第二幕 第三章 【2】 ジーン
かつての仲間たちが、新しい生き場所を見つけるなかで。
自分は、死に場所を探していたのかもしれない――。
想定内といえば想定内だが、やはり、右大臣家の警備は厳しい。
そもそも、貴族街でもかなり深い部分に位置する右大臣家は、近づくのも苦労するほどだ。
そこへ侵入し、内部の情報を探るなど通常ならば出来はしない。
シンジュの屋敷のように見張りが二人だけ、などということはありえないし、モーレスロウ王城のように死角があるわけでもない。
無駄とも思える警備の厳重さは相変わらずだった。
義賊として動いていたころも、貴族街の深部には手をつけなかった。
一度でも触れたが最後、火傷では済まされないことを承知していたからだ。
(それでも、なんとか侵入してきた私は、やはり凄いですよねぇ)
不意をついての侵入だったため、なんとか潜伏できたが、優秀過ぎる警備のせいで想定より早く気づかれてしまった。逃走経路を確保していたために逃げることが出来たが、途中、二度ほど追い詰められるという危機に直面してしまった。
ジーンは、腕に巻いたままだった布を剥がしながらナルを探した。
拝師の家に帰宅して最初に見つけたのはアレクサンダーで、彼はジーンの頬や腕に負った怪我に驚いた顔をしつつも、深くは問うてこなかった。
ナルの居場所を問うと、屋敷のどこかにいるとのこと。
リンも似たようなことを言っていた。
(なんか適当すぎません? まぁ、べったり傍につくほうが迷惑かもしれませんけど、主の居場所くらい把握しておいてくださいよ)
こんな異国の地で、奇襲があったらどうするのか。
ナル自身、あまり護衛がそばを固めることを望まないので適度な距離を保っているのだろうことを理解しつつも、ジーンはどうも納得がいかない。
屋敷は然程広くないので、すぐに見つけた。
ナルは、拝師と共に『あの男』の部屋にいた。
手作りの机に本棚、ベッド、小さな棚、それらしかない部屋だが、この部屋だけは窓にガラスが嵌めてあり、真冬でもそれなりに温かい。
あの男――この家の本来の持ち主である時次郎は、拝師の弟だ。
今はもう、この世にいない。
(この部屋、変わってませんね)
ジーンが最後に見てから、十年以上経つはずだ。
「あ、ジーンさん! おかえりなさい、遅かったのね」
ナルは床に座り込み、時次郎が残した手書きの本を読んでいた。
ジーンには解読不能の、謎の文字で記してあるものだ。
時次郎だけが知る暗号文字かと思っていたが、もしかしたらナルが以前にジーンに探すように命じたあの文字かもしれない。
ふとそんな予感を覚えたが、胸中で首を振る。
時次郎とナルだけが解読できる文字、などあるはずがない。
古代文字ならば他にも解読者がいるので、もしかしたら時次郎のオリジナル文字ではなく、遥か古に使われた文明文字だろうか。
ナルがゆっくりと顔をあげたとき、ジーンはナルの頬にくっきりと二本の爪痕が見えて、ぎょっとした。
「あなた、その怪我どうしたんですか」
驚いて傍へしゃがみこむと、ナルが目を真ん丸にした。
「ちょ、ジーンさん、怪我してるじゃない! 腕のところ……ほっぺたも!」
「私が聞いてるんですけども!? その頬、どうしたんです!」
「これは治りつつあるからいいの。そっちの腕、血が滲んでるじゃない!」
「これは今しがた括っていた布を強引に剥がしたので、皮膚が一緒に剥がれただけです」
「いや――っ! 痛い痛い、それ痛い!」
「……なんであなたが痛がるんですか」
「あははは」
拝師の笑い声に、ジーンは、はた、と我に返った。
かつては厳しい顔ばかりしていた拝師も、随分と柔らかくなった――と思った瞬間、ジーンに厳しい目を向けてきた。
柔らかくなどなっていなかった。
ただ拝師が、ナルを気に入ったのだろう。
「ジーン、尾行されてないだろうね」
拝師は、あえて『ジーン』と呼んだ。
モーレスロウ王国で使っている名前で、風花国で生まれ育ったジーンには当然、別に名がある。
「そう。さて、ナル。私はそろそろ部屋に戻る。この部屋は好きに見てくれて構わない。きみにとって、何か面白いものが出てくるかもしれないからね」
ひらひらと手をふって、拝師が部屋を出て行った。
「腕みせて!」
ナルはやや強引にジーンの腕を引き、椅子へ座らせる。
袖をめくり、手当てがすでに行われていることを確認してから、滲んでいた血を彼女自身のハンカチで抑えた。
その間に、ナルは懐から丸い入れ物に入った軟膏を取り出した。
「その薬、拝師からですか?」
「そう、ジーンさんが作ったやつ。頬の傷に塗るのに、ヤコさんがくれたの」
ヤコさん、という呼び方に眉をひそめた。
いつだったか、ジーンが拝師を名前で呼んだ際、拳が飛んできたことを思い出したのだ。
もっとも、彼女は元々ジーンを嫌っているので、なんと呼んでも殴られただろうけれど。
(というか、その薬、十年以上前のものなんですが。貴族令嬢が使うような出来でもなければ、古すぎません?)
