第二幕 第一章【11】 新しい、旅の世話係
ジェンマは、平民上がりの文官ゆえに、貴族らの夜会や社交界とも無縁である。
ジェンマの興味は、たった一つ。
貯金だ。
仕事をして、給料を貯蓄する。
その金額が増えていくのが、楽しくて仕方がない。
高位になればなるほど、給料もあがるため、必死に仕事をしてやっと刑部省副長官の地位についたが、この辺りが打ち止めだろう。
長官になるには、平民として後ろ盾のないジェンマには厳しいものがあるし、僅かの失敗も許されない刑部省長官など、リスクしかない。
何事も、ほどほどがいい。
一応、貴族街に屋敷を与えられているが、ジェンマの生活圏内は王城の刑部省副長官室近辺だ。
食事も睡眠も、全部ここでとっている。
というか、屋敷は放置しているので、住める状態ではない。
使用人も、最低限身の回りの世話をするための従者を一人置いているだけで、屋敷の管理に関しては何もしていないのだ。
その日のジェンマは、簡単にヒゲを剃って、簡単に身体を清めて、簡単に髪を後ろでまとめた。
先ほど泣きそうな顔で飛び込んできた諜報員の書類を持ち、刑部省長官室へ急いだ。
が。
他国を調べたいという諜報員の希望を再びもってきたジェンマの意見を、シンジュはあっさり却下した。
年下のくせに生意気な、と思わないでもないが、シンジュの言葉は正しい。
さすが、現王の異母弟だ。
シンジュに、他国への干渉不可だと言われて、ジェンマは大人しく引き下がった。
空回りしそうな怒りを、シンジュに冷まして欲しかったのかもしれない。
その週の休日、ジェンマは久しぶりに王立図書館へ向かった。
王城の敷地内にある図書館は貸出こそ出来ないが、充実した資料が存分に保管されており、仕事をするのが億劫になってきたときに、気晴らしに向かうのだ。
滅多に仕事が億劫になることはないが、たまに、虚しくなることがある。
仕事をして貯蓄を貯めることが生きがいだが、いずれ歳をとれば、現役で仕事をしていられなくなるだろう。
そうなれば、貯蓄を崩して生活せねばならない。
減っていく貯蓄を想像して、ため息をついた。
久しぶりにやってきた図書館の空気に、心が安らぐのを感じる。
無駄に広い王城の敷地内にある図書館前には、利用する貴族らが使用している馬車を泊める場所が定めてあるが、ジェンマは当然徒歩だ。
平民あがりの文官である自分にとって、馬車などただの贅沢品にしか思えない。
すでに王城図書館へ登録しているジェンマは、自分の指定席――窓側のカウンターへ向かう。
場所を確保して、適当な本を選ぶために図書館内をぶらぶらした。
最初に読む本を手に取ったとき、四人掛けの勉強机になっている奥まった机に、見知った顔を見つけて、眉をひそめた。
(あれは、シンジュか?)
