からチャペルまで、徒歩で約五十メートル。

 赤いカーペットを敷いた道を、二人で歩かねばならない。


 シンジュとしては、結婚式という存在をアピールするという意味合いならば、結婚指輪を交換して愛を誓う部分を、皆が見やすい場所で行えばよいのではないか、と考えていた。

 すぐに済ませて引っ込めば、暗殺者が動く時間も限られているため万全を尽くすことができるのだ。


 だが、シロウはそれをよしとしなかった。

 むしろ馬鹿にされ、『叔父上、結婚式の意味わかってます? 叔父上が嫌なら私が我が君の新郎を務めますよ』などと、よくわからない切り返しをされてしまったのだ。


(確かにナルには、改めて結婚式をする際には、好きなようにすればいいと約束したが、それはまた後日でよい。今日は、あくまで国政の一環でもあって……)


 などと、婚姻の法律制定における準備の際、自分から『国民の前で妻と再び結婚式を行おう』と宣言した男は、今更ながら後悔していた。

 ナルを皆に紹介したい。

 自分の妻であると。

 だが、決して危険にさらしたいわけではないのだ。


 ドアが叩かれ、佐梨が入ってきた。

 改めて警備及び警護の確認を行う。


「外の様子はどうだ。先王の()()はいるのか」

「はっ、元第二王子や複数の子の姿が見られました」


 ナルは変わらず甘い。

 皆が、我らを受け入れているわけではないのだ。

 異国の者が国政に介入することを嫌う者もいれば、貴族からは平民へのひいきが過ぎると自分を棚上げした苦情が出ている。

 そういった者たちは、容赦なく力を削ぎ落してやるが、それがまた憎悪を生む。

 当然、彼らが行動に移した時点で潰しているが、問題は先王の遺児たちである。

 彼らは各方面に散り、後宮から出ることなく処刑されたのはほんの僅かだ。


 ナルがどういった基準で彼らを生かしたのか、シンジュは詳しく知らない。というよりも、理解できない。シンジュならば同情など一切せず、己に非がない者でも処刑する。

 シルヴェナド家を失墜させた際、ナルを処刑しようとしたように。


(誰に恨まれているかなど、わかったものではないというのに)


 ナルは楽観的に見えて、色々考えて動いているのでそこまで愚かなことはしないだろう。

 だが、甘さは健在だ。


 結婚式という無防備な姿で、横からブスリと刺されでもしたらどうするつもりなのか。


(なぜ五十メートルも歩く必要がある、恰好の的ではないか)


 結局はそこへ戻る。

 赤いカーペットの左右には『これ以上立入禁止』を示す紐を結んであるが、それでもすぐ近くへ平民が近寄れるようにしてあることに変わりはない。

 いつだれがナイフで突撃してくるかわからないのだ。


 もやもやするシンジュは、その場で行ったり来たりを繰り返す。


(せめて私が盾になれるよう、ナルを庇って歩こう。むしろ抱きかかえて歩くか? 駄目だ、動きが鈍くなる。ナルだけ全身鎧で固めるというのも手だが……これはシロウに却下されたな」


 そわそわ。

 そわそわ。


 結婚プランナーが、シンジュを呼びにきた。

 ナルの準備が出来たそうだ。


 風花国には、婚姻の概念がないため結婚の風習もない。

 ゆえに、今回はモーレスロウ王国と柳花国、そこに風花国の国柄を混ぜた、独特な結婚プランになっている。


 シンジュは、羽織袴という正装で、ナルのもとへ向かう。

 濃灰色の羽織を纏ったシンジュは、白から黒へのグラデーションになっている袴の動きにくさに眉を顰める。


(まったく、正装がこれほど動きにくいとは――)


 案内された部屋に、ナルがいた。

 白を基調とした着物は、話に聞いていた白無垢とはやや違い、普段貴族らが着ている着物に近い。モーレスロウ王国で見覚えのある袖や模様を混ぜている辺り、先鋭的な印象を受けた。

