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全てを奪われたけど、へこたれません。香りで夢を掴みます!  作者: 季山水晶
Ⅰ.試練の幕開け

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19.こんな事ってあるのかしら

 席を立ったフランクは「ついて来い」と言ってアイリーンの背中を突き飛ばした。ふらつくアイリーンは直ぐに体勢を立て直し、慌ててフランクについて行く。


 静まり返った廊下を黙って歩くフランクに彼女がついて行くと、騎馬の彫り物が施されているひと際立派な扉が目に入った。


 その扉をノックしたフランクは「失礼いたします」とゆっくり扉を開けた。


 開けた扉の隙間から、時代を感じさせるような複数の骨董品が覗かせる。


 一歩足を踏み入れると、まるで新雪の上を歩いているような感触の絨毯。天井には両手を伸ばしても全く足り無さそうな程の大きなシャンデリア。その眩しさにアイリーンは思わず目を覆いたくなる。


 壁には数々の絵画が飾られ、部屋の横にはワインセラーまでおいてある。


(なんて派手な部屋、誇示する気持ち満々ね)


 部屋は豪華だが、嗜好の違いにアイリーンの胸はざわつきを覚える。


 奥に目を向けると一本木で木目が鮮やかなテーブルの向こうで、全身が覆われそうなほどのクッションの付いた椅子にふんぞり返る小太りな初老の紳士が座っていた。


(あの人がこの屋敷の主人、スタンリー様ね)


 スタンリーは顔を顰めながら顎髭をさすり、アイリーンをじっと見つめる。


 腕には金の腕輪、タイピンにはダイヤモンドが怪しげな輝きをみせている。


「スタンリー様、このむすめが最近入ったメイドでございます」


 フランクはそう言うとアイリーンの肩をトンと突き、首をクイっと持ち上げた。


(ああ、挨拶をしろって言っているのね)


「は、初めましてスタンリー様。アイリーンと申します」


 少し口角を持ち上げたスタンリーは、舐めるような目つきでアイリーンの全身に目を配る。


「まだ幼いな。だが、たまにはこうゆう趣向も悪くはない。今晩連れてこい」


 何を言われているのかは一瞬で理解できた。アイリーンの全身から血の気が引くのを感じる。


 呆然と立ち竦むアイリーンに冷めた口調でフランクは「もういい、仕事に戻れ」と扉を指さした。


 トボトボと部屋を出て冷たい廊下に一人たたずむと、アイリーンは頭の中が真っ白になっていく。


(逃げなきゃ……でも)


 逃げるという選択肢がアイリーンの頭の中を占める。だが、彼女はすぐそれを否定した。この世界で生きて行く為の『市民証』も、大切な母の形見であるロケットペンダントも屋敷に取られたままだ。


 なによりも逃げると次の矛先はナンシーかも知れない。色々な思いがアイリーンの頭の中を渦巻いた。


 ──ナンシーやジグさん達と一緒に居て楽しかったな。学校に行くのも……もう無理だよね。


 アイリーンは今晩自我が壊れてしまう事を覚悟した。足取り重く自室に向かっていると、後ろから走りくるフランクに再び呼び止められた。


「おい、お前。もう一度スタンリー様の部屋に戻ってこい」


  ◇ ◇ ◇


 再びスタンリーの部屋へ戻ると、三十歳代くらいだろう紳士が、シルクハットを手に持ちながらスタンリーと話をしていた。


 その紳士はスタンリーとは違い、品のある濃紺のスーツを着て温かい目でアイリーンを見つめた。


「この方がアイリーンさんですね。初めまして、私はデビット・スミス様の執事であるフィリップと申します」


 フィリップはアイリーンにとても丁寧な挨拶を行った。スタンリーはそんな事を全く気にもせず、手に持つ小切手を眺めてニヤニヤ笑っている。


「百万で手に入れたモノが二百万か、グフフフ」


 スタンリーは品の悪い笑い声をだし、ハンカチで口もとのよだれを拭った。


 アイリーンにはこのデリカシーの欠片も無い発言の意味が直ぐに理解できた。


(あ、また、このパタンか……でも助かったかも)


 もう、落ち込む気にもなれない。だが、ふとアイリーンの脳裏に疑問が噴き出す。


(この屋敷には美人でスタイルの良いメイドは沢山居るのに、なぜ私?)


 アイリーンは契約現場を見つめながら首を傾げる。


 何のためにスミス氏がその破格な金額を出すのか、彼女には皆目検討がつかない。だだ、制度的に金銭トレードの様に見えるが、実質は人身売買だという事はわかっている。


 疑問は尽きないが、スミス氏がこれほどの大金を出したのだ。それは行った先でどんなことをされてもおかしくないという事。


(二百万ピネルか、一体何を要求されるんだろうか……)


 これから先の事を想像するだけで、再び背筋に寒気を感じる。それでも、この話が来なければ彼女は今夜スタンリーの元へ行かなければならなかった。


(今晩あの爺さん(スタンレー)の所に行くよりは……少しはましかな)


 スタンリーも変態だったし、仮に先の雇用主が変態であっても何ら変わらない。それならまだ確実に変態と決まっていない分、転機と言っていいかもしれない。


 ポジティブ思考に切り替えて負の感情を打ち消そうとした時、別の疑問が頭の中に浮かぶ。


(そもそもデビット・スミスさんって誰よ?)


  ◇ ◇ ◇


「さあ、アイリーンさん。直ぐに出かけます。急いで準備してください」


「え?直ぐって、今ですか?」


 フィリップのセリフにアイリーンはギョッと目を剥く。いくら何でも今直ぐとは……


「あの、半時だけ時間を頂けますか?」


「それはどうしても必要な時間なのですか?」


「はい。私がこれから生きていくうえでどうしても必要な事なのです」


 フィリップは暫く黙った後じっとアイリーンの目を見つめた。そして彼女から視線を逸らすと全く表情を変えず、胸ポケットからメモを取り出し、サラサラと文字を書いた。


「ここがスミス様のご自宅になります。私は半時も待てませんので、申し訳ありませんがご自分でお越しください」


 フィリップはそのメモと百ピネル硬貨をアイリーンに渡し「そのお金を使って馬車でお越し下さい」と言って、スタンリーに軽く頭を下げ部屋を出て行った。


(まあ、なんて急展開……こんな事ってあるのかしら)

読んで頂きありがとうございます。次回でこの章の最終話になります。

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