そういえばさっき、図書館前に豪奢な馬車が停まっていたことを思い出す。
王城内にある図書館には貴重な資料もあり、登録しなければ利用ができないため、利用者は貴族が中心となる。
ジェンマは、文官としての地位と王族の推薦を経て、登録申請を通せたが、平民が立ち入れる場所ではないのだ。
(貴族らは、本になんか興味ねぇから、勿体ねぇ使い方してんなぁって思ってたけど)
資料の保管という目的のために建てられた図書館なので、利用者がなくても問題はないのだけれど。
それよりも、シンジュも読書を好むのか。
ジェンマは初めて知った事実に、驚きを隠せない。
シンジュのことは、モーレスロウ王国へ来た頃から知っているが、勉強熱心な面はあっても、娯楽で本を読む姿など見たことがなかったのだ。
(どんな本を読むんだ、あいつ)
何気なく足を向けかけたところで、シンジュの向かい側に、女性が座っていることに気づく。
シンジュの姿に隠れて見えなかったが、少し位置をずらして見つめると、小柄な女性が一心不乱に読書に勤しんでいる姿があった。
ばさり。
手に持っていた、本を落とす。
体中に電撃が走った。
身体が石化したように動かない。
視界がぼやけていくのに、中心にいる女性はくっきりはっきりとみえた。
ぐっ、と胸を押さえた。
はぁ、と息をつめて、本棚に手をつく。
まるで、自分を遠巻きに見つめてきていた令嬢のようなポーズをしていると気づいて、愕然とした。
一体、自分に何が起きているのだろう。
(……落ち着け、俺。いい歳して、何動揺してんだよ。これはあれだ、歳だから、ちょっと立ち眩みしただけで……働き過ぎてんのかも)
目を伏せたあと、大きく深呼吸をして心を整える。
そして、もう一度顔をあげた。
「……天使?」
ぽつりとこぼれた自分の言葉は、酷くうっとりとしていた。
やはり胸が苦しくて、じぃっと見ていると視界がぼやけて、女性の姿しか見えなくなる。
シンジュと向かい合って座る女性は、とても知的な表情で、ページを視線で追っていた。漆黒の髪がとても柔らかそうで、触れてみたい衝動にかられる。
「……ナル、そろそろ切り上げよう」
「あと少しで終わりますので」
「わかった」
シンジュと交わされた短い会話で、あの女性が、例のシルヴェナド家の令嬢であることを知る。
途端に、ジェンマは苦虫を噛んだような顔をした。
ジェンマは一般民なので、貴族の夜会には呼ばれない。
呼ばれたとしても、若い頃の経験から、やんわりと仕事を理由にして出席しないことにしている。
当然ながら、先日ひらかれたという、シンジュが大公であるお披露目という名目の、王族主催の夜会には招かれていない。
呼ばれていなくてよかった、と思えるほどの惨事があったことは、立場上把握している。
すぐに警備に携わる者たち――衛兵や警備隊、騎士団、などが駆けつけたため、被害は最小限で済んだが、それでも複数人の貴族に死傷者が出たのだ。
間違いなく、モーレスロウ王国で起きた悲惨な事件として、今後語り継がれていくことになるだろう。
というのが、さっきまでのジェンマの認識だった。
でも、今はどうでもよくなっていた。
貴族の命など知ったことか。
シンジュが現在懸念していると言っていた、「愛妻の危機」のほうが大事だと、認識を改めたのだ。
あの夜会でシンジュと同時に紹介された妻のナルファレアは、現在、貴族らからの心証があまりよくない。
シンジュを騙している悪女だとか、不正取引を行った主犯が実はナルだとか、そういったシンジュを巻き込む陰口で止まっている分にはよかったのだ。
だが、夜会のとき。
なんと、あの第二王子が、ナルの騎士になることを公言し、王族から離籍すると決めたのだ。
それまで、ただ美しいだけの王子だと言われていた第二王子がナルのために剣を振るい、自らの力量を見せつけたことで、周囲のリーロンを見る目が変わった。
ぶっちゃけた話、剣の名手である美貌の王子が、あんな罪人の騎士になるなんて、と女性貴族らから猛反発にあっているというのだ。
とどめに、何故かモーレスロウ王国の女神と言われているらしいフェイロン・レイヴェンナーまでもがナルの後ろ盾になったことで、尚の事、ナルに対する女性らの目が厳しくなった。
第二王子に関しては、いやいやお前らこれまで見向きもしなかったじゃん? と冷やかに思うが、女性人気の高い美貌の男たちを味方につけたナルへ反発が起こるのは、当然かもしれない。
ただでさえ、シルヴェナド家の令嬢というだけで悪意にさらされるのに、大変なやつを嫁にしたなぁとシンジュに同情していたけれど。
ジェンマは、小さく首をふって自分の考えが間違っていることを知った。
あのように、美しい妻をもてたシンジュは幸せものだ。
優しそうだし、綺麗だし、可愛いし、まるで天使、いや、女神のようだ。そう、フェイロンなんかよりも、ずっと女神。超女神だ。
これまで、こんなに心揺さぶられることなどなかった。
貯蓄の金額が増えていくこと以外に、見たいと思うものがあるなんて。
ナルたちがゆっくりと立ち上がり、図書館を出て馬車に乗り込んだところで。
はっ、とジェンマは我に返った。
「……え。なにこれ。俺独身なのに、孫を持ったじいちゃんの気持ちがわかる」
ナルを見た瞬間に走った電撃。
可愛い可愛い可愛いと頭のなかを占める感情。
(俺、生きててよかった……俺、生きててよかった!)