 シンジュの羽織袴と同色を基調にしながらも、女性らしく淡い桃色や赤が差し色に入った着物は、華やかでいて、ナルにとても似合っている。


 シンジュは、部屋を入ったところで立ち止まった。

 ナルではないナルがいた。

 皆の前で自分の妻であると知らしめたいと思ったはずの妻を、シンジュは今、誰の目にも触れないところに隠したくてたまらない。


「シンジュ様! 来てくださったんですね」


 笑顔で駆け寄ってきたナルは、変わらず小柄だ。

 裾をすりすり引きずっているのはそういう仕様らしいが、なんというか、それがまた愛らしい。


 ほんのり化粧をしたナルの頬はいつにも増して薔薇色で、紅をさした唇は赤くぷるんと吸いつきたくなる艶やかさがある。


(美しい。可愛い。………好きだ)


 じぃ、と見つめていると、ナルが苦笑した。


「なんだか、二度目って照れますね。シンジュ様、今回も凄くかっこいいです。以前のモーレスロウ王国の服装も決まってましたが、羽織袴も素敵です。髪の色に合わせてオーダーされたんですね」

「あ、ああ」


 褒められて初めて、褒め出遅れたことに気づく。

 同時に、前回の結婚式についてほとんど覚えていないことに思い至った。当時は仕事も立て込み、ナルをそこまで重要視しておらず、ただ目に見える記録として挙式が必要だったために(おこな)ったに過ぎない。

 正直、時間の無駄だな、という感想しか残らなかった。

 今では覚えていないことが悔やまれる。


 プランナーの言葉に促されて、ナルがシンジュの腕にするりと腕を回した。

 屋敷の出口まで歩いていくと、足を止めて、深呼吸するナルを見る。


「緊張しているのか」

「もちろんですよ。五十メートルも距離があるんです、誰もきてなくてスカスカだったら寂しいですね。招待状も出してませんし」

「……そうか」


 そろそろ扉がひらく。

 ナルの手が、心細く、シンジュの腕を強く掴む。


「ナル」

「はい」

「胸を張れ。今日のナルは、いつにも増して美しい」


 ナルの頬が朱色に染まると同時に扉がひらき、青空から降り注ぐ陽光に一瞬だけ目を眇める。


(問題ない。ナルの傍には、アレクサンダー、リン、佐梨が護衛についている。周囲も――)


 堂々と一歩踏み出した途端。

 歓声が嵐のようにシンジュを揺さぶった。


 立入禁止の紐ぎりぎりまで押し寄せた人々が、それぞれ黄色い歓声をあげ、祝福の言葉を述べている。

 皆が笑顔で、フラワーシャワーを高く投げていた。


 花びらが舞うなかを、ベルベットのカーペットに沿って歩く。

 歩いているうちに、見知った顔を見つけた。先王の遺児のなかの誰かだ。笑顔で花びらを撒いて、ナルを見るなり両手を振り「おめでとーございます!」と叫んだ。

 さらに歩くと、先王の第二王子がいた。確か今は、平民として教師をやっている。彼は涙ぐみ、両手で花びらを撒きながら、やはり「おめでとうございます」と叫んでいた。

 そのすぐ隣からは、吹雪のようなフラワーシャワーが舞っている。ナルの自称祖父と祖母が、競うように花びらを大きなカゴから両手でわさわさばら撒いているのだ。

 そんな二人を呆れたように見ながらも、ナルを見つめる女性がいる。たしか、紅、といったか。細めた目が優しく、姉のように見守っている印象を受けた。


「嬉しい。……嬉しいです。シンジュ様、嬉しいですね!」


 ナルの(まばゆ)い笑顔に、胸が熱くなる。

 シンジュはナルを促して、歩みを進めた。



 *



(こんなに沢山、集まってくれるなんて)


 五十メートルなんて長すぎない? と思ったのに、カーペット沿いはすべて人で埋まっている。人だかりになっており、神殿が交通整備の者を派遣してくれたようだ。

 ひと目でもナルたちを見ようと、ぴょんぴょん飛び跳ねている者もいる。遠くから、おめでとうございます、と叫ぶ学び舎の子の声が聞こえてきた。

 人々の目が、きらきらしている。

 綺麗だわ。格好いい。これが花嫁さんかぁ。私も結婚式したい。

 そんな声も拾えたので、今回のデモンストレーションはうまく行ったと言えるだろう。


 もっとも、シンジュとナルの結婚式は最上級レベルのものなので、平民となると質を落とす必要がある。でも問題はそこではない。結婚式は、夫婦になると決めた男女が、生涯を誓い合う日。もっとも美しく幸せな思い出に残る日。

 皆が、それを感じ取ってくれればいいのだ。


(どうしよう、本当に嬉しい。祝ってくれてる人がいっぱいいる。今回は一桁じゃない!)


