3-12、王家主催の夜会 【真実】
庭に続く、大きく開いたドアを降りた。
白い息を吐きながら、冬の冷気に無意識に身をすくめる。
大広間から繋がる庭へは、警備兵が配置されることがない。
そのため、幸か不幸か、ナルの記憶にある美しいままの庭が広がっていた。
この庭へ入るための出入り口や、さらにそこへ到達するまでの道は、暗殺された警備兵たちの血で真っ赤に染まっていることだろう。
バロックスも、刑部省も、賊の侵入を想定していなかったわけではない。
それでも、想定外の事件が起きてしまった。
これだけの数の暗殺者や傭兵が、極秘に雇われる。
そんな不可能を可能にするほどの人脈と覚悟が、ベルガン公爵にあったのだ。
だが、ナルからすれば、それがどうした、だ。
肥え太った貴族とはいえ、無関係な人間に違いない。
そんな彼らを、己の破滅に巻き込むなんて。
ナルは、闇に紛れて遠くなるベルガン公爵の背に向かって、叫んだ。
「また逃げるの⁉」
闇の中、ベルガン公爵がゆっくりと振り返った。
「なんだと?」
「父から逃げたみたいに、逃げるんでしょう!」
ベルガン公爵は、幼いナルを罵倒したあの日以来、屋敷へは、こなくなった。
「逃げたわけではない。お前の父親の力など借りなくとも、私だけでやっていけると判断したんだ」
そう言うと、ベルガン公爵は鼻で笑った。
「お前が、あの男を――お前の父親を、売ったんだろう? そうやって刑部省に媚び、自分だけは助かろうとした。浅ましい女だ」
「……それを、皆の前で私に言わせたかったの。だから、あんなふうに私を焚きつけた」
今度は、ナルが笑う。
「でも、それは誤解。私が父を売ったのは、それが私の正義だったから」
「くだらない。正義? そんな概念自体、存在しないのだ。いつの世も、力ある者が理を決める。お前がやったことは全部、自己満足に過ぎない」
ナルは、笑みを深めた。
自嘲でも嘲笑でもない、ゆったりとした、朗らかな笑みだ。
ベルガン公爵の顔が、訝しく歪む。
「私の正義、って言ったじゃない。……私はね、正しいことをしたの」
「悪を裁く、正義のヒーロー気取りか」
「まさか。ねぇ、ベルガン公爵。正しさ、って何かわかる?」
ベルガン公爵は、微笑むナルを警戒してか、一歩、後ろに下がった。
その分、ナルは距離を詰める。
「正義も、正しさも、一己が決めることだと思うの。だから私は、私の正しさに従った。でもそれは、あくまで私の正義であって、他人から見ると、ただのエゴでしかない」
さらに、ナルはベルガン公爵へ歩みを寄せた。
ベルガン公爵はもう後退はせず、ただ、ナルを見つめている。
「私がシルヴェナド家を滅ぼしたかった理由は、単純明快。ただ、自分を守りたかったの」
この一言で。
ベルガン公爵には、ナルの言いたいことが伝わるという確信があった。
眉をひそめたベルガン公爵が、ふと、目を見張っていく。
その姿に、苦笑した。
ヴォルグ・ベルガンは生まれながらにして、虚栄心の塊だったのだろうか。
『人より優位にたつために、優れた人間だと思わせるために、悪事で得たカネを慈善事業に費やした』――そう、バロックスたちは考える。
事実その通りだろう。
ではなぜ、優れた人間に見られたいのか。
なぜ、危険を犯してまで虚栄心を満たしたいのか。
その理由はやはり、単純明快なのだ。
