第二幕 第三章 【1】 会わせたかった人
ナルたちが、シロウの護衛を盾にして転がるように荷馬車から降りたのは、風花国の都に入ってすぐだった。
時間は、星々が瞬く夜だ。
国境を超えることが難関だと思っていたナルだが、思いのほか、すんなりと風花国へ入ることができた。
アポ有りなのだから当然と言えば当然なのだが、鎖国状態と聞いていただけにやや拍子抜けである。
シロウは一国の姫であり、風花国国王にとっては妹。
相手を露骨に疑えば、国家間の関係に亀裂が入ると考えているのかもしれない。
風花国は鎖国を一貫して貫いており、現在友好的な関係を築いているのは隣国の柳花国のみだ。その隣国を敵に回すほど愚かではないということだろう。
(それにしても、腰、痛い)
長い時間、二重底の中で息を潜めていたのだ。
節々が固まり、腰に至っては変に伸ばすと悲鳴をあげる。
馬車からこっそり降りたとき、思わず喉から奇妙な声が漏れそうになったほどだ。
シロウたちの馬車が十分すぎるほど通り過ぎてから、ナルたちは動き始めた。
ナルとしては一刻も早く行動してこの場を去りたいが、ジーンいわく、そういった動きは周囲の者の目に留まりやすいのだそうだ。
今回は、急ぎではない。
重要なのは、不法入国を知られないこと。
あらかじめ風花国の服に着替えていたナルたちは、ジーンの先導でそっと古風な街並みに紛れ込んだ。
江戸後期から明治辺りの日本を彷彿とさせる風景である。
シロウの馬車を降りた場所は、煌びやかな明かりが街並みを彩る不思議な場所だった。太鼓囃子や笛の音が夜の街に響き渡り、そこへ、男の客引きの声、女の嬌声が混じる。
冷たい風もその場だけはなりを潜めていると感じるほど、祭りの雰囲気に満ちていた。
例えるならば、ドラマで見た『吉原』に似ているだろう。
違うところは、道行く者たちが皆、公家の偉い人のような身なりをしていることだ。
純和風な趣のなかに、ぽつ、ぽつ、と異国の情緒が見られたが、どれも東洋のものばかりで、西洋的な雰囲気は全くない。
ナルたちは着物に身を包んでいるが、道行く者たちのような立派な着物ではない。
薄い麻の布をつぎはぎした、非常に安上がりな着物だった。外からはわからないよう防寒具を身に着けていなければ、寒さで凍えてしまうだろう。
ジーンはすぐに、吉原のような賑わう通りから離れた。
二つほど通りの横切れば、景色は一変する。
仄暗い路地には、ボロを纏った者たちがあちこちに座り込んでいた。
垢で汚れた顔に、しらみのわいた頭。
すえた何かと汚物が混ざったような悪臭までする。
地面に横たわっている子どもと目が合って、ナルはとっさにすぐ前を歩くジーンの袖を掴んだ。
表通りから響いてくるお囃子が、酷く非現実的に思えるほどの格差だ。
ジーンはそっと、震えるナルの手を取る。
だが足を止めることなく、ボロを纏った彼らの前を通り過ぎていく。
ふいに、表通りからざわめきが聞こえた。
ほとんど本能で、びくりと身体が震えた。密入国がばれたか、と思ったのだ。
ナルの後ろを歩くアレクサンダーとリンが素早く意識を向けたのがわかる。だが動きを見せないし、何も言わない。ジーンもだ。
ナルはざわめきがあった表通りへ視線を向けて、息を飲んだ。
地面に倒れて動かないボロを纏った男を、程々によい身なりをした男たちが暴行している。
複数人で無抵抗の人間を殴る蹴るといたぶっているのだ。
「あ、あれって」
ふいに、ジーンがナルの手をぎゅっと繋いだ。
恋人繋ぎだ。
こちらに転生してからは、シンジュとしかしたことがないアレである。
だが今、シンジュと手を繋いだときのような甘い空気は僅かもない。ジーンは、ナルに『立ち止まるな』『気にするな』と言っているのだ。
「……食べ物に困って、何かを盗もうとした、とか」
だから暴行を受けているのかもしれない、そう思ったナルだったが。
「盗みが出来るほど身体の動く者は、ここまで来ません」