 前回の結婚式を思い出して別の意味で泣きたくなったが、未来を見て生きるのだ。

 過去は過去、今が幸せならばいい。


「奥様! おめでとうございますぅ!」


 ふと。

 聞き覚えのある声が聞こえて、視線を向ける。


 たわわに揺れる胸があったと思ったら、なんとファーミアだった。

 目が合ったので微笑むと、ファーミアは「きゃああああ、奥様綺麗ですぅうううう」と頬を真っ赤にした。


(来てくれたんだ。遠くから……)


 ファーミアの隣にはメルルがいた。

 両手をぎゅっと祈るように握り締めて、ぽろぽろ涙をこぼしながらナルをみている。視線が合うと、顔を真っ赤にして「お、おめっ、おめでとうございます!!」と祝ってくれた。

 そんなメルルの頭を撫でる男がいる。

 彼が、以前に聞いた、フェイロンの知り合いという男だろうか。

 フェイロンが暮らしていた家で暮らし、コータロジを面倒みてくれているという。


(顔も体系も、ジュゴンみたいな人……素敵な旦那様を捕まえたのね)


 歳の差がありそうだが、人のことは言えない。

 メルルが本気で愛した男性なのだ、ジュゴン(仮)はきっとメルルを幸せにしてくれるだろう。フェイロンの知り合いでもあるようだし。


(今後機会があれば、あごとお腹のお肉を触らせてもらえないかな……さすがに人様の旦那に失礼か)


 五十メートルの間に。

 挨拶をくれた都の人々や、研究所の補佐たち、神殿の関係者の姿まで見えた。


 皆に見守られて、チャペルのなかへ入る。

 チャペルのなかは、静謐な雰囲気に満ち、百名ほどの者が立ってナルたちを見守っていた。


 彼らの視線を受けながら、シンジュとともに、ゆっくりと、中央の式役がいるところに向かう。

 風花国初の挙式ということで、特別に、式役は神官長であるフェイロンが引き受けてくれた。フェイロンのもとへ歩む途中。


 チャペルにいた人々の顔を見て、驚いた。


(さ、サトミがいる! 研究所から出てるうえに身綺麗にしてる! ベティも来てくれてる!)


 研究所から出ない生活を過ごしていたサトミが、正装で結婚式に立ち会ってくれるなんて。

 それだけで泣きそうなのに、風花国の正装を纏ったベティエールは渋いオジサマすぎて眩暈を覚えるほどに格好良かった。


 サトミとベティエールをガン見していると、軽くシンジュに小突かれた。


 さらに歩みを進めるとバロックスの姿が見えて、驚き過ぎて、涙が一瞬で引っ込んだ。

 ベルガン公爵とベロニアの姿もある。


 ふいに。

 シンジュがある方向へ視線を向けたのを察して、ナルもつられるように、そちらを見る。

 バロックスたちとは正反対の席に、シンジュと同じ髪色の老女がいた。派手に着飾って威厳を見せつけているものの、その瞳は優しそうだ。

 老女の隣には、シロウの母であるタエコがいる。


(シンジュ様の……お母様?)