「あなたも、私と同じ。自分を守るために、生きていくために、罪を犯すしかなかった」
生まれながらの受け入れがたい現実。
見えない圧力に頭を下げ続ける辛さ。
己が他者より優位な環境に生まれたという事実。
あらゆる事柄が複雑に絡み合い、自分には不釣り合いな居場所だと自覚しながらも、そこで生きなければならない日々は。
いっそ、狂ってしまえば楽になれるのに、と思えるほどに、残酷だ。
「知ったふうな口を聞くな、小娘が」
怒りを抑え込んだような、怒鳴り声に。
ふ、とナルは笑った。
「やっと、私をみた。私は、ナルファレアっていう、ただの小娘なの。あなたが生涯、ヴォルグっていう人間に変わりないように」
恥ずかしそうに微笑む幼子の姿が、脳裏を過る。
『おじさん、あそぼ』
そう言って、足にしがみついてきた幼子がいた。
軽く足をふれば、こてん、と幼子が転んだ。
『おじさん、ではない。ベルガン公爵だ』
そう言うと、幼子はたどたどしい言葉遣いで。
『なに、べるがんさん?』
と、聞いてきた。
当時、二、三歳の幼子にしては、大人びた発言だと感じたのを覚えている。
(あのとき、私は、名乗っただろうか)
わからない。
だが、幼子に対して邪険に振り払った後ろめたさに、つい、頭を撫でたのを覚えている。
街を馬車で通り過ぎるとき、そうやって、幼子を慰める母子を見かけたことがあったからだった。
柔らかい髪に、小さな頭。
大人の自分よりも、伝わってくる熱の高さ。
撫でただけで、ほんの小さな命だということが、嫌でもわかった。
驚いたように目を真ん丸にした幼子を見て、咄嗟に手を退けた。
(……そうだ。あれからあの小娘は、会うたびに、足にしがみついてきた)
頭を撫でてやると、すぐに足から離れるので、毎回頭を撫でてやった。
ヴォルグを見ると駆け寄ってくる小娘を、鬱陶しく思うときもあったが、ヴォルグ個人を見つけてやってくる姿は、愛らしくもあった。
(あれはまだ、シルヴェナド家に出入りしていた頃か)
慈善事業に本格的に取り組み始めると、あの小娘のように自分を慕う子どもも増えた。
子どもだけではない。
大人も、王族さえも、ヴォルグを必要とした。
利己的な虚栄心は、一時だけ、満たされた。
同時に、喉が渇くような不快感が、幽鬼のように身体に纏わり続けた。
気分は優れず、腹の底に砂が詰まっているような心地がした。
ヴォルグは、深く、深く、息を吐いた。
夜闇のなか、大広間からは怒声や悲鳴が聞こえてくる。
冷たい風が頬を撫でた。
ナルファレアは、真っ直ぐにヴォルグを見つめてくる。
愚かなほどに、真摯な目をして。
「足に纏わりつくしか能のなかった小娘が、シルヴェナド家を崩壊させるとは」
そう呟くと、ナルファレアは大きく目を見張った。
初めて、頭を撫でてやったときのように。
ヴォルグは、くっ、と笑う。
先程、ナルファレアは『逃げるの?』と言った。
どうやらナルファレアにとって、ひと目につかない場所で自害することは、逃げることになるらしい。
刑部省に身を委ね、法による公正な『処刑』を受ければ、満足するのだろうか。
ヴォルグは笑って、ナルファレアとの距離を詰めた。
あくまで、堂々と。
余裕を持った、足取りで。
「私は、公爵だ。約束を反故にはしない。……お前の望みを一つ、叶えてやる。決闘の勝者が持つ、権利だ」
ナルファレアが、息を呑む。
(さぁ、なんと返す?)