うおー! と両手をあげて叫んだ、その数分後。
ジェンマは、ひと月の王立図書館出入り禁止を言い渡されて、ぽいっと外へ放り出された。
*
シンジュへすべてを話した翌日。
ナルは、ジーンとともに馬車に揺られ、王城へ向かっていた。
今日、ジーンは昨日に引き続き休みをとっている。
屋敷のほうでは、昨日、改めてシンジュと話し合ったフェイロンの指揮で、ピッタを捕えるためにレイヴェンナー家が動くという。
あと少ししたら、屋敷内が慌ただしくなるだろう。
ナルは、危険に巻き込まれないようにするためと、療養の件について話があるというシンジュの命令で、ジーンとふたり、馬車で王城へ向かっている最中だ。
屋敷に置いてきた使用人たちは、大丈夫だろうか。
フェイロンに、くれぐれも気を付けてほしい、と言ってきたので、大丈夫だと思うけれど。
「心配ですか?」
「当たり前じゃない」
「大丈夫ですよ、長官はあなたに甘いですから。怯えることなんてありませんって」
どうやら、シンジュに呼び出された件で不安になっていると思われたようだ。
そう言われると、そっちも心配になってくる。
「ジーンさんは、どうして呼ばれたと思う?」
「おそらく、あなたにつける女性の世話係についてでしょうねぇ」
「心当たりがあるの? っていうか、刑部省に女性もいたんだ」
ジーンは、少し考える素振りをみせたあと、ため息をついた。
「いませんよ、刑部省どころか王城の文官にも武官にも」
「え」
「長官の姪御さんが男装して刑部省に務めているので、彼女をあなたにつけるつもりだと思います」
「……男装の麗人ってこと⁉」
麗しい舞台が脳裏に浮かんだが、ジーンは緩く首をふって「麗人ではないですねぇ」といったので、想像は霧散した。
そもそも、女性は文官や武官になれないことを思い出して、ナルは色々と問いたかったが、諦めて飲み込んだ。
「ですが……彼女をあなたの味方に引き入れるのは、難しいと思いますよ」
「私を嫌ってるタイプの人? 父に虐げられたとか」
「どうでしょう、そちらに関してはよく知りませんけど。……正直な感想を言いますと、不安なんですよねぇ」
「何が?」
「あの人を、あなたの傍に置くことが、ですよ」
「ジーンさんが不安って言うなんて、どんな人なの?」
ジーンは思案顔で、顔をしかめた。
眉間の皴が、いつもより深い。シンジュ並みになっている。
「……基本的に、長官にはそれなりに従順な女性なので、まぁ、長官が命じれば、それなりにはあなたに従うかもしれませんけど」
(くっ、それなり、を強調されてる!)