 タエコが、老女の背中を支えていた。

 高齢のせいか、立つのが苦しいのかもしれない。それでも、視線をしっかりシンジュへ向けて、笑顔を浮かべている。


 さらに行くと、シロウがいた。

 柳花国からずっと彼女の傍仕えであるハナと、その夫である宦官の姿もある。


 ぐずぐずに泣くハナを、夫があやしていた。

 微笑ましい夫婦である。


 フェイロンのもとへたどり着くと、シンジュと向かい合って立った。

 皆が、ナルたちを見ている。


 そして。

 朗々と、フェイロンの美声が誓いの言葉を読み上げていく。


「夫婦として。唯一無二の存在として。

 お互いを支え、愛し、ともに歩み。

 生涯、ともにあることを誓いますか」


 促されるまま、それぞれ、「誓います」と答えた。

 

 次は、指輪の交換である。

 以前、モーレスロウ王国の屋敷でシンジュから貰った、あの指輪だ。


(もう一度結婚式を、と言ってくれた言葉が、現実になるなんて)


 お互いを気遣う手つきで、そっと、指輪をはめていく。

 指にはまったばかりの指輪を、フェイロンの促しによって来賓へと見せた。

 盛大な拍手が沸き起こる。


「――では、誓いの口づけを」


 途端に。

 ざわっ、と周囲がざわめく。


 挙式の際の口づけは、この世界にはない風習なのだ。

 あえて今回は、あちらの風習を取り込んだ。


 理由は単純明快。

 あちらでは結婚の誓いの際、キスするんですよ。と言ったナルの言葉に衝撃を受けたシンジュが、自分たちもやると言ってきかなかったのだ。 


 ゆっくりと顔を近づけて、お互い頬にキスをした。

 これで、概ね挙式の手筈は終えたことになる。


 ふいに。

 身を屈めたシンジュに、抱き上げられた。


「えっ」


 一瞬の出来事に驚いている間に、唇にキスをされる。

 真っ赤な(べに)がシンジュに唇に移る。悪い男の笑みを浮かべるから、なんというか、酷く色っぽく見えた。


「せっかくだ。他の者にも見せておこう」

「はい!?」


 ナルを抱き上げたまま、チャペルの出口へ向かうシンジュ。シンジュによる、初めてのお姫様だっこだが、喜んでいる余裕はない。


「ちょ、予定にないですよっ」

「構わん」

(なんかシンジュ様が嬉しそう!)


 チャペルを出たところで、交換して付けた指輪を見せびらかすようにしながら、抱き上げたナルに口づけをする。


 黄色い歓声があがる。

 フェイロンがうまい具合に、「口づけは結婚の誓いを示すものの一つ」だと軽やかに説明を入れてくれた。


 女性たちが、うっとりと羨望の眼差しでナルたちを見ている。

 ナルにも覚えがある姿だ。


(人様の結婚って、物凄く憧れるのよね)


 男性の多くも羨望の視線を向けていた。

 好きな女性がいるのだろうか。夫婦になって、相手を守る決意をしたのだろうか。


 いつかきっと。

 このなかから、婚姻や結婚を行う者が現れるだろう。


「もっとするか?」

「えっ、も、もう大丈――」


 もう一度軽い口づけを交わしてから、下ろされた。


(は、は、恥ずかしい――っ!)


 耳まで真っ赤になって顔を隠すが、もっと隠れたくなってシンジュの後ろに身を潜める。


「ナル、そんなに可愛い仕草を皆に見せるな」

「何がですか!?」


 そんなやり取りのなか、フェイロンがナルに、ブーケを渡す。

 これは、ナルがやりたいと言って、強引にねじ込んでもらった工程だ。


 皆に、幸せのおすそ分けだと説明をして、ナルがブーケを投げることを伝える。


 突然の出来事に、女性たちの目がちょっと怖い感じになりつつも、ナルは後ろを向いてブーケを投げた。


 女性たちの手のなかで跳ねて、最終的に受け取ったのは短い髪をした女性だった。

 見覚えがある女性だが、覚えていない。


「わわわっ、ブーケ私のところにきたよー!」

「やったなマリー! 俺が幸せにしてやるぜ、世の中、カネじゃねぇってこと教えてやるよ!」

「もう、わかってるってばー! ガルー大好きっ、一生好き! 私も結婚式する!」


(……思い出した)


 マリー。

 ベロニアの元侍女で、ベロニアの元婚約者を誑かした平民の女性である。

 あのときは然程気にしていなかったが、随分と強かそうだ。


(なんだかわからないけど、幸せそうで何よりだわ)