嘆息したジーンが、そう言って話し始めた。
「驚いたかもしれませんが、この辺りは貧民街並みに酷いんです。もう少し行けば、平民地区に入るので少しマシだと思いますよ」
ジーンがくれた説明は、地面に座り込む人々についてだった。
「さっきの――」
「ここにいる者たちは、何をされても仕方がないんです。相手は貴族ですから」
「え?」
「食べ物を盗んで、折檻されたり処刑される者もいます。けれど、さっきのは違います。貴族らは笑ってましたからね。憂さ晴らしに、その辺に転がっていた男をいたぶってるんですよ」
「犯罪じゃないの?」
「ここでは、貴族は何をしても許されるんです」
「ほ、法律は」
「ありますけど、機能していませんね」
ナルは、唇を噛む。
聞いていたように、特権階級だけが優遇される世界になってしまっているのだ。
こんな国で、『黒幕』を公的に処罰するにはどうすればいいのだろう。
白い息を吐きながら歩き続けると、一時間足らずで都を過ぎた。
「この辺りからは、平民街です。人口の、そうですね、三割ほどが平民階級です。下っ端の兵士や専門職に携わる者など、仕事のある者たちが中心です」
小学校の校庭にあった、木で出来た古い鶏小屋のような家々が並ぶところに来た。
家族単位で暮らしているらしいが、慎ましいを通り越して質素過ぎる生活を送っていることは、夜の街並みを見ただけでもわかる。
「さっきの都にいた、地面に倒れてた人たちはここから来たの?」
「ここからの者もいれば、貧民街から流れてきた者もいるでしょうね。都は賑やかですし、大店や貴族などの富裕層が集まっていますから。蛾って、火へ集まるじゃないですか。あんな感じですよ。貴族は誰も助けてくれないどころか、搾取される側には人権もないのに」
ジーンの声音は、どこか軽蔑に満ちていた。
さらに歩き続けると、小屋が簡素な物に代わっていく。枝を蔦で結んだ物に草を乗せただけの建物の下に、人々が身を寄せ合っていた。
ナルは、疲労で今にも倒れそうだった。
馬車を降りてきた二時間ほど、ずっと歩き続けているのだ。
ジーンがしっかりと手を繋ぎ、引っ張ってくれていなければ足を止めていただろう。
寒い。
喉が渇いた。
眠たい。
お腹もすいた。
そのどれも、思っていても言えなかった。
ここにいる者たちは、ナルたちのように防寒具を着込んでいないのだ。お腹だって、ナルよりずっと空いている。
(……ここが、貧民街)
夜だからか、見える場所に人の姿はまばらだ。
ふと、全体的に子どもの姿が多いような気がした。
さらに歩き続け、ジーンは右手に見えた山道へ折れた。
貧民街は続いているが、目的地は山中にあるとのことだ。
山の麓で、初めての休憩を取った。
水分補給をし、甘味でエネルギーを得る。
「子どもが多い気がしたけれど、理由があるの?」
「風花国には、婚姻という概念がないんです」
ジーンの言葉の意味が、ナルには理解できなかった。
首を傾げると、ジーンは初めて微かに笑った。それは苦笑だったが、ずっと表情を強張らせていたジーンの空気が、ふっと和らいだ瞬間だった。
「これだけの寒さをしのぐのに、人肌を求めるんです。平民も、貧民も」
「……え。だから子ども出来て、貧民街に子どもが多いっていうの?」
「まぁ、そうですね。とにかく子を孕む者が多い。それも事実です。……ですが、重要なのは、そこまでしなければ寒さをしのげない、という部分ですよ。子どもが多いのは、大人まで生き残る者が少ないからです。とくに冬場と夏場は、大勢死者が出ますから」
「それでも、人口のほとんどが貧民街にいるのね?」
ジーンは頷く。
「貧民街は地区分けされていて、意外に関係性が出来てるんです。ここでは、生まれた子どもは親が育てるのではなく、地区全体で面倒を見ます。私がいた地区では、年長の者たちが大道芸でカネを稼ぎ、中堅の者が幼い者に大道芸を教え、少女たちが赤子を見ていました。赤子は地区内で生まれた者もいれば、突然外部から連れてこられた者もいましたねぇ」
