3-13、デートの約束
他者に必要とされることで、生きる理由を得ていたベルガン公爵。
そんな彼は、少しだけナルと似ていた……ように、思う。
自分の生き方を考えさせられる、事件だった――。
あの事件から、一か月が経ち。
ナルは今、どうしようもない壁を前にしていた。
多忙でなかなか帰宅できずにいたシンジュが、一か月ぶりに帰宅したのだ。
そして、諸事情で屋敷に客人として滞在している師匠とともに、食事をとって。
今、ナルはシンジュと、ベッドにいた。
だが、隣で寝転ぶシンジュから、ナルは、一メートルほど離れた場所で横になっている。
(どうしよう)
シンジュが、おかしい。
髪型もやたらと手の込んだ結い方に変わっているし(長さは長いままだが)、何より、普段つけていなかった香水をつけている。
どんな心境の変化だろう。
イメチェンするのは自由だが、香水だけは、出来ればほかの香りにしてほしい。
今、ナルの目の前に立ちはだかる壁。
それは、シンジュが纏っている香水だった。
前世で酷い別れ方をした恋人がつけていたものと同じ、無駄にセレブ感が漂う、いけ好かない男の匂いだ。
ナルは、頭を抱えた。
この匂いに包まれるのだけは、断固としてごめんだ。
どう、切り出したものか。
シンジュは、ひと月ぶりに帰宅した。
刑部省の仕事が中心だが、少しでも余裕ができると、大公としての勤務が加わる。
バロックスが寄越す仕事なので判断に悩むような事柄ばかりだが、そこはシンジュだ。
さくさくと片付けることができる。
先月の一件の後始末は、とにかく激務だった。
ベルガン領の波乱を押さえ、関係者の逮捕を行って。
一方で、大広間で起きた惨事について、再発防止のために経路の確認や警備の見直し、さらには暗殺者たちが雇われた経緯を追跡して。
ベルガン公爵の死因は、自殺とした。
自ら死へ飛び込んだのだから、間違いではない。
たとえ他殺であっても、自殺として処理しただろう。
シンジュは公平さを持って刑部省長官の地位にいるが、何もかも真実を公表すればよいというものではない。
民が混乱するような内容を必要以上に公表することは、愚か者の極みである。
ベルガン公爵が罪人であることが貴族らの周知となり、加担した者たちの逮捕も進んだ。
それらの一件は、シルヴェナド家滅亡よりも大きな事件として、モーレスロウ王国を揺るがせた。
当然だろう。
シルヴェナド家はあくまで秘密裏に権力を持つ裏世界のボスだったのに対し、ベルガン公爵は民衆にも人気のある大貴族だったのだから。
新たなベルガン公爵は、持ち前の統治力を発揮して一族をまとめにかかっている。
宙ぶらりんになりつつあった元ベルガン公爵が着手していた慈善事業に関しては、新ベルガン公爵の娘が後任についた。
あれからひと月――まだ、ひと月だ。
シンジュの仕事は一旦落ち着いたが、第二波が間もなくやってくる。
またすぐに、仕事へ忙殺されることだろう。
久しぶりの、帰宅だった。
諸々の手続きのために、フェイロンが客人として、屋敷に滞在している。
ナルは事件以降、やや落ち込む傾向があり、足しげくベティエールのいる厨房で、おやつタイムをしている、とジザリから報告を受けていた。
以上の二点から、シンジュは気合を入れて帰宅した。
仕事は仕事、家庭は家庭。
仕事に忙殺されて、妻を放置するなどありえない、と。
以前、ジーンとロイクに釘を刺されたばかりだ。
仕事の合間に手紙も送っていたし、返事も貰った。
今回の帰宅に際しては、やや若すぎるかと思いつつも、髪型を洒落たものにしてみて、普段つけない香水もつけてみた。
香水に関しては、加齢臭防止の意味が強いのだが。
だが、なんということだろう。
夕食を終え、風呂も済ませて寝室にきた今。
同じベッドにいながら、ナルはシンジュから遥か離れた場所にいる。
「……シンジュ様」
「なんだ」
「今日は、湯舟に浸かっておられないのですね」
「ん? 浸かったぞ」
シンジュは首を傾げる。
モーレスロウ王国は、身体を清めるために入浴するという文化そのものがない。身体を清めるのは、濡れたタオルで拭くだけというのが通常だ。
だが、この屋敷は、フェイロンが所有していた時代に大改装しており、風呂が簡単に沸かせるようにしてある。
故郷での習慣もあって、シンジュは可能な限り風呂に入るようにしていた。
ナルは、これ以上ないほどに顔を顰めた。
なぜだろう、とシンジュは胸中で首をひねる。
(これは……話し合う必要があるな)
過去の経験から、このまま手探りの会話を続けるのは危険だと判断する。
腹を割って話し合う必要があるだろう。
「ナル」
呼ぶと、ナルは大きく肩を震わせた。
「な、なんですか。改まって」
「何を怯えている?」
「別に、怯えていません」
「……抱きしめていいか?」
「いいですが今は嫌です」
嫌です。
嫌です。
嫌です……。
脳裏に響くナルの声が、矢のように心をえぐる。
やはり、ベッドの端まで下がっているのは拒絶だったのだ。
「……一か月、帰宅できなかった間に、随分と、ベティエールやフェイと仲良くしていたそうだが」
みっともないと思いながらも、露骨に不満を口にしてしまう。やはりシンジュは、ナルと二人でいるときは、随分と甘えてしまうらしい。
予想通り、ナルはへにょりと眉をさげた。
「はい、まぁ。……私も少々落ち込んでいましたので、周りが気を使ってくれたんです。特にベティの気遣いは上手で――」
「待て」
「はい?」
「ベティ?」
「はい、ベティの気遣いはさり気なくて、厨房の雰囲気自体を安心できるように整えてくれています。なので、厨房へ行くと、ほっとするんです。ベティの言葉の一つ一つがとても優しく、包んでくれて……でも、いけない部分は、そっと諭してくれるんです」
(あ、愛称呼びに、なっている、だと⁉)
「師匠も気遣ってくれますが、むしろ、世話を焼いていたというほうが正しいです。爵位を継いだ関係の手続きや仕事でフラストレーションが溜まっているみたいで、無理やり外へ連れ出したり、着替えようとしない師匠を風呂へ突っ込んだり。おかげで、その間は何も考えずに済むので、助かりました」
(せ、世話焼き女房だと! 私もされたことがないというのに!)