モーレスロウ王国育ちの貴族令嬢ならば、触れたくもないだろうに。
「それで、その頬はどうしたんですか」
「ちょっと喧嘩? しちゃって」
「なんで疑問形なんで――紅ですね!?」
先程の感覚からして、拝師とは良好な関係を築いているようだ。
アレクサンダーやリンが、ナルに怪我を負わせるとは考えにくい。
消去法で、紅しかいなかった。そもそも彼女はジーンを恨んでるので、ここへ滞在するのも不本意なはずだ。
とはいえ、拝師が「受け入れると決めた客人」に危害を与えるとは。
ナルが、やはりというか、貴族令嬢らしくないテキパキとした動きで手当てを終えると、ジーンは立ち上がる。
だが、袖を引かれてすぐに足を止めた。
「一応聞くけど、どこに行くの?」
「紅に償いをさせてきます」
「いいから! それに、これはなるようにして、なったの。女同士の、えっと、ほら……そういうやつ!」
「意味がわかりません。そもそも、アレクサンダーたちは何をしていたんです?」
「ん、傍にいたわよ。これは私と彼女の喧嘩だったから、傍観してたみたい」
「……はい?」
「よく出来た騎士よねぇ」
喧嘩を傍観とは、どういうことか。
今更だが、ナルが通常の貴族令嬢に当てはまらないのだと思い直して、嘆息した。
「……何にせよ、私のせいですね。紅は私を嫌っているので」
「ふぅん。ヤコさんは嫉妬だって言ってたけど、ジーンさんと紅さんって恋人同士だったの? 今でも交際中?」
「馬鹿言わないでください」
「歳だって近いし、ありえない話じゃないと思うけど」
「貧民街の、同じ集団で暮らしてたんですよ。大勢の孤児たちの一人です」
「幼馴染ってことね」
「そんないいものじゃありませんよ」
ジーンは苦笑した。
「多くの仲間が病気で死んでいきました。少しでも丈夫になって生き残るために、皆で身体を鍛えて。男は稼ぎ、女は子どもの面倒を見て……一人、また一人と、死んでいくんです」
それでも、ジーンが育った時代は運がよかった。
気候が安定していたし、ジーンが十歳になる頃には時次郎が貧民街にやってきたのだ。
紅も、紅の兄も――そして、多くの仲間たちが大人になれた。
大人が増えれば、子どもを養う人手が増える。
なかには、貧民街での暮らしが嫌で出て行った者もいたが、幼いころから団結して暮らしてきた皆の結束力は、とても強かった。
「どれくらいの人数がいたの?」
「多いときで、百人を超えてましたよ」
「それって、食い扶持稼ぐの大変じゃない」
「ええ。そんなとき、『あの男』がやってきたので、とても助かったんです。彼がいなければ、私は死んでいたかもしれません」
「あ! それって、ヤコさんの弟さんね」
ナルの言葉に、ジーンはつかの間、息をつめた。
どうやら拝師から、時次郎のことは聞いているようだ。
この部屋にいたのだから、そうだろうとは思っていたが、こうして直接話を聞くと小さく身体が震えた。
時次郎の話は、ジーンの知られたくない過去へ繋がる。
だが今後、ナルが望むまま風花国で動いていけば、ナルは嫌でも当時のことを知るだろう。いや、もう紅が話しているかもしれない。
(……湾曲して伝わるのなら、いっそ、自分の口で……)
ジーンは、覚悟を決めて嘆息した。
「少しだけ、思い出話に付き合って貰えますか?」
「勿論」
ナルは頷くと、ジーンの手当てのために机に置いた時次郎の手記を抱きしめて、辺りを見回した。ジーンが椅子を譲ろうとしたとき、近くのベッドへ腰を下ろす。
ジーンは椅子をずらしてナルと向かい合うようにしてから、ゆっくりと、話し始めた。
「あれは九歳のころでした。時次郎が、貧民街へやってきたんです。ちょうど、私たちが暮らす地区でした」
「トキジロウさん?」
「拝師の弟で、この家を建てた人ですよ」
ナルは目を見張ってから、頷いた。
拝師からは、あまり詳しく聞いていないようだ。