ナルの気持ちは酷く鬱屈としていた。
モーレスロウ王国では、奴隷売買が違法となっている。
奴隷が違法である、というその考えさえ、この国ではもしかしたら、平和なことなのかもしれない。
「婚姻の概念がないって先程言いましたが、それは貴族も同じです」
ジーンは、嘲笑を浮かべる。
「この国に、結婚という制度がありません。男は夜に忍んで女を抱き、女が子を孕めば、女が一人で産む。育てる義務はありませんから、貧民街へ寄越される場合も多いんです」
「そんなことで、国が成り立つの!?」
「それがここの『普通』ですからねぇ。……寿命が短いのも、貧民街が多いのも、全部、ここでは当たり前なんですよ」
休憩を終えると、山道から獣道へ逸れ、さらに歩く。
山登り宜しく傾斜を歩くのは酷く疲れて、意識が朦朧とした。つい、休憩のときに離してしまったジーンの手を取ろうとしたが、なんとか踏みとどまった。
引っ張って、などと甘えたことをねだっている場合ではないし、そんなことしたくない。
根性で歩き続けると、木々の間にひっそりと建つ小屋にたどり着いた。
「ここ?」
「……ええ」
ジーンの声が硬い。
気づいたが、ナルは何も言わなかった。
呼吸を整えている間に、「待っていてください。話をしてきます」と言ってジーンがドアの向こうへ消えた。
よく見ると、小屋だと思っていた建物は奥へ続いており、見えている部分はただの玄関口であることを知る。夜闇では全貌を見渡すことはできないが、戸建ての家屋のようだ。
ややのち、ジーンが戻ってくる。
「どうぞこちらです。拝師が奥方に会いたいそうですので、案内しますね」
促されるままに小屋の玄関を進むと、それなりに使い込まれた家屋が続く。
造りは簡易だが、生活しやすそうだ。
案内されたのは、小さな部屋だった。
木を薄く切ったスライド式のドアの前に、目つきの鋭い痩せた女が正座している。
ジーンはその女には目もくれず、ドアをノックした。
すぐに返事が返り、ジーンがドアを開く。
ナルは、やや考えたのち、アレクサンダーとリンにその場で待つように言って、ジーンとともに『拝師』がいるという、部屋に入った。
六十、いや、五十ほどの女だった。
まるで眠る間際のように、髪を下ろして布団に下半身をつっこんでいる。
着ている着物は、ボロというほどではないが、かなり質素だ。
酷く眠そうにぼんやりとした目でジーンを見た女は、何度か瞬きをして、そして、ナルを見た。
「……やぁ、きみがナルか」
拝師の声は、見た目のまま、眠そうだった。
「はい、ナルと申します。お世話になります」
「うん。それなりの資金は貰ってるから、いてくれて構わない。でも、私の邪魔だけはしないでくれ」
そう言うと、「じゃ寝るからおやすみ」と、拝師は手を振った。
挨拶も程々に、ナルたちは客間として部屋を与えられた。手作り感満載の寂れた部屋だが、貧民街を通ったあとでは、豪華すぎるとさえ感じる。
部屋へ案内したのは、拝師の部屋の前にいた女で、ナルたちとは一言も会話せずに去っていく。
どうやら、彼女にはあまりよい印象を持たれていないようだ。
「……お疲れでしょう、休んでいて下さい」
「ジーンさんは?」
「少し用があるので、出掛けてきます。ここは安全なので、無闇に町へ降りないで下さいね」
ジーンが出掛けたあと、ナルは疲労に負けて眠ってしまった。
寒さで起きたとき、ナルの身体に薄い布団が掛けてあった。
来たときは気づかなかったが、壁に障子のような窓があり、うっすらと紙越しに外の陽光が差し込んでいる。
(……こんな森の中なのに、家も、窓代わりの障子もあるのね)
拝師という、あの女は何者だろう。
そんなことを考えながら、ナルは布団をたたむ。
着替えとか、清拭とか、そんなことは言っていられない。
(あ。アレクたちはどこ?)