余罪についての追及か。
それとも、ヴォルグの知る取引先の情報を欲するか。
いや、この娘は甘い。
ただ単純に、素直に捕縛されることを望むかもしれない。
(これはただの、遊びだ)
死ぬ前にもう一度、やはりシルヴェナド家の人間は腐っている、と嘲笑ってやろう。
ナルファレアは、やや黙したのち。
震える声で、囁いた。
「あの頃みたいに……もう一度、頭を撫でて」
息を詰める。
ただ、真っ直ぐにナルファレアを見つめた。
右手を、握り締める。
迷いながらも、少しずつ、手を伸ばす――。
「シルヴェナド!!」
大広間から、衣類を鮮血に染めた青年が叫んだ。
左手を血が溢れる腹に当て、右手は血に汚れた剣を掴んでいる。
顔に見覚えがあった。
最近、伯爵位についた青年だ。
咄嗟だった。
ほとんど無意識に、身体が動いた。
窮地に陥ったときにこそ、人の本性がでるという。
もしそれが、本当ならば。
(最後だけは、誇らしく死ねそうだ)
何が起きたのか、わからなかった。
ベルガン公爵に、突き飛ばされて……それで。
ナルの目の前には、剣で貫かれたベルガン公爵が倒れている。
剣の柄を握るのは、見覚えのない青年だ。
血が滴る腹部を左手で押さえる青年は、反対の手で剣を引き抜く。
青年のぎらついた目が、ナルに向いた。
(……これ、死ぬやつだ)
座り込んだまま、ナルは振り下ろされる剣をただ眺める。
逃げないと。
頭のどこかではそう思うのに、身体が動かない。
ゴッ。
生々しい、肉を骨ごと砕く音がして。
青年の首がぐにゃりと曲がり、ベルガン公爵に重なるかたちで、倒れ込んだ。
唖然と、倒れ込んだ青年を見つめていたナルは。
視線をゆっくりと、青年の背後にいた男へ――シンジュへと、向ける。
シンジュは、短刀を握っていた。
無機質な目で死にゆく二人の男を見据えていたシンジュは、視線をそのままに、ナルへ告げる。
「これが、情報を売るということだ」
「――っ」
息を詰めた。
呼吸が止まってしまうかと思うくらい、心臓が早鐘をうつ。
ナルはバロックスに、ベルガン公爵の情報を売った。
シンジュは、そのことに気づいていたのか。
(これは全部、私が、招いたこと)
敵だと思っていたベルガン公爵が、夜会で追い詰められる姿を見て、後悔している自分がいた。
情報を売らなければ、ベルガン公爵は破滅しなかったのに、と。
僅かでもそう思ってしまった自分が、悔しくて惨めだ。
「お前は、甘い」
「――っ!」
身体が、大きく跳ねた。
考えを全て、見透かされたような気がした。
ふと、シンジュの披露目用の衣装が、血で汚れていることに気づいて。
咄嗟に立ち上がり、シンジュの身体を衣装の上から確認する。
返り血のようで、ほっとした。
ハンカチで、衣類の血を押さえた。
ぽんぽん、と軽く叩きながら、血がハンカチに移るように、染みを抜いていく。
こんな小さなハンカチ一枚では、無意味だとわかっているのに。
ふいに、涙が滲んできた。
ベルガン公爵は、悪だ。
悪なのに、ナルは一瞬でも、ベルガン公爵を助けたいと思ってしまった。
(私、ブレブレじゃないの……)
シンジュは、ナルに言った。
甘い、と。
事実、その通りだ。
ぎりっと、歯を食いしばった。
「私は……私は、愚かです」
バロックスから情報を求められたとき、こうなることは予想が出来ていた。
それでも情報を提供し、報酬を得ると決めたのは、ナルだ。
「必要であれば、これからも、情報を売ります。今回みたいに、自分の愚かさを悔やんで、沢山泣くかもしれません。それでも私は……これからも、同じことを繰り返します」
甘い、とシンジュは言った。
けれどナルは、その「甘さ」を、捨てようとは思えない。
甘さを無くしてしまったら。
おそらくナルは、父のような、心無い人間になってしまう。
「私はきっと、今のまま、変われません」
「構わない。その甘さを忘れるな」
「……え?」
シンジュの手が、ナルの腰に回る。
引き寄せられて、シンジュの胸に額をおしつけた。
「この青年の父親は、三か月前に断頭台の露に消えた。シルヴェナド伯爵へ賄賂を渡し、甘い汁を存分に吸っていたうえに、殺人にも加担しており、情状酌量の余地はなかった」
ナルは、足元に横たわる青年へ視線を向けようとして、止めた。
ぎゅ、とシンジュの服を握り締める。
「お前の正義は、この男から見れば悪だった。多方面から見れば、物事の捉え方は変わるものだ」
シンジュの言葉に、感情はない。
淡々と、抑揚のない声が続く。
「そして答えは必ずしも、善悪の二択ではない。今後、お前が残酷であらねばならなくなったとき、その役目は私が引き受けよう。お前は、甘さも、残酷さも、優しさも、愚かさも、決して忘れるな。……お前はお前で、有り続けろ」
(……甘さを捨てろ、って、言わないの?)