つまり、仕える価値がある相手だと認められなければ、不安要素の残る相手ということだ。いくらシンジュの命令で同行しても、役割を担わないのならば、同行しても意味がない。
(……まぁ、最初から信頼を勝ち取るとか無理だもんね)
今後一緒に行動するという、シンジュの姪なる男装の女性とは、いったいどんな人物なのだろう。
ジーン曰く一筋縄ではいかないそうなので、面倒なことにならなければいいが。
王城につくと、ジーンに案内されて、昨日とは違う場所へ歩いていく。
よく似た廊下を歩きまくったので、ナルは、自分がどこにいるのかわからなくなる。
通されたのは、こぢんまりとした部屋だった。
小さな会議室といった雰囲気で、カタカナの「ろ」の字型に並んだ机がある。
「ここで待っていてください、声をかけてきますから」
「うん」
椅子に座って、足をぶらぶらさせていると。
すぐに、ジーンが戻ってきた。ジーンに続いてシンジュ、そして見覚えのある青年が入ってきた。
機動隊の衣類に身を包んだその人は、確か、機動隊副官のシロウだ。
まじまじと姿を見たことはなかったが、撫でつけた灰色の髪と片目につけたモノクルは、印象に残っている。
ナルは椅子から立ち上がると、シンジュは立ったまま話を始めた。
「呼びつけてすまない。ナル、コレとは何度か顔を合わせたことがあると思うが――」
シンジュは、ため息交じりに斜め後ろを振り返る。
モノクルに手をかける青年は、私を見てにっこりと笑みを浮かべた。
もし彼が本当に女性だというのならば、とてもそうは見えない。
男性にしては低めに見える身長だが、周囲の男たちが高いのでそう見えるだけだ。機敏な動きや瞬時に辺りを観察するために動く視線、それらは王城に務める、洗練された男性のものである。
シロウが浮かべる笑みは、心からの笑みでも社交辞令の笑みでもなく、値踏みするような視線を向けられた末に、面白い玩具を手に入れた子どものような、なんとも表現しがたい笑みだ。
「お久しく存じます、ナルファレア嬢。わたくしは、シロウと申します。以後お見知りおきを」
「お久しぶりです、シロウ様」
「シロウ、で結構ですよ。といっても、わたくしは今回の一件について、お受けするつもりがありませんから、覚えて頂かなくても結構ですけれど」
ということは、この人がやはり、シンジュの姪で男装の女性ということか。
ナルは少し考えて、ぽつぽつと口をひらく。
「それは、ついてきて貰えないってことですか?」
「ええ。わたくしは、栄えある機動隊精鋭の副官です。なぜ、本来の職務を放棄してまで、あなたのような者の護衛をしなければならないのか、理解に苦しみます。長官、わたくしは仕事に戻りますので」
くるっ、と踵を返したシロウの首根っこを、シンジュが掴む。
ぐえ、と苦しそうな声がした。
「お前は、柳花国の身内とも交流があるだろう、なんとかナルを風花国へ向かわせてやってくれ。使用人として身の回りの世話と護衛も頼む」
「……お断りします。対価が見合いません。それほどの仕事ならば、他に適任者がいるでしょう」
「柳花国の貴族に融通の利くお前が必要なのだ」
ふたりの話を聞きながら、ナルは首を傾げた。
「どれだけの対価があれば、一緒に行って頂けるんですか?」
私の問いに、シロウはきらりとモノクルを光らせた。
「そうですね、わたくしの美的センスに見合うだけの品でしょうか」
「美的センス、ですか」
「ですが、わたくしの望みをあなたのような、ちんちくりん娘が叶えられるとは思えません。貴族令嬢であるあなたは、大人しく長官の妻として、これ以上問題を起こさないよう静かにしているほうがいいと思いますよ」
随分と露骨でとげのある言い回しだ。
ナルは、ふむ、と考えた。
「具体的に、何がほしい、というものはありますか? お話からすると、おカネではありませんよね。わたくしの美的センス、という部分が非常に気になります」