ただ黙々とついてきた彼らの姿がない。
ナルは、そっと引戸をスライドさせて部屋を出た。
肌寒さに身震いしながら、薄墨が辺りを染める手作り感満載の家屋を歩く。
少し歩いた先にあるドアを開くと、そこは外だった。
だが、入ってきた玄関口とは違う。
中庭とでもいうのだろうか。
ぽっかりと空がひらけて、星々が見える。
(あ)
白い息を吐きながら、ナルはそこにいた女性を見た。
拝師が、天体望遠鏡のようなもので空を見ていた。
ゆっくりと振り向いた拝師は、ナルを見て手招く。
「見てごらんよ。きみは、あの星の名前を知っているかい?」
言われるまま望遠鏡を覗き込むと、ぼんやりとだが、星が大きく見えた。
「……北極星ですか?」
「正解だ」
拝師はふふっと笑う。
笑うと途端に、幼く見える。
「あの、連れを知りませんか?」
「あの二人なら、紅の手伝いをさせているよ。朝食とか、諸々の」
紅、というのは、あの痩せた女性だろう。
「私も行ってきます」
ぺこりと頭を下げて、踵を返そうとしたナルを拝師が引き留めた。
「さっきも言ったけど、それなりに資金は貰ってるんだ。手伝いは、本来不要。私はてっきり、きみが従者たちに命じて、あえて紅の手伝いに向かわせたのだと思っていたのだがね」
「……アレクとリンは、従者ではなく護衛です」
「自主的に、主をたてることのできる彼らは、余程きみに忠実らしい」
そう言って、ふっと笑った拝師は、自らも望遠鏡を覗き込んだ。
「きみは、日本語の本を探しているんだってね」
唐突だった。
ジーンいわく、拝師は『日本』を知っているという。
返事に窮していると、
「きみも、日本で育ったのかい?」
拝師はそう言った。
日本を知っているのか、ではなく、育った、と。
(つまり、この人も私と同じ、ってこと)
ナルはやや黙したのち、じっとり汗ばんだ手のひらを握り締めて、「はい」と小さく答える。
「やはりか。悲観的な話は割愛しよう。きみはこの世界をどう思っている?」
「どう、とはどういう意味でしょう」
「この世界の成り立ちだよ。例えば、そうだね。あそこに北極星があるが、取り巻く星々のいくつかが、かつて日本で見た夜空と異なっている」
拝師の視線を辿って空を見るが、星座に明るくないナルは、まったくもってわからない。
「ふむ。風花国へ密入国希望で尚且つ日本語の本を集めているというから、歴史学者やその手の人間かと思っていたが、とんだ期待外れだ。きみは、何をしに風花国へきたんだい?」
拝師は心の底から興味が失せたというように、ナルを冷ややかに見た。
だが、ナルとしても彼女の話に興味を持てないので、おあいこだろう。
「……やりたいことができたので、それを遂げるために」
「青臭いセリフだね」
「すみません。前世はしがないOLだったので、今度は人生を謳歌したいんですよ」
「興味ないなぁ」
「ですよね」
「どうやらきみとは、根本的に合わないようだ」
同じ前世の記憶があるから、必ずしも気が合うとか、仲間意識が芽生えるとか、そういったことはないらしい。
それはナルも同じだった。
そもそも、前世の記憶があるからといって、必ずしも『同じ世界』の記憶があるとは限らない。
このような別世界が存在するのだから、ナルと拝師だって、似て非なる場所からそれぞれ転生した可能性だってあるのだ。
「まぁいいさ。日本語の本について知りたいなら、神殿関係をあたるといい。あそこは、この世界の成り立ちや秘密を握っているという噂だ」
「噂、ってことは、拝師? もご存じないんですか」
「ヤコで構わないよ。私は神殿とは関わりたくないんだ。一応、元貴族でね。王家の血筋でもあるから、対立勢力でもあるし。今は隠居してるけれど、なかなかしがらみは消えてくれないんだ」
風花国の貴族だった、ということに驚くナルに、ヤコは苦笑する。
「きみがこの世界について知りたいのなら、私が知っていることを教えてあげなくもないけれど。情報料は求めるよ」
「興味ないんで、結構です」
「はは、いいね。そういうところは、悪くない」
ヤコは、ゆっくりと空を見上げた。
「もっと早く、きみに会いたかった。そうすればきっと、弟も喜んだだろうに」