「皆に気を遣わせてしまって、申し訳なく思っています。……あ、そうだ。旦那様が仕事でお忙しいと伺っていたので、アレクとリンと三人で、旦那様に贈り物を作ったんです。ちょっとした物なのですが……あの二人、結構仲良くやってるんですよ? アレクは、リンの天然なところが、放っておけないみたいで」
(三人で、贈り物を……三人で、共同作業……を)
楽しそうに語るナルの話は、当然ながら、どれもシンジュが知らないことばかりだ。
不在だったのだから当たり前なのだが、面白くない。
「……そんなふうに、過ごしていました。旦那様のことも、教えていただけませんか?」
「私のこと?」
「はい。お仕事だとはわかっているんですが、私が知らない旦那様をお仕事仲間だけが知っているのは、ちょっと、妬いてしまいます」
すねたような表情をしてみせるナルに、ふわっと心が軽くなる。
今まで感じていた苛立ちが一瞬にして霧散するのは、さすがに現金すぎると思うが、事実なのだから仕方がない。
シンジュは、ぽつぽつと職場であったことを話した。
連日の仕事で、いつにも増してむさくるしい職場になっていること。
ウィラーノ総務部長の奥方が差し入れを持ってきたときに、ナルに会わせてほしいと懇願していったこと。
ジーンが、女に貰ったらしい貝合わせの飾りを机に飾り始めたこと。
特に面白い話ではないが、ナルはどの話にも相槌を打って、朗らかに笑い、話しやすいように続きを促してくれる。
あまり話すことが得意ではないシンジュも、ナルに対しては、些細な話も出来てしまうのは、ナルが聞き上手だからだろう。
「……色々なことがあったのですね。お仕事、お疲れでしょう。私が、旦那様を癒して差し上げたい……の、ですが」
シンジュは、はっと表情を強張らせた。
そうだ、ナルがシンジュを避けていることが、今一番の問題なのだ。
「だ、駄目か」
「駄目、ではなく。……なんだか、シンジュ様ではない方の、匂いがします。知り合いの殿方が使われていた香水と同じようなのですが、シンジュ様は、その香りがお好きなのですか?」
「香水か! ああ、いや、これは……」
(私も歳だから、加齢臭を消そうと思ってつけた、とは言いにくい)
「好みというわけではない。気分転換、のようなもの、だ」
途端に、ナルがぱっと微笑んだ。
「では、匂いを落として頂いても大丈夫ですね!」
「む?」
「だって、大好きなシンジュ様の匂いが消されているのは、とても悲しいですし。……シンジュ様といるのに、他の殿方の姿がちらつくのです」
シンジュは固まった。
ほかの男の姿がちらつくというのは、一大事だ。
匂いと共に過去の場面を覚えることがあるというし、ナルにとっては今シンジュがつけている香水の匂いイコールその男だとしても、おかしくはない。
それよりも、最初に、ナルは何と言った?