ほう、とシロウが軽く目を見張った。
ナルの姿をもう一度くまなく見つめてから、頷く。
「すぐに、骨董商や絵師を呼びつけないだけ、常識がある方なのでしょうね」
あなたの言動こそ非常識ですよ? というジーンの言葉を、シロウはさらりと無視する。
「わたくしは、このように美しい品物を集めております」
そう言って、シロウが懐から出したのは、卵型をした、生き物を模した陶器だった。卵から足が生えていて、その足でバランスをとって机に自立している。
耳や尻尾の形からして、おそらく猫だろう。だが、顔の部分は人間だ。人面猫というには、人間の割合が多いように見える。だからといって、猫耳というには、えげつないリアルオジサンの顔をしている。
ちなみに、足部分は人間のものだった。
靴下をはいている分、シュールさが増している。
(美的センスは、それぞれだけど)
じぃっと見つめていると、シロウは何を思ったのか、陶器の猫についての美しさを語り始めた。
「こちらのつるっとした身体に、細かな細工が施された顔の部分。人であり人であらざる神秘の生き物であり、こちらとこちら部分の比率はまさに、品の美しさを最大限に生かしていると思われます。耳の部分をご覧ください。少し下側に、小さな切れ目がございましょう。こちらこそ、職人の細かな――」
延々と続きそうな話を、相槌で流し聞く。
話が一度止まった瞬間に、「では」と声をかけた。
「今、シロウが欲しいのはなんですか?」
「ああ、口調も丁寧でなくてよろしいですよ。わたくしのこれは、素なので。……欲しいものなど、決まっています。今わたくしがもっとも欲しいもの、それは、顔拓です」
(あれ、聞き間違えたかな)
「顔拓です」
シロウが繰り返した。
「ええっと、それって、ひと様の顔に墨をドバーッと塗って、紙に押しつけるってこと?」
「はい。ですが、誰でもいいというわけではございません。わたくしが、のどから手が出るほど欲しい、顔拓はただ一人。そう、ローズ・ジェンマ様の顔拓です!」
ぐっ、と拳を握り締めて、高らかに述べたシロウ。
その言葉に、シンジュがため息をつきながら額を押さえるのが見えた。
「無理だ。ジェンマ殿は、そのようなことは決してなさらない」
「だからこそ、喉から手が出るほど欲しいのです。何度もお願いしているのですが、断られ続けておりまして。あの美しい顔を顔拓として紙に移せば、きっととてつもなく神秘的な生き物が完成するでしょう。わたくしは、そう、確信しております」
ぐっ、とシロウは胸の前で拳を握る。
ふいに。
シロウが、にんまりと笑った。
「わたくしでも手に入れることが不可能で、長官もこのように無理とおっしゃっています。あなたに、手に入れることなどできません」
どうやら、ナルと行動を共にする対価として求める顔拓は、けっこう入手困難なものらしい。
ナルは、ぐぬぬ、と考える。
(うーん。ジェンマ様って確か刑部省副官の方よね。名前は聞いたことあるけど、初対面ではさすがに)
「シロウ、ほかのもので妥協しろ」
「姪として命じられているようですから、わたくしも叔父上にお断りいたします」
(むー)
腕を組んで、考える。
シンジュがこれだけ勧めてくるのだから、シロウは優秀に違いない。
今後を考えても、旅仲間に加えたいと思う。
だが、やる気のない者が加わるのは避けたい。
「そのジェンマ様とは、会えませんか?」
「ナル、無理だ。あの人は部屋から出てこない。出てきたとしても、刑部省内しか動かない」
「だ、ダメもとで、お声かけだけでも」
動かない、という意味がよくわからないが、とりあえずジーンに呼びに行ってもらう。
話によると、ジェンマは刑部省副長官執務室にこもって、休暇でも出てこないそうだ。
随分と頑固な人らしい。
それならば、顔だけでも拝見したあと、似た人物を探してみようか。
「そのジェンマ様って、どんな方なんですか?」
「変わり者だ」