「時次郎は、変わり者でした。風花国の貴族でありながら、貧民街で暮らしていました」
最初こそ、貴族相手に恐々していた子どもたちだったが、時次郎の人となりを知るとすぐに懐いた。
勿論、全員というわけではないが、ジーンや紅の兄だった勝也は、とりわけ時次郎と過ごすことを望んだ。
時次郎は博識で、あらゆる知識を与えてくれた。
ジーンや勝也にとって、大切な敬愛する師匠だった。
時次郎の元へは、ひと月に一度、身なりのよい者が会いに来た。実家から届く物資だった。詳しいことはわからないが、貧民街で暮らしているからといって、実家と縁が切れたわけではないらしい。
とはいえ、物資は時次郎一人が生活できるほどの量で、子どもたちを賄うほどではなかった。
その訪問者のなかに、稀に、拝師がいた。
優しい時次郎とは正反対の、常に厳しい拝師が、ジーンは苦手だった。
「当時の私は、時次郎のもとに足繁く通い、知識や医学を学んでいました。薬作りは特に楽しくて、そんな私を時次郎は可愛がり、さらにいろんなことを教えてくれたんです」
年月はゆっくりと、だが着実に過ぎ、ジーンが十二歳になった頃。
「貴族は、どこから収入を得ると思います?」
「……税じゃないの?」
「都から離れた農村から、米やその他の食べ物が治められています。それらは、地位に応じて貴族へ分配されます」
「ほかに収入源があるってことね」
ナルが考え込むのを見て、ほんの少しだけ笑う。
「優れた者を、王宮に仕えさせることです。年貢として納められた食べ物は分配されますが、王族のためだけに使われる税が別にあるんです。それらを王族はカネに変えて、禄として仕える者たちに支払うんですよ」
「じゃあ、身内が沢山仕えたら、それだけ潤沢になるのね」
「正解です。ですが、貴族は基本的に、内政に関わる高位の地位にしかつきません。下っ端の文官や武官になるのは、遠い親戚などですね。つまり、どれだけ下官だとしても、貴族の息のかかったものでなければ、禄が貰える仕事につくことが困難なのです」
文官や武官の数には限りがあり、空きが出ると、貴族が推薦した者のなかから新たな士官が選ばれる。
平民街にいた者のように、ほとんど貴族の関わりのない者が下官として仕えることもあるが、推薦した貴族が禄の八割を受け取るなどの契約になっているのだ。
「私が十二歳の頃、時次郎の実家が推薦枠を一つ手に入れたんです。彼の実家は王族の端くれで、結構な身分がありました。推薦枠をいつも持て余していたようで、時次郎がその推薦枠を使ってもよいことになりました」
「……そんな仕組みなのね」
「推薦枠は、武官のものでしたから、腕っぷしの強い勝也が推薦されると思っていたんです。でも勝也は、時次郎に私を推薦するように嘆願し、結果、私は時次郎の推薦を受けて武官になりました」
あのときのジーンは、皆の希望だった。
貧民が、使い捨ての下官ではなく『王宮に仕える武官』になるなど前代未聞だったのだ。当然、禄も多く貰えるし、ジーンはそれらを仕送りすることを彼らと約束し、生まれて初めて貧民街を離れた。
働き始めてからは、必死だった。
少しでも出世するため、訓練に励み、稼いで、仕送りをして。
娯楽を一切経ち、故郷の仲間の笑顔だけを思いながら、ただただ、働いた。
四年が過ぎた頃だった。
繰り返し盗みをしていたという、男が捕まる。
貴族の屋敷に盗みに入ったこともあるようで、見せしめに処刑するという上官からの命令が来た。
上官の命令は絶対で、ジーンは言われるままに、捕らえられた罪人を連行する役目を担った。
そこで初めて、捕らえられた罪人が勝也であると知る。
「……え?」
ナルが首を傾げた。
「どうして、勝也さんが? ジーンさんが充分過ぎるほど仕送りをしてたのに、それでも足りなかったってこと?」
「届いていなかったんです、仕送りが。仕送りだけでなく、送った手紙も、送られてきた手紙も、何もかもが」
