第一章 切符と代償(2)
「大崎純一。ジュンイチでいいよ、君のことはセレーナと呼んでも?」
地下鉄の入り口が見えたころ、そろそろ、あなただの君だのと呼び合うのが嫌になって、僕は言った。
「……ジュンイチ、礼を尽くせとは申しませんが、念のため申し上げておきますと、私は第一位王位継承権者の身分にありますので」
「……殿下、とでも呼べば?」
なんだか遠回りに敬語くらい使えと言われたような気がして、ちょっとむっとしながら答える。
「いや、そういうわけじゃ……」
「うーん、そういうわけに聞こえちゃうんだよなあ」
僕はポロっと本音を漏らしてしまった。
すると、左後ろを歩いていた王女様から、ただならぬ気配。
振り返ると、眉をひそめた苛立ちの表情と目が合った。
「……ねぇ」
彼女が切り出す。
「今確信したわ。あなた、何も信じてないわね、私の言ったこと」
信じるも何も。
まず、君が犯罪者でないことを証明してくれないと。
そうしたら次は、ちょっと頭をアレした人でないことを証明してくれないと。
そんな過程をすっ飛ばして、いきなり殿下呼びを突き付けてくるんだもんねえ。
僕は肩をすくめただけで答えた。
「……面白い?」
突然、鋭い刃のように、低い声が、僕の鼓膜を震わす。
「ねえ。困っている人を前に、その人の言葉を信じたふりをして、助けるふりをして、結局そんな気なんて全然なくてからかってるだけよね。ただの暇つぶしのおもちゃ、ってわけ?」
「じゃあ他を当たれば?」
僕はとっさに言い返してしまった。
すると、彼女――セレーナは、少し下唇をかみしめた。
そりゃ寝覚めは悪くなるかもしれないけれど、だからって妄想に付き合わされて下手すりゃ臣下の礼までさせられかねないほどの屈辱を受ける謂れはない。別にここからまた路頭に迷ってどこへでも行ってしまっても、僕は一向に困らないんだから。寝覚めは悪くなるけど。大切なことだから二度言ったけど。
ふいに、空気が、変わる。
「……分かったわ。ごめんなさい。私が王女ってのは嘘。私は家名も持たないゴミクズみたいな平民のセレーナ。その辺の道で迷ってるだけのただの無力な子供。だったらいい?」
その彼女の態度は、僕にとてつもない違和感を叩きつけてきた。
なぜって、自らを無力な子供、と言うその姿が、あまりに凛と立っているから。
言葉で自分を貶めながらも、その目線、指先の所作、髪の毛の先までが、僕に、彼女の高貴さを認めさせようと圧力をかけてくる。
なんというんだろう、見たこともないのに、オーラというか、極限まで個を薄めてその身を遥かな高みに捧げる巫女のような雰囲気というか――
その青い瞳の奥底に、とてつもない深淵があるような錯覚が、襲い掛かってくる。底知れない深淵が、僕の意識を搦め取り、引きずり込もうとする。抗おうとする意志が、砂の城のように脆く崩れていく。
心のどこかが震えるのを感じる。
ただの子供に、こんなことができるだろうか?
「……なら、いい。よろしく、セレーナ」
僕は、彼女の言葉を認める口調で答えながら、彼女の放つ圧倒的な『正解』の前に、僕の理屈が揺らいでいる。
これがファンタジー世界なら、こういうのを『魅了の魔法』とでも言うのだろうか。いや、そうでなければ、僕がこんな風になるなんて、ありえない。
そして、そのことがまた、僕の心を少し苛立たせる。
とびきりの美少女と縛られた日常からの逃避行、そんな夢のようなシチュエーションと、イラつく僕。
結局、なんだかよく分からない彼女の現実離れした何かに屈服して肯定の返事を引き出されるだけの僕。
なんてことはない。すっかり日常に飼いならされてるのは、僕自身。
「よろしく、ジュンイチ。じゃあ、どうする? ここからヒビヤまで、何分くらい?」
なのにセレーナは、さっきまでの不穏な雰囲気を一瞬で消して、笑顔でそんなことを聞いてきた。
あれが何だったのか、僕自身まだ混乱している中で。
「途中で特急に乗り継いだとして、……えーと、……一時間かな」
言われるままに答える。
「一時間……」
地下に下りるエスカレーターに乗り込みながら、セレーナは落胆に近いため息とともに、復唱した。
「列車のチャーターなんてことはできない?」
「列車の……チャーター?」
聞いたことがないでもないけれど、何か月も前から予約を入れて輸送網じゅうのダイヤを調整して、何より莫大なクレジットをかける必要がある。
僕のその表情を読んだのか、
「あることはあるのね」
セレーナはそう答えて、エスカレーターを下りた。
その先には、改札代わりのパブリックスキャンだ。
僕のIDに同伴者情報を追加しなきゃ、と思っていると、彼女は特に何もせずにそこに向かう。
待って待って。
それ僕が持ってなきゃ!