 こうして。

 大勢の祝福のなか、ナルは改めて、シンジュと伴侶になった。



 ◇ ◇ ◇



 二年後。


 護衛とともにお忍びで買い出し中、馬車のなかにいたナルは、華やかな声を聞いて、ぱっと顔をあげた。

 小さな子どもがたどたどしい口調で「はなよめさん、きれーい」と言っている。それを聞いて、誰かが結婚式をあげているのだと知った。


(田舎を思い出すわ)


 近所の人の結婚式は、地元の子どもたち全員にとってお祭りも同然だった。

 都会に出て、どれだけ実家が田舎だったのか知った理由の一つでもあるのだが。


 あのときのわくわくは、よく覚えている。

 寝たくないと、夜に我儘を言った。眠ってしまえば明日が来て、今日という楽しい日が終わってしまうのが悲しかったのだ。


 ナルはそっと首を覗かせて、結婚式を眺めた。

 白い布を羽織った花嫁は、たくさんの花で髪を飾り、刺繍の入ったドレスを着ている。文明開化がやってきて、風花国にもモーレスロウ王国製のものが流通するようになった。

 自国の文化を特産品として管理し、建築物の保存は勿論、文化諸々の権利も守りながら、外交も進んでいる。

 民の生活水準が上がり、学び舎の卒業生たちは知識を生かして官吏を目指したり、新たな事業を起ち上げる者もいた。


 ゆっくり。

 本当にゆっくりだが、国が変わっていくのがわかる。


 沢山の花で飾り立てた花嫁は、きっちりと前髪を整えて上着を気障ったらしく羽織った男と、指輪を交換し、誓いの言葉ののちに、お互いに照れたように頬にキスをした。

 これまでよりさらに大きな祝いの言葉が飛び交う。


 ナルの結婚式とは違い、式役もいなければチャペルもない。

 けれど、誓いの言葉と、これまでよりずっと美しく着飾った花嫁と決意に満ちた花婿がいる。

 幸せそうな二人を、羨ましそうな視線がいくつも眺めていた。


 くすりと笑って、ナルは馬車のカーテンを閉めた。


「買い出しは以上でよろしいでしょうか」


 カシアの言葉に、ええ、と頷いた。


「カシアのときが楽しみね」

「……なんでしょう?」

「結婚式」


 途端に、カシアが真っ赤になる。

 ぼそぼそと何かを言うが、よく聞こえない。

 照れているのはとてもよくわかった。


 屋敷につくと、買い出しの荷物をカシアたちに任せて、ナルは真っ直ぐに息子のところへ向かう。

 雇った乳母が、ナルの姿を見るなり微笑んだ。


「今、お昼寝されておりますよ」

「あら、ほんと」


 一歳になる息子は、最近よく動くようになった。

 正直な感想、初産ではそのまま死ぬかと思うほど苦しかったが、生まれた我が子は愛しくてたまらない。


 父親と同じ灰色の髪を何度か撫でたあと、ナルは自分の部屋に向かった。

 子どもが出来てから、シンジュに言われて「育休」を取っている。こちらでは育休制度がないため、女性が働くようになる頃には課題になるだろうが、まだ先の話である。


 部屋で、溜まっている書類を片づけていく。

 シンジュは基本的にナルの自由にさせてくれるが、出産後、落ち着くまでは自宅にいるようにと頼まれた。命令ではなく「頼む」と言われてしまっては、断れない。

 けれど、ナルには学び舎や研究所、天馬の見張り諸々、国政とは少し離れた場所で、やることがある。代役はまだ任せられないため、必要な報告書は信用のおける者に取りに行かせたり、直接施設や学び舎から報告に来てもらっていた。


 自宅での書類仕事は苦ではなく、かつて事務員だった力を発揮する。

 報告と照らし合わせ、今後の方針云々を各事業の者たちと話し合ったりと、子育てしつつ実に充実した日々を過ごしていた。


 当たり前のように乳母を雇い、子育ての負担を減らしてくれるのも有難い。

 乳母もプロを雇ったため、母親として重要な役目はすべてナルがやるように指導してくれる。


 唯一問題があるとすれば、家令たちは勿論、ナルに報告にくる者たち、ナルの信頼する者たちが皆、息子を甘やかしていることだろうか。

 可愛がってくれるのは有難いが、ほどほどにしてほしいものだ。


(とはいえ、もうあの子も一歳だし。……研究所もうまく稼働して、学び舎も基本的な流れが確立したから、絶対に私個人じゃないと対応できない案件も減ってきてるのよね)