数年でやせ細った勝也は、ジーンを見るなり修羅のような顔をした。
裏切者、と罵り、信じていたのに、とジーンには理解できない罵声を浴びせた。
彼の言葉から、ジーンの仕送りが届いていなかったこと、ジーンに宛てた手紙に対して返事が一切なかったことなどを知った。
勿論、手紙など受け取っていなかったし、仕送りもしていた。
だが、それらが届いていなかったのだ。勝也を始め多くの者は、ジーンが禄を独り占めして、貧民街を捨てたのだと思ったという。
この数年、寒波が大きく、大勢の子どもが死んだ。
そのなかには、最後までジーンを信じていた子も多かったという。
「勝也は私を罵ると、その場で舌を噛みちぎって自害しました」
ジーンは、視線を床に落とす。
ナルの顔が見れなかった。
「その後、上官が私の仕送りを騙し取っていたことを知りました。私が下賤の者だと知り、腹立たしかったようです」
「……そ、それで」
「上官を切りつけて、逃げました。貧民街へ戻ったんです。懐かしいはずの地区の広場で、さらし首になった時次郎を見つけました」
勝也が盗賊になったことで、師匠であった時次郎が責任を取らされて処刑されたのだという。
処刑の命令が下る前に、自分の末路を悟った時次郎は実家と絶縁。
処罰は実家まで及ばず、時次郎だけが見せしめに処刑されることになった。
そう、拝師から聞いた。
残されたジーンは、故郷を離れたときより遥かにやせ細った子どもたちを見て、覚悟を決める。
もしかしたらそれは、間違った覚悟だったのかもしれない。
ジーンは貧民街の者たちより遥かに頑丈だったし、発育もよかった。
武官として鍛えた日々は無駄ではなかったのだ。
子どもたちの期待を背負い、僅かな金銭で食べ物を買い、無くなると盗む。
当然、大勢を養うことなど出来ず、盗む相手は貴族になる。
武官だった頃に警備隊に配属されていたこともあり、内部をそれなりに理解していたことも大きかった。
あとは、ひたすら盗賊として動いた。
同じ地区の者ばかり裕福だと怪しまれるため、ほかの貧民地区へも施しを行い、さらに多くを盗み、やがて、盗賊仲間が増えた。
義賊と呼ばれ、名も知れ渡っていく。
そのさなか、作り出したのが夢蜘蛛だった。
子どもらを養うための盗みには、絶対に人を殺さない。そう決めていたため、夢蜘蛛は眠り薬として開発したのだ。
その夢蜘蛛を用いて、悪名高い貴族らから財産を盗んだ。
「……そんなある日、起きたのが『ルルフェウスの戦い』です。私は殺戮者として指名手配され、子どもらも、それを知ります。私ね、自分は許されていたって思い込んでたんです。仕送りをしていなかったこと、勝也が盗みを働いてまで子どもたちを養っていたこと。それらのことを」
「ジーンさんは、仕送りしてたんでしょ?」
「子どもたちはそのことを知りませんし、言ったところで現実は変わりません。子どもたちを大切にしてきたのは、私ではなく、あの場にいた勝也でしたから」
子どもたちは、指名手配されたジーンを知り、手のひらを返した。
人殺しと罵った。
結束力の強い彼らにとって、「他者を屠ってまで生きる」ことは屈辱的なことだったのだ。
ナルは理解できないというように、首をひねる。
「盗みはよくて、殺人は駄目なの?」
「まぁ、そのあたりは子どもですからね。何より、死が身近にある分、命について彼らはとても敏感なんですよ」
故郷を失い、ジーンとジーンに従って盗賊をしていた者たちは逃げた。
実際、子どもらを養う盗みでは人を殺めなかったが、それ以外では、殺めることもあったのだ。
「それから柳花国へ流れましたが、さすがに潜伏するには厳しくて。あの国は、風花国とも交流がありますし。そしてモーレスロウ王国へ逃げたんですが、そこでバロックス殿下に捕まりました」