と思ったけれど、彼女は、無造作に、スキャンをくぐった。
ああ、これ、捕まっちゃうわ。
そんな観念を抱きながらも、僕もそれに続く。
本来なら、僕のIDが僕以外のIDと同時にくぐったことで何かアラームが鳴るはずのところを――
パブリックスキャンは、何事もなかったかのように、僕らを通した。
そのアンチスキャンが本当に機能したことで、僕は、彼女が本物かもしれない、という思いをさらに強くする。
もし入院患者なら、そんな危険なおもちゃを持っていられるわけがない。
「乗り継ぎってことは、どこかで大きな線路にぶつかるのよね、どの辺?」
セレーナが突然問うてきたので、
「横須賀駅」
僕はぶっきらぼうに答えた。彼女はそれを聞いて、軽くうなずく。
「この辺で地域全体の電車止めると、どのくらいの補償金がいるのかしら」
補償金……つまり、損害賠償のことかな。一編成止めるくらいならさほどではないと聞いたことはあるけれど、もし何時間もダイヤを乱れさせてしまうから、
「百万クレジット以上は取られるかな、下手すると一千万」
ちょっと誇大目に僕は答えてみた。いや実際、南関東の電車を全部乱れさせれば、一千万も夢じゃない。夢ってなんだ。
ともかく、時々プリン好きの友人におごる贅沢プリン二千万個分を吹き飛ばせる大金が、電車を止めるだけで消えるわけだ。
ちょっと口にさえ出したことのない桁の金額を口にしているあたりから、僕の現実感はどこかに行ってしまいそうになっている。
「なんだ、そんなもん?」
しかし、セレーナが予想外の言葉を発した。
その口調は、僕とは全く逆に、現実感の色を伴い、まるで僕が贅沢プリン一つをおごる程度の響きで。
そして彼女が言ったちょうどそのとき、僕らの足はプラットフォームに着く。この時間の電車はあまり多い方じゃないから十分くらいは待つかもしれない――と思っている僕の前に、すぅっと磁気浮上車が一両、滑り込んできた。
『ただいま到着の車両は、オオサキ・ジュンイチ様貸し切りとなります。ご迷惑をおかけしますがその他のお客様は一歩下がってお待ちください』
その行先表示板に光る『貸し切り』の文字。
ざわめいていた駅が、突然しんと静まり返る。
視線が、そのたった一両の貸し切り車両に集中する。
僕が目を点にしていると、すぐに、僕の端末の小さなバイブレーターアラームが鳴る。
『緊急の地下鉄運行情報:東京・横須賀間のすべての列車、二時間の運転見合わせ。原因は非開示』
その表示に、僕はひっくり返りそうになった。
チャーターした。
何をどうやったのか分からないうちに、彼女は、僕の名前で、たった一両とはいえ、列車をチャーターし、東京横須賀間の全路線を止めてしまった。
駅のあちこちで同じようにアラームが鳴り、ため息や悲鳴や怒号が聞こえてきた。
「ん……いや、悪いとは思ってるわよ、でも背に腹は代えられないもの。もう補償金の決済は済んでるから、それで勘弁して」
僕の驚愕の表情を何か読み間違えたのか、セレーナはそんな弁明をする。
「……君が?」
「うん、まあそうだけど……あっ、そうよね、たしかにあなたのIDに私のクレジット付け替えて無理に押さえちゃったから、変な記録残っちゃうわね。そこは謝る。ごめん」
……お嬢様、謝るポイントが異次元すぎます、というツッコミは口から出てこない。
いや、さらっと肯定してくれたから、彼女の仕業だとは分かったんだけれど、いろいろと分からないことだらけで――僕は、ぼうっとホームに立っていた。
「……どうしたの、行くわよ」
完全に主導権を握られる形で、僕はその列車に手を引いて連れ込まれる。
少しひんやりとしてやわらかい彼女の指先の、華奢な少女の体温が、僕の右手の人差し指と中指と薬指を、包んでいる。
――後から思えば、僕がセレーナに初めて手を触れたのは、この時だった。
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