「弟さんがおられるんですか」
「死んだけれどね。弟がね、日本という場所で生まれ育った記憶を持っていたんだ」
ナルは、息を詰める。
まじまじとヤコを見つめるが、彼女は空を見上げたままだ。
「残念ながら、私には前世とやらの記憶はない」
(ヤコさんが、転生者じゃ、なかった)
どうやらナルと同じ転生者は、彼女の弟だったらしい。
そして、その弟はもうこの世にいないのだ。
「この天体望遠鏡も、弟が作ったんだ。研究者だったらしくて、幼いころから様々なものを作っては周囲を驚かせていた。私もあいつから色々なことを聞いたよ。……あの子は、この世界に、この国に、疑問を抱いていたんだ。けれど、その疑問を解決することなく、この世を去っていった」
やっと視線を下したヤコは、家屋を振り返った。
「弟は早くに家を出て、ここで暮らしていた。貴族の生活が合わないとかでね。せっかく風花国の貴族に生まれたのに、貧民街の子どもたちと仲良くして……愚かな子だった。最後まで。……本当に、きみに、会わせたかった」
ヤコはそう言って、唇を噛むと。
再び、空を見上げた。
まるで、弟との美しい思い出を眺めるように。
*
「出て行けよ」
厨房らしき場所へ入るなり、怒りを押し殺した声で言われた。
紅、というらしい女は、ナルを睨んでいる。
リンとアレクサンダーを探してふらふらしていてたどり着いたのだが、二人はここにいなかった。
「邪魔をしてごめんなさい。ねぇ、連れを見なかった?」
「出て行けって言ってんだ! この部屋からじゃねぇ、この国から出て行けって言ってんだよ!」
紅は目を血走らせ、肩で大きく息をしている。
(ええっと……なんか、あった?)
ぽかんとしていると、紅が口をひらく。
「小姓が小姓なら、主も主だな。図々しいにもほどがある!」
「あの、もしかして、二人と何か――」
「元々お前がこの国に来たいなんて言わなきゃ、こんなことにならなかったんだ! 十年前、拝師がどんな目にあったのか知らねぇのかよ!」
紅が、傍にあった柄杓を掴んで、ナルに投げた。
腕でガードしたが、強かに腕を強打する。
紅は、次から次に、傍にあったものを投げ始めたが、あまり物がなかったため、それもすぐに止む。
「もしあいつがここにいることが知れたら、俺らはもう、生きていけねぇ。出ていけよっ、人殺し!」
「一度、話をしましょう? あいつって、誰のこと?」
「出てけって言ってんだ!」
腕を掴まれて、痛みに顔を顰めた。
振り払おうとするが、紅の力は強くて引きずられてしまう。
紅は、まだ若い。
年齢は、二十代前半ほどだろうか。
「離して、痛いっ」
「うるさい!」
ひと際強く引っ張られて、転んだ。
土間のように床がむき出しの地面で頬を擦りむき、掴まれたままだった腕をひねる。
「痛っ! もう、話くらいさせなさいよ!」
座り込んで腕を引っ張れば、紅の身体が傾げた。
その隙を見計らって、足をかけて転ばせる。するりと腕を引き抜いた瞬間、頬に痛みが走った。叩かれたのだと知った瞬間、反射的に頬を叩き返す。
「痛いって言ってんのよ!」
「足をかけたのはお前だろうが!」
もう一度叩かれたが、今度は爪をたてられて、頬にぴりっとした痛みが走る。
殴り返そうとしたら避けようとしたので、紅の腕を引っ張ってから、カウンターで平手打ちだ。
ナルとて、フェイロンのもとで武術を学んできた身なのだが、使いどころを間違っている気がしないでもない。
「っ、出てけよ。早く、今すぐに! あいつが逃げたあと、俺らがどんな目にあったか、なんも知らねぇくせに。あんな屑、二度と連れてくんな! 一人だけ出世して、親友殺して、偽善者ぶって、犯罪犯して――」
「話し合いをしようって言ってんでしょ!」
パパパン、と連続で平手打ちをする。
紅がよろけて、唇を噛むと、腕を振り上げた。
「――止めないのかい?」
はっ、と紅が振り返る。
遅れて視線を追いかけたナルは、入口のところにヤコが袖に腕を突っ込んで立っていることに気づいた。
紅は音がなるほど歯を噛むと、踵を返して裏口から飛び出した。