処刑を覚悟したが、待っていたのは『仲間の自由』を引き換えにこき使われる生活だった。
それでも、共に逃げてきた者たちに自由をやりたかった。
だから、ジーンと腹心たちだけで、可能な限り命令を遂行した。
そのなかで、かの『ルルフェウスの戦い』がどんなものだったのか、嫌でも知ることになる。
命令で刑部省に勤めることになっても定時で帰宅していたのは、そのためだ。
ジーンが本当にやらねばならないことは、勤務時間外にあったのだから。
「……そんな感じで、モーレスロウ王国へ移ったんです」
ジーンは深く息を吐いた。
いや、吐いたつもりだった。
喉の奥に、空気の塊がつっかえて、うまく吐き出せない。
沈黙が流れた。
「実里っていうのが、ジーンさんの本名?」
唐突だった。
はっ、と顔をあげると、ナルは手元の時次郎の手記を見ていた。
「え、ええ。とっくに捨てた名ですが」
「素敵な名前ね」
『――名前がない? ならば、僕が名前をつけてもいい?』
ふいに、時次郎の声が脳裏に蘇る。
名前のなかったジーンに、実里という名をつけたのは時次郎だった。
貧民街の子どもには名前がなく、適当なあだ名で呼ぶのが通常だ。そのあだ名も一貫したものではなく、それぞれ好きに呼んでいた。
「ジーン、っていう名前はどうしたの?」
「最初にモーレスロウ王国で擬態した者の名前です。モーレスロウ王国はしっかりと戸籍が管理されてますからね。実在する者に成り代わる必要があったんです」
小さな病院で、病に侵された男から戸籍を買った。
当然違法であり、買ったというより、善意で貰ったというほうが正しい。
男が息を引き取ったのを見て、ジーンは『本物のジーン』に成り代わったのだ。
「もしかして、姿も本物のジーンに似せてるの?」
「ええ。といっても、元々似ていたので、少し真似ている程度ですが」
ナルはあんぐりと口を開いたあと、なぜか瞳を煌めかせた。
(はい?)
「見たい。ものっすごく、見たい」
「……何がです?」
「本当のジーンさん」
「私、色々と擬態しすぎて、どれが自分かわかりませんから」
「姿だけでも! ね、お願い」
今更隠しても仕方がない。
ジーンは、最後の――最後に、自分を飾っていた仮面を外した。
顔パーツの角度を変える透明テープを外し、防水性のメイクを専用の液体を使って落とす。
じっくりと見たところで判別がつかないナチュラルな変装で、微々たるものだが、これがあるのとないのとでは大きな差がある。
とはいえ、他者になりきるような本格的な変装からは程遠い簡易なものだ。
変装をすべて解いたジーンを見て、ナルは目を瞬いた。
「おおお」
「いや、なにが『おおお』なんです」
「思ってたより男前でびっくりした」
「ほとんど変わらないでしょうに」
「目が、ちょっと鋭くなった? かな。出来る男って感じ!」
「……前々から思ってたんですが、あなた、やけに『出来る男』にこだわりますね」
「そりゃ、男のよさは『上司にしたいかどうか』で決まるからね」
「なんですかそれ」
はっ、とナルは顎に手を当てて俯いた。
露骨な考えるポーズを取って、沈黙する。
(……私が決意を固めて話した過去、どこいったんでしょうか)
ジーンの過去は、ジーンにとって抹消したいものだ。
だが、ナルもまた自身の過去を悔やんでいることを思い出す。
そもそも、ナルの周囲には訳ありの者が多い。フェイロンやリーロン、ベティエールなどもそうだ。
ナルにとって、ジーンもそのなかの一人に過ぎないのだろう。
なぜか。
胸がズキリと痛む。
まるで、自分は特別でありたいと、願っているようだ。
「そっか。ジーン、って名前は他の人の名前なのね」
「呼び方なんて、なんでもいいんですよ」
「でも、実里って名前は捨てたんでしょ? あ、拾う?」
「……拾いませんよ。もう、時次郎から貰った名前を名乗ることは辞めたんです」
「じゃあ、私が新しくつけてもいい?」