「……簡潔ですね。見た目は、どんな方です?」
「たまに、髭をそって髪を結んでいるが、九割以上はボサボサになっている。不衛生ゆえ、強引に雇わせた使用人が彼の身の回りの世話をしている状態だ。放っておけば、服も着替えないし食事も取らない。仕事ばかりしている、仕事人間だ」
(まさか、シンジュ様以上の仕事人間がいるなんて)
聞いた感じ、フェイロンに近い印象を受けた。
そこへジーンが戻ってきた。
開口一番に、シンジュが「駄目だったか」と言ったが、ジーンは何とも言えない困った顔をした。
「いえ、こちらにいらっしゃるみたいですよ。ですが、準備をするから待っててくれって言われてしまったんですよねぇ」
「準備?」
遠回しに断られたんじゃ、と思った私に、シンジュの驚きに滲んだ声が飛び込んでくる。
「来るのか? ジェンマ殿が?」
「らしいですよ。なんの気まぐれでしょうね」
わけがわからないといったシンジュの表情から察するに、かなり珍しいことが起きているらしい。
シロウへ視線を向けると、彼女も驚いたように目を見張っている。
しばらくして、礼儀正しくドアが三度ノックされた。
「ローズ・ジェンマだ」
「本当にきましたね」というジーンの言葉に、シンジュがこぼれんばかりに目を見張っている。
誰も返事を返さないので、私が「どうぞ」と返事を返した。
(――っ)
息を呑む。
神々しいまでに、美しい人がいた。
歳はシンジュと同じか少し上といったところか。
美丈夫なんて言葉では言い表せない、それこそ神というにふさわしい容貌をしている。
長い髪はさらさらと絹のように光沢を放ち、優しく細めた瞳を縁取るまつげは、瞬きで風が起こりそうなほど長い。
シンジュと同じような詰襟服を、ピンと伸ばした姿勢で着こなし、堂々とした立ち振る舞いでこちらに歩いてくる。
シンジュが言っていた不衛生さは全くない。
髭は綺麗にそってあるし、髪も後ろで束ね、男性の彼にも似合う、白い花のついた髪飾りで止めてある。詰襟服も、ぴしっとノリの利いた皴一つないものだ。
(師匠並み……ううん、ある意味では、師匠以上かも)
こんな美しい人が、存在するなんて。
だらしなく、半開きの口で放心していたナルは、ジェンマが目の前に膝をついたことでやっと我に返った。
ふわり、と男性的な香りがした。
目の前の、年上男性の魅力を引き立たせる、高価でいて、決してきつくない香りだ。
「初めてお目にかかる。俺が、ローズ・ジェンマだ」
「初めまして、ナルファレア・レイヴェンナーと申します。シンジュ・レイヴェンナーの妻です。宜しくお願い致します」
(なんだか……素敵な人)
立ち振る舞いが、どことなくベティエールに似ている気がした。
シンジュが変わり者だというから、どんな変人かと思っていたが、とても素敵な年上男性だ。しかも、わざわざ膝をついて目線を合わせてくれている。
「それで、俺を呼んだ理由はなんだ。すまないが、仕事に戻らねばならない。用件は、早めに聞いておきたいのだ」
ジーンが「口調まで変わってますよ⁉」と声をあげている。なんのことだろう。
ナルは、ぐっと言葉につまったが、せっかく呼んできてもらったのだ。
ダメもとでお願いしてみよう。
(初対面で顔拓を頼むって……完全に私のほうが変人だよね)
しみじみと思いながら、口を開く。
「どうしても、ジェンマ様の顔拓が欲しいのですが……でも、その美しい顔を墨で汚すなんて、できませんね。うん、大丈夫です。私、ほかに代替を探します!」
ぐっ、とナルが拳を握った途端。
ジェンマが目元を押さえて、くっと上を向いた。
「なんつー健気さ。可愛いくて美しいだけでなく……健気さもすげぇ」
(え)
何か言っている。
次にナルを見たジェンマは、にっこりと笑みを浮かべていた。
考えが吹っ飛ぶくらい、胸を占める上質な笑みだ。上質と言う表現があっているように思うが、具体的に説明出来ない。
とにかく、笑顔が上質なのだ。
「わかった、協力しよう」