大好きなシンジュ様の匂いが消されているのは、とても悲しい――そう言ったのか。
「ナ、ナルは、私の匂いが嫌い、ではないのか」
「あまり好まないので今すぐ風呂へ行って頂ければ嬉しいです」
「い、いや、香水ではなく……香水は、すぐに落としてこよう。そうしたら、抱きしめてもいいか?」
ちら、と様子を窺うと。
ナルは目に見えて頬を赤く染めた。
はい、と恥じらいながら頷く妻を見て、シンジュは落ち着き払った様子を見せつつも。
物凄い勢いで、二度目の風呂へ向かった。
すんすん、とナルがシンジュの胸に鼻をくっつけて、匂いを嗅ぐ。
かなり恥ずかしいうえに、少しだけ興奮する。
何より、近づくことでナルの匂いも漂ってくるのだ。
身体が甘い熱を持ち始め、たまらずに両手でナルを抱きしめる。
「どうだ、匂いは取れたか」
「はい。……シンジュ様の匂いです。大好きです」
「そうか」
「あの、以前はごめんなさい。今日のことで、以前、どれだけシンジュ様に嫌なことをしたのか、思い知りました」
「以前?」
「……師匠の香油を、使ったときのことです」
シンジュは、苦笑を浮かべて「大丈夫だ」とナルを抱きしめる。
が、内心は、絶叫モノだ。
あの日は、確かに辛かった。
ナルに悪気がないとわかっていたし、お互いに誤解をしていたのだから仕方がないことはわかっている。
だがやはり、愛しい人がほかの男の匂いを纏っていることは、喜ばしくなかった。
それどころか、絶望的且つ嫉妬に満ちた、荒廃した気持ちで一夜を過ごしたのだ。もう少しで、あのように残酷な一夜を、ナルに与えてしまうところだったとは。
心から反省した。
白い項に、唇を落とす。
柔らかい身体をまさぐり、ずっと触れたかった場所へ触れていく。ナルの匂いをいっぱいに吸い込むと、さらに興奮した。
「ナル」
繰り返し、名前を呼ぶ。
ナルも返事をしてくれるが、頬を上気させて呼吸を荒らげるころには、返事も少なくなる。
言葉ではないところで答えてくれることがわかっているので、シンジュは、名前を呼び続けた。
やがて。
激しくうねる熱に飲み込まれ、ただただ、ナルを求めた。
水差しの水をコップについで、ナルに渡す。
布団で身体を隠すように半身を起こしたナルは、礼を言ってコップを受け取った。
一気に水を煽り、大きく息を吐く。
コップを手から取り上げると、ナルは慌てたように、再びお礼を言った。
シンジュも水分を補給してからベッドに戻り、ナルの肢体を抱きしめる。
閨事を共にした相手のしっとりと汗ばんだ身体が心地よく感じるなど、以前の自分ならば想像もしなかっただろう。
「明日、国立図書館へ行かないか」
うとうとしているナルに、そっと囁く。
ナルが嬉しそうに微笑んだ。
「旦那様、お疲れではないんですか」
「癒してもらったから、問題ない。ナルさえ良ければ、どうだろう?」
「ぜひ、ご一緒したいです。嬉しいです、デートですね」
心から嬉しそうに微笑むナルに、愛しさがこみあげてくる。
強く抱きしめるとまた欲望がもたげてきたが、ナルの寝息が聞こえてきたため、抱きしめる心地を堪能するだけに留めた。
やがてシンジュも、静かな眠りに誘われていく。
明日は二人で出かけよう。
朝から出かけて、外食するのもいい。
帰りは図書館で見た本について、語り合おう。
流行りの菓子屋へ寄ってから帰ろうか。
*
シンジュは、カラスの世話をしているナル越しに、窓の外を見ていた。
ナルは一足早く、部屋着として使っているドレスに着替えている。
早朝、恐らく六時前後。
差し込むはずの朝日はなく、代わりにザーッと屋根や窓を打ち付ける雨音が響いている。時折、窓の外が光っては、空気を揺らすほどの轟音が響く。
天候、雷雨。
視界さえ侭ならない外の様子に、シンジュは、そっと布団にもぐりこんだ。
「……ナル」
「あ、おはようございます。旦那様」
「……すさまじい雨だな」
「はい。この様子だと、お休み明けのお仕事、大変そうですね。この雨の中、官憲の方々も働いておられるでしょうし」
ナルにはそうやって、他者を思いやれる優しさがある。
だがあいにく、今のシンジュにそんな余裕はない。
(……デート、行きたかった)
「あ、旦那様! 今日の予定なのですが」
ぱっと振り返ったナルは、ベッドに上ってくると、シンジュに笑みを向けた。
「先ほどお手洗いへ行ったとき、師匠から聞いたのですが。今日は、この季節に珍しい雷雨ということで、特別のイベントをやるそうです」
「……イベント?」
激しく嫌な予感がした。
「はい! ということで、朝食後、第二大広間へ集合だそうです」
「待て、なんのイベントだ」
「この屋敷にまつわる、不思議なお話をしてくださるそうですよ」
ただの百物語ではないのか。
そう思ったが、嬉しそうなナルを見ていると、何も言えない。
むぅ、と顔をしかめるシンジュに気づいたナルが、そっとシンジュの頭を撫でた。
「……子ども扱いするな」
「してませんよ。大切な旦那様ですから。あいにくの天気ですが、また、今度出かけましょう。私はどこにいても、旦那様と一緒なら、幸せです」
なぜ、ナルはいつも嬉しい言葉をくれるのだろう。
シンジュはナルの腕を引いて、布団に引き入れた。
「シンジュ様⁉ 朝ですよっ」
「まだ暗い」
「それは、天気が……」
「嫌か?」
後ろから、耳朶を甘噛みする。
「ずるいです」と言いながらも、シンジュに腕を絡めてくるナルに、低く笑う。
「私も、お前となら……どこにいても、幸せだ」
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