想定外の言葉に、ジーンは目を見張る。
ナルはきらきらとした瞳をしている――かと思いきや、優しく目を細め、何か懐かしいものでも見るかのような瞳をしていた。
息を飲む。
確か、ジーンに『実里』という名を与えたときの、時次郎もこんな表情をしていた。
「……構いませんが。名前って、そんなに重要ですか」
「重要! かなり! それに、『実里』って名前、時次郎さんの前世の名前だったみたいだし、この名前も捨てるにはもったいないような気がするのよね」
「――は?」
「あ、大丈夫。ちゃんと、新しいのつけるから!」
前世、と言ったのか、今。
ナルが見つめている、時次郎の手記を眺める。
誰にも読めない手記を、ナルは読むことが出来る。
思えば、『ニホン』という言葉は、拝師から聞く以前に、時次郎も言っていた。
『――日本は、美しい国だよ。いつか、実里にも見せたいな』
時次郎はそう言って、懐かしそうに『かつて暮らしていた』という場所の話をしてくれた。
そうだ、あれは確か『ニホン』だった。
当時、ジーンは無知で、時次郎の話を夢中になって聞いていた。
だが学がついてくると、時次郎の夢の話だろうと思うようになり、いつの間にか忘れてしまっていた。
ふいに、バラバラだったピースがカチリと嵌ったような気がした。
この考えは非現実的で、信憑性にかけるものだ。
それでも、ジーンが敬愛した時次郎と、現在の主であるナルが『そう』なのならば、それはおそらく、事実なのだろう。
「あのね、もし、嫌なら断ってくれてもいいんだけど」
ナルは、そわそわとしていた。
なんだろう、無性に可愛く見える。
好みでもなければ、ナルはすでに既婚者なのに。
「トイレですか?」
可愛いと思った自分を誤魔化すように、そんなことを言う。
ナルは「違うから!」と言ったあと、静かに息を吐きだした。
「……さ、さとみ、ってどう?」
「新しい名前ですか」
「うん。字は、里美って書くんだけど……里って字が重なってるのは偶然よ? でもほら、時次郎さんの前世もちょっと残る感じで、悪くないかなって」
「では、そうしましょう」
頷くと、ナルは驚くほどに表情を綻ばせた。
その姿がまた、時次郎と重なる。
「よかった。大層な名前じゃないけど、時次郎さんが前世の名前をあげたっていうし。私も――」
「里美というのは、あなたの前世の名前なんですか?」
驚いて遮るように聞き返した。
かなり食い気味になってしまったが、ナルは、そわそわしつつも頷いた。
「名前って、大事だと思うのよ。色々あった前世だけど、でも、私が私だった、大切な日々だったの」
「……もはや、前世とか隠す気無いんですね」
「言っちゃ駄目だった? 嘘っぽい?」
「いえ。ちなみに、長官はご存じなんですか? あなたに前世の記憶があるということは」
年齢にそぐわない娘だ、とシンジュはよく言っていた。
それは、前世で生きた記憶があったからだったのだ。
「言ってないし、言うつもりもないから」
ナルは、彼女らしい不敵な笑みを浮かべる。
「私はもう、ナルファレアだもの。この世界で、ナルファレアとして生きていくの」
ナルの言葉には、確固たる意思があった。
それは、時次郎にはなかったものだ。彼はいつも遠くを見ていた。時折、帰りたいとこぼすこともあった。
そんな時次郎を見て、いつかいなくなるのではと不安だった。
ナルは、いなくならない。
(――守り抜く限り、彼女はここにいる)
ジーンは――ジーンと名乗っていた男は、ふと、笑った。
「では有難く、あなたの名前を頂きます」
「ありがとう!」
「過去を頂けるなんて光栄ですよ」
ナルは嬉しそうに微笑んだ。
彼女の未来は、シンジュとともにあるのだろう。
明るく希望に満ちた未来が。
ジーンは――サトミは、自分の名前を噛みしめる。
まるで、ナルの一部が自分と同化したような、そんな錯覚を覚えた。