 その日、息子を寝かしつけて諸々の寝る準備を整えたあと、いつものようにシンジュと二人で寝室に入った。

 あとは寝るだけである。


 ベッドに二人で入るなり、シンジュの腕が伸びてきて後ろから抱きしめられた。

 最近、シンジュはやたらと触れてくる。

 腕のなかでもぞりと肩越しに振り返ると、ぐりぐりと首筋に額を擦りつけてきた。


「シンジュ様?」

(甘えたいのかな)


 シンジュは変わらず、仕事に勤しんでいる。

 最近のナルは、子どもと自分の仕事にかまけていたところもあるので、申し訳ない気持ちになってしまう。


「抱っこします? おっぱい枕してもいいですよ?」


 くるりと振り返って腕を広げると、ピシ、とシンジュが固まった。

 心の葛藤が見えるようだ。

 シンジュは矜持が高いので、したいことを素直にしたいといえないところがある……と、夫婦になってから知った。


 シンジュはナルを抱きしめると、首筋に顔を埋めた。

 さすがにおっぱい枕は恥ずかしいらしい。


「何か、やりたいことはあるか?」

「それは、大人の営み的な意味でですか?」

「……む。それも希望があれば、善処しよう」

(あ、違ったみたい)


 こほん。

 咳払いで誤魔化す。


「やりたいことって、何についてですか?」

「以前に約束しただろう? 結婚式も披露宴も、ナルのやりたいことを全部やろう、と」


 勿論覚えている。

 モーレスロウ王国の王都で、結婚指輪を貰ったときだ。


「ほとんどこちらが決めてしまったからな。あれから考えていたのだが、あらためて、ナルがやりたいことがあれはやろうと思ったのだ。この際、結婚や披露宴云々以外でも、なんでも構わない」


(約束を守って結婚式をしてくださっただけでも、嬉しいのに)

 そう思いつつも、


「……なんでも」


 という、シンジュの言葉に、ナルは瞳を煌めかせた。


「ああ。なんでも構わない」


 ここで、『出来る範囲なら』とか『手加減はしてくれ』などと言わないのがシンジュだ。

 なんとも男らしい。


「でしたら、あの。旅行へ行きたいです」

「旅行? そんなものでいいのか?」


 却下されるかなぁと思っていたナルは、シンジュの反応に驚いた。


「いいんですか? というか、仕事から離れて大丈夫なんですか?」

「若手の成長が著しいからな。他国との基本的な条約は結んだ、数年は安定するだろう。問題が起こればその都度対応する必要はあるが。近々私は、顧問へ下がるつもりだ。それなりに、休みを取れるだろう」


 ナルは、シンジュの瞳を覗き込む。

 シンジュは無理なことは無理と言うし、実際、丁度都合の良い時期に差し掛かっているのだろう。

 大陸国際連合議会に関しては、一年に一度集まって話し合い問題を提示するのだが、今のところ特に問題なく進んでいる。

 来年あたり、各国の代表が大陸国際連合議会員として選出され、半独立機関として機能していく手筈になっており、どの国で起きた問題であっても公平な判断を下せるよう、それぞれの立場に優劣がつかないよう整えなければならない。が、これは今後いくつも協議をして決めることで、(こん)を詰めるものではないのだ。


(私のほうも、長期間は厳しくても、一ヶ月くらいなら休めるんじゃない?)