裏口には、いつの間にかアレクサンダーとリンが立っており、どうやらヤコの言葉はこの二人に向けられたもののようだった。
「止める理由がないんで」
答えたのはアレクサンダーだ。
うむ、とリンも頷く。
「いやいや、守るのが仕事だろう? 主が怪我をしたのに、傍観を決め込むのはいかがなものかねぇ」
「仕事というよりも、好きで仕えているんで。ナルが望むことを最優先したいんですよ」
「へぇ、思ってた貴族と違うんだね。モーレスロウ王国は、変わったところなのかな」
ヤコはそう言って苦笑すると、ナルへ視線を向けた。
ナルは、そわそわと紅が走っていた裏口を眺めていたが、ヤコの視線を受けてしゅんと俯く。
「ごめんなさい」
「謝ることはないさ。紅も、嫉妬してるだけだ。放っておくといい」
「……はい」
「なんできみが落ち込むのかな? 罵倒されてショックだったのかい? あいつを連れ帰ってきた時点で、そのくらい覚悟ができていると思ってたんだけど」
紅やヤコのいう「あいつ」は、ジーンのことだろう。
ナルは胸のなかにあるモヤモヤに、目を伏せた。
「まぁいいさ。怪我を手当てしよう。化膿して熱でも出されたら大変だからね。この国では、医者なんて偉い人に診て貰うにはかなりのカネがかかる」
ヤコに言われるままあとをついていく。
途中でアレクサンダーとリンを振り返ると、どうやら水くみをしていたらしく、作業を再開していた。ナルと紅の声に驚いて駆けつけたのだろう。
二人の居場所は把握したので、少しだけほっとして、ヤコと共に小部屋に入った。
薬品の匂いがする、仄暗い部屋だ。
沢山の木箱のなかで、ヤコは、迷うことなく、奥から三つ目の木箱をひらいた。
「弟がね、薬の調合が趣味だったんだ。私はそこまで得意じゃないんだけど、でも、あいつには……きみが『ジーン』と呼んでいるあいつには、才能があった。頭もよかったし、続けていたら医者にだってなれたかもしれないな」
「ジーンは、お医者さんになりたかったんですか?」
薬品づくりの才能があった、という話を聞いて不思議と安堵した。
ジーンは何も、最初から夢蜘蛛を作ろうとしたわけではなかったのだろう。最初はただ、薬を作っていたのだ。
自分のために。
皆のために。
「さぁね。でも、新しい薬を開発しては喜んでいたよ。とにかく腕がよくて、弟も舌を巻いていた。ここにある薬は、ほとんどあいつが作り出した製法で出来ているんだ。……結局、武官になって出世して、手の届かないところへ行ってしまったんだけれど」
ヤコは、慣れた手つきで薬を塗ってくれた。
「……すまない、ナル」
しゅん、と項垂れるのはリンだ。
隣のアレクサンダーも頭を下げている。
どうやらナルが紅とひと悶着合う少し前に、リンが紅と少々口論したらしい。
といっても、突っかかってきた紅に対して、リンが真面目に返事を返したのだが。
リンが無意識で紅を煽り続け、そろそろヤバイと察したアレクサンダーが強引にリンを水汲みに連れ出したあと、ナルがやってきたため、紅の怒りの矛先がナルにきたという。
リンの件がなくても、いずれこういったことは起きたはずだ。
「いいの、すぐに駆けつけてくれたじゃない」
「ナルが良好な関係を築いてつつがなく生活を送れるようにするのが、騎士の役目なのだ。私は、失敗してしまったらしい」
「もはやそれは騎士の役目を超えてるわよ? でも、本当にいいの。リンは間違ってない」
にっこり微笑むと、リンは小さく頷く。
ここはアウェイなのだから、反発が起きて当然だ。
寝食が与えられるだけ有難い。
ナルと紅のいざこざに手を出さなかった二人だが、紅のことは警戒しているらしく。
出される食事すべて、毒見をする。
紅はヤコに言いつけられて仕方なく食事を作っているようで、あれからナルとは一言も話さない。
アレクサンダーとリンは、水汲みや火起こしという大層な仕事を担っているが、やはり、紅との会話はないそうだ。
そうして数日が過ぎた頃、ジーンが帰宅した。
閲覧、評価、誤字脱字報告等々、ありがとうございます。
基本まったり更新でいこうと思うので、宜しくお願い致します。
次は、ジーンの過去が明らかになったりする話 →