「えっ、いいんですか。顔に墨を塗るんですよ⁉ ばしっと紙に顔を押しつけるんですよ⁉」
「勿論、ただではない。俺の条件を飲んでもらう」
人が良すぎない⁉ と思ったが、どうやら条件付きらしい。
世の中ただほど怖いものはないという、当然だろう。
だが、これだけ美しい人の顔拓の対価など、ナルに用意できるだろうか。
「あのぅ、ちなみに条件というのは」
「簡潔にいうと、二つある。一つ目は、俺があなたを『ナル』と愛称で呼ぶことを許すこと。二つ目は、俺を『おじい様』と呼ぶこと。その条件を守るならば、構わない」
「……。…………わかりました」
(詳しくは、考えないでおこう)
シンジュは言っていた。
変わり者だと。
理由など、それだけで十分だ。
ジェンマは、ずいっと乗り出してきて、「さぁ、俺を『おじい様』と呼んでくれ」と言った。
意味が分からない。
詳しく考えないでおこうと思ったが、考えなくても、やはりなんかおかしい。
(でも、顔拓のためだし)
シンジュと同じくらいの歳の人を祖父呼ばわりするのは気が引けるが、本人が望むのだから仕方がない。
「お、おじい様」
「あぁ、生きててよかった‼ 俺独身でじいちゃんなれたぜ、可愛い孫だ。孫娘だ。ひゃっほーぅ」
唖然とする私の前で、やはり唖然とするシンジュとジーンに見守られ。
うきうき準備するシロウに言われるまま、ジェンマは顔拓をとった。
シロウは手加減なしに、テイッ、ヤッ、ハッ、と墨を、ジェンマの顔面に塗りたくっていく。
そして、慎重に顔拓をとった。
いくら美しい顔とはいえ、顔拓になれば、何かわからない物体になる……かと思ったが、なぜかそれなりに美しく紙に写っている。
とはいえ、さすがに不気味だ。
真っ黒な顔を布で拭きながら、ジェンマは私を振り返った。
まだらに染まった墨が、なんとも言えない奇怪さを醸している。
ナルは、ジェンマのきらきらした瞳が何かを求めているような気がして、慌てて口をひらいた。
「あ、ありがとうございます。……おじい様」
「ああ。いつでも困ったことがあれば、来るといい」
名残り惜しいが仕事に戻る、とジェンマは部屋を出て行った。
まだ顔のあちこちが黒いのだが、大丈夫だろうか。
「いやぁ、お見事でした! あのジェンマ殿を一言で呼びつけ、しかも孫認定されるなど前代未聞です。叔父上、いいえ、長官。わたくし、ナル様を我が主として護衛兼使用人兼道案内として、誠心誠意お仕えしたく存じます! 本当に感動感服致しました!」
「えっと……ありがとう?」
褒められる理由もわからなければ、ジェンマが顔拓を了承してくれた理由も、さらには条件として祖父呼びを指定されたことも、わからない。
まだ国内だというのに、何もかもがわからない。
もしかして、これが刑部省の常識であり、日常なのだろうか。
「それにしても、ナル様のお傍には麗しい者が大勢集まるのですね。元第二王子といい、レイヴェンナー侯爵といい、ジェンマ様といい。この城で、麗しい見目の男性三位まですべて独占しておりますよ」
シロウは、にっかりと笑って、崇拝に近いきらきらとした瞳でナルを見た。
決して美人ではない優男風のシロウは、今とった顔拓を乾かしながら、手元にある顔拓の素晴らしさについて、とうとうと語った。
話を聞きながら、ナルは「へぇ」と頷く。
「シロウって、ジェンマ様のことがよっぽど好きなのね」
「まさか。私は美しい品々を収集することが好きなのです。ジェンマ様を収集しても汚そうですし、不要ですね」
「……そ、そう」
よくわからないうちに。
ナルに、旅に同行してくれる女性騎士をゲットした。
そして。
なぜか、祖父(?)ができた。
……刑部省とは、摩訶不思議な場所である。
閲覧、評価、ブクマ、誤字脱字報告ありがとうございますm(__)m
ちまちま不定期更新です。
あと数話で、一章が終わります。
まったりとお付き合い頂けると、嬉しいです。