 これはもしかして、本当に旅行できるかもしれない。

 ふと。

 じと、と、今度はシンジュがナルを覗き込んでいることに気づいた。


「それで、何が目的だ」

「冒険です」

「……は?」


 きっぱりと言い切ったナルに、シンジュはぽかんとした表情をした。


「旅行という名の、冒険をしましょう。風花国って長い間鎖国してたじゃないですか? 今でも東のとある地域は、まだ未開拓らしくてですね」

「興味があるのか?」


 首をひねるシンジュに、ナルは言う。


「そういう未開の地にこそ、あるかもしれないじゃないですか。ユーリシア大陸!」


 シンジュは、これ以上ないほど目を見張った。

 背中に回された大きな手が、強くナルを抱きしめる。


「冒険か。なるほど。……ならば、身体が動く若いうちに行かねばならんな」


 背中を撫でていた手が上がってきて、頭をいいこいいこと撫でられた。


「お前のことだ。国や子ども、民について、何か希望を言うのかと思っていたが」

「せっかくシンジュ様が下さった我儘チャンスですからね! 私のために使いたいです!」

「夫のためを考えての可愛い我儘に思えるのだが。……噂に聞いた絶景や遺跡を、この目で見るのもいいな。何より、冒険というのはいい響きだ」

「私はシンジュ様の妻になってから、やりたいことばかりやってますからね。人生謳歌しまくりなんで、シンジュ様も一緒に謳歌しましょう!」


 前世では、貫けなかった正義。

 今生でも正しいと思い込んで突っ走った。

 全てを失うはずだったが、出会いによって救われ、大切な人々を得た。


 叶えられるはずのなかった、ナル個人の望み。喜び。


 それらあらゆる幸福を、シンジュは与えてくれた。

 それだけじゃない。

 甘やかして、大切にされて、時折叱ってくれて、とてつもなく愛されて。

 シンジュと夫婦になり、多くを経験し、ナルは初めて自分自身を大切に出来た。


 他者を頼ることを覚えた。

 他者に頼られる喜びを知った。


 多くの出会いと別れがあった。




 これからも。

 そんな、なんの変哲もない特別な、幸福に満ち溢れた日々が続くのだろう。



 幸せな夫婦は、最高の人生を謳歌するのだ。




【完】

 最初の完結時やその後で離脱せず、または離脱後戻ってきてくださって、ここまで閲覧くださった皆様。

 完結までお付き合いくださって、心から御礼申し上げます。


 完結までちょうど一年もかかってしまいましたが、ほんの少しでも楽しんで頂ける時間を提供できたら、嬉しく思っております。


 そして、評価やブクマ、誤字脱字報告、感想を下さった方々、感謝に堪えません。とても励みになり、完結を迎えることが出来ました。


(図々しいながらも、もし良かったと思って頂けましたら、評価のほうを戴けると喜びます。広告の下にある☆で、1~5の評価が出来るようです)


 改めまして、最後までお付き合いありがとうございました。

 またどこかで。


 ★最後なので、少しだけお話★


 今回のお話プロット作成時は、この完全完結まで作っていました。

 でも途中からコミカルな雰囲気が合うよね? だったら前半で完結したほうが、暗い雰囲気になくていいんじゃない? と一度完結設定にしました。


 でもね、伏線(?)ほったらかしだし。

 う●こも、ただ汚いだけの謎の物体になっちゃうし。

 なるべくコミカルを心掛けつつ、後半部分を書かせていただきました。


 もう一度構成や構造を見直したとはいえ、色々「?」な部分が多く、文章力も足りてない凄まじい産物となりましたが、完結まで書けて満足しております。

 今後一層精進し、次に生かしたいと思います。


 ちなみにこのお話、主人公愛され物語の、逆ハーでした。


ここで小話。

サトミが、ナルとの再婚を狙ってる描写がありますが。サトミ本人としては、シンジュとナルが死別するのは、ナルが七十歳くらいの頃かなと考えているようです。その後、一年でも、数ヶ月でも、ナルの傍で過ごすことが出来たら、それだけでこの上なく満足だと本人は思っています。結婚まで望むのは、贅沢なこと。僅かな間でも、もっとも傍で過ごしたい。それだけがサトミの、本当の望みです。

 シンジュがヒーローですが、サトミは準ヒーロー的立場でした。


 リン、アレク、フェイロン、ベティエール、その他諸々については割愛します。

 皆それぞれ、愛するがゆえ相手を第一に思いやる人たちです。

 彼らが今後どのように過ごすのかは、想像にお任せ致します。


 それでは、お付き合いありがとうございました。


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