(……私、この人のどこがいいんでしょうねぇ)
わからないけれど、いつの間にか、サトミのなかにナルはいた。
いくら誤魔化しても、ナルはサトミの深い部分に居座っている。
(――欲しいんです。こんなに欲しいと思ったのは、初めてなのに)
嬉しそうに微笑むナルがいる。
そっと手を伸ばして、ナルの口を覆った。
手のひらの内側にナルの唇を感じながら、顔を近づけて、己の手の甲に口づける。
自分の手のひら越しのキスだ。
ナルはぽかんとしていた。
手を外すと同時に、「大丈夫?」と尋ねられる。
そんな言葉が出てくるナルこそ大丈夫かと思うが、彼女は自分がサトミに女性として見られていないと思っているのだから、仕方がないのかもしれない。
「……トウキョウってところは、どんな所ですか」
時次郎が話して聞かせてくれた過去を思い出しながら、ぽつりと呟いた。
途端にナルは、ぱっと微笑む。
「人が多いかな。物凄く都会よ」
「カンカン・ランランは、どんな姿なんです? そんなに愛らしいんですか?」
「見たことないけど、パンダは可愛いわ。こう、もこっとしてて、白黒なのよ」
「フジサンは、そんなに巨大なんですか? 頭が白い人と聞きましたが」
「フジサンは山よ、騙されてない!?」
山だったのか。
そういえば、フジサンという巨人について話していたときの時次郎は、笑いを噛みしめていた気がする。
そんな話をいくつかしたあと、サトミはナルに言う。
「さて、そろそろ報告します」
潜入してきた右大臣家の件だ。
右大臣家に、ピッタの姉と思しき者がいたことは確認できたが、すでに死亡していた。かろうじて出身地を示す手がかりは掴んだが、ピッタの姉がそこまで重要かどうかは定かではない。
「それから、本なんですが。調べにやらせていた部下から報告が来ました。色々情報が混合してまして、最終的な報告としては、あの文字を使った本は風花国の神殿が関わっているようです」
「神殿が日本語を……」
「出版された本に日本語を忍ばせたり、本自体を発行したり、方法はいくつかあるようです。時代を遡っていつ頃から行われているのか調べようとしたんですが、古すぎて追いきれませんでした」
神妙な表情をするナルに、追加の情報を伝える。
「以前に渡した本、覚えていますか? 表紙が絵になっていたものです」
「ええ、覚えてるわ」
「あれだけ、どうやら別の者が個人的に出版したようです」
「……そういえば、あれは日本語を忍ばせてるっていうより、全文日本語だった」
「まだ新しいもののようですよ」
はっ、とナルは顔をあげる。
「……その本を出版した人も、もしかして」
「前世の記憶があるのかもしれませんね。ひと段落したら、調べてみましょうか」
「まぁ、あんまり興味がないから。どっちかというと、神殿のほうが気になるかも」
自分はナルファレアだと言い切るナルらしい。
同じ前世を共有したい、という感情はないようだ。
「そうだ、ジー……サトミさん!」
「呼び捨てでいいですよ」
「ジー……サトミ!」
「慣れるまで、時間がかかりそうですね」
過去を捨てて、他国へ逃げ、契約に縛られて働いてきて。
このまま、死ぬものだと思っていた。
いや、死に場所を探していた。
それなのに今、また、生きようとしている。
新たな名前を得て、ナルを主として、これからも――。
閲覧、評価、その他諸々ありがとうございます!
お話の流れの都合上、今回からジーンの名前が変わります。
激しく紛らわしいです。
ギリギリまで迷ったんですが(地の文だけでもそのままとか)、生まれ変わるという意味も込めて、当初の予定通り変更することにしました。
改めて読み直すと、前半の「さくさく読める文章ってどんなだろう」と思案しつつ書いためちゃくちゃな文体と、後半のガチガチの文章の差が凄すぎてびっくりしています。
次は、少し堅いお話(予定)です →