シンジュは今回のことで、ナルが及ぼした影響を、正しく把握させたかったのだ。
責めているわけでも。
変われと言われているわけでもない。
唇を噛む。
込み上げてくる嗚咽を、必死に堪えた。
「長官と奥方を確認致しました」
ふいに大広間へ続くドアから、声が聞こえた。
よく耳を傾ければ、大広間からはこれまでと違う、凛とした声がいくつも響いている。
どうやら、助けが来たらしい。
「えっ、どこどこ? どこですの~?」
「フィオナ様、危険ですのでお引き取りを」
「早く奥方を見たかったんだもの。あら、あらあら、お邪魔かしら?」
「でしょうね」
「んん? ねぇ、あそこに転がっている伯爵って、確か奥方を狙ってた貴族よね」
「はい。父親が処刑されて以後、長官の奥方を、しつこく、つけ狙っていた男です。なんでも、新婚旅行の際、何度も暗殺者を差し向けてきたそうですよ」
「まぁ、ではこの夜会でも奥方を狙ったのね。怖かったでしょうに……奥方、お可哀相」
「むしろ、長官のほうがあの男に目をつけていたと思いますよ。少し考えれば、今回の夜会に乗じて奥方を狙うことは予想がつきますから。きっと長官は、最初から、伯爵が動き次第返り討ちにする算段だったんですよ。我らが長官は、外道なのです」
「あら。お披露目よりも、ベルガン公爵捕縛よりも、奥方を守ることが第一なのね! 素敵!」
「今の長官は頭がお花畑ですので、奥方のことしか考えておりません。いえ、考えられないのです。こういうタイプは一気に冷めてすぐに浮気をしますよ。フィオナ様も、お気をつけを」
「ええっ、ウィラーノ様は違うわ。浮気なんて、なさらないもの」
「お歳を召されていても、所詮は男。わかりませんよ……と、アホな上司が呼んでるので戻ります。フィオナ様、くれぐれも、今すぐに、お戻りください」
「はぁい。うふふ、長官ったら、奥方大好きなのね~」
軍人らしいキビキビとした足音と、軽やかな足音が遠くなっていく。
「……」
「……」
「……あの、旦那様、今の方々は」
「ザースの副官シロウと、総務部長ウィラーノの愛妻フィオナ殿だ」
「そうですか。おかげで、涙が引っ込みました」
殺伐とした印象のあった刑部省だが、意外と愉快な一面もあるのかもしれない。
ナルはそっとシンジュから離れると、すでに事切れている二人の男の傍に、しゃがみこんだ。
かける言葉はない。
ベルガン公爵の、手を見た。
この手に撫でられるのが、好きだった。
どれだけこの手が血に染まっても、ナルにとっては温かく優しい手に他ならない。
――多方面から見れば、物事の捉え方は変わる
理解していたつもりだったシンジュのその言葉を、噛みしめた。
ベルガン公爵は今後、悪人として人々から蔑まれるだろう。
彼に救われた人々のなかには、彼を愛し続ける者もいるかもしれない。
ナルは、どちらだろうか。
どちらでもあって、どちらでもないように思う。
はっきりとしていることは、ベルガン公爵がナルをかばって死んだことだ。
あれほど憎んでいたシルヴェナド家の小娘を庇った彼の心境は、一体、どのようなものだったのか。
今となっては、わからない。
閲覧、ブクマ、感想、誤字脱字報告、評価、ありがとうございます。
とても嬉しく思っております。
今回で、ガッツリシリアスが終了(予定)です。
まだもう少し、その後のお話が続きます。
次も、明日18時前後に更新予定。
宜しくお願い致しますm(__)m




