黒豆の奮闘
ルーク主催の舞踏会も目前に迫り、城に帰る時間どころか寝る時間さえ削らなければならぬ多忙な日々が続いたそんな昼過ぎ。
チェルシーがアーロイン男爵家のご子息に襲われたという火急の報告が上がってきた。
あーだりー、もう舞踏会中止で良いんじゃね? いっそ、お前が王になればいいんじゃね? だらけているというか投げやりになってデインに愚痴を零していたルークの気配が瞬時に変わった。
どういうことだ? と控える影を問い詰める。
不測の事態だった。
襲われた場所は、宰相家。自分よりも格上の相手に、しかもその敷地内でそのような愚行を犯す者がどこにいるだろうか。
デインが更なる情報を求めれば、ルークはそれを聞こうともせずに実戦用の剣を帯刀し、部屋を飛び出して行った。
行き先など分かり切ったことだ。
デインは補佐官と影に、ルークに代わって命を出すと、急ぎ後に続いた。
本来ならば、ルークに代わり執務を行うべきであろうが、ルークの雰囲気がそうはさせなかった。
どういう気持ちであれ、ルークにとってチェルシーが特別な存在だ。
未遂とはいえ、チェルシーに害を成したアーロイン家のご子息にルークが何をするか分からない。
チェルシーは長く男のみで構成された騎士団に紛れ、鍛錬してきたがそのような事態が起こった試はなかった。
騎士団長率いる一団が、特に統制された部隊であったこともあるが、それよりも宰相家次女という地位と傍にいるルークの威光が彼女を守ってきた。
それにチェルシーの腕はそれなりのものだった。
お飾りの剣を腰に差すだけのご子息にひけを取らないほどの。
「しかしなぜ、ご子息はそのような浅はかな真似を……」
カツカツと歩きながら、デインは思考を巡らせていた。
ご子息が衝動に駆られて、チェルシーに襲い掛かったとは考えづらい。
子息がチェルシーに焦がれているというなら分からぬでもないが、子息の目に映るのは打算と保身だけであった。
チェルシーの後ろだけを見ていると言っても過言ではない。
そんな男が一時的に我を忘れ、襲い掛かるとは到底信じられなかった。
それにより失うものが大きいのは、どのような愚か者にも分かることだ。
考えを巡らせながら馬を走らせていたので、デインはルークに少々距離をつけられてしまった。
宰相家の正門に着き手綱を引けば、庭園の方へ走るルークの背が見えた。
戸惑う衛兵に、火急のため許されよと馬を託し、そのあとを追う。
追った先でデインが見たのは、怪我はないかとチェルシーの肩を掴んで目を走らせるルークと、え? 何々? と狼狽えるチェルシーと、奇妙な小物を空に向かって掲げながら、ジャムを過剰に塗ったパンを食べている黒豆だった。
見たところ、チェルシーに目立った外傷もなく、心の乱れもない。
聞いていた通り事態は大きくなかったのだとデインはほっと安堵する。
「えっ!? もしかして心配して来てくれたのっ? やだ、何ともないのにっ」
目を丸くして驚きの声を上げるチェルシーに
「何ともないわけあるかっ!! 顔とか手とか切り傷出来てんじゃねぇかっ!」
ルークが怒鳴り返した。
よく見ればチェルシーの顔や腕に、引っ掛けたような切り傷があった。
「これは、押し倒された時に擦っただけでっ。血も出てないし、ほん」
あ、あんた、今ここに来ちゃまずいでしょ……と口元を引きつらすチェルシーの方がルークよりも冷静のようだ。
「おっ、押し倒された、だぁ~っ!?」
ルークの声がひっくり返った。
チェルシーはしーっと慌てたように、口の前に人差し指を立てた。
「ちょっとルーク、声が大きいっ。本当、大したことないのっ。それにこ豆ちゃんが助けてくれたから」
「ちびが?」
「黒豆が?」
デインとルークの声が被った。
武道を嗜んでいるチェルシー自ら撃退したと言うなら話は分かる。
しかし聞けば、チェルシーは前触れもなく豹変した子息に戸惑い、大した抵抗は出来なかったらしい。
それを黒豆から聞いたルークの額に青筋が立った。
「……黒豆が、どのように?」
ジャムを塗りすぎたパンを無心に食べている黒豆に詳細を求める。
「僅かな時間稼ぎと援護になればと、ウェルダン様に飛びかかったのですが、たまたま私の額が股間にジャストヒットしまして。一撃で倒すことが出来ました」
黒豆は痛みに悶絶するアーロイン家の子息に
「おまわりさん、こいつです!」
と叫びながら尚も食らいついていたらしい。
女性とは淑やかなるもの、と思い込んでいた衛兵はかなりの衝撃を受けていた。
これが本当の護ちん術、などと下品なことを言う黒豆に毒気を抜かれたのかルークは、はぁぁーと長々と息を吐いた。
お前、マジで心配させんな、とチェルシーの額をこつんと叩く。
ルークはチェルシーの飲みかけの紅茶を奪って一気に飲み干すと、再び息を吐いた。
「あーっ、俺の失態だ。あのぼんくらが碌でもねぇ男だってのは分かってたのに……証拠集めなんざ優先にするんじゃなかったぜ」
がりがりと髪を掻き毟って、紅茶の御代わりを要求するルークに、黒豆は作法もへったくれもないようなやり方で注いだ。
「しかし奇妙です。アーロイン家のご子息は、確かに聡明とは言い難い方ですが、そのような短絡的な愚行を犯すほどではなかったはず……」
人目が付かない場所ならともかく、宰相家の庭園だ。
チェルシー曰く、死角となる場所に誘導されていたそうだが、声を上げればすぐに誰かしら駆け付ける。
「確かにそこは俺も引っかかる。……それにちび、お前罠を仕掛けるとか何とか言ってたけど、お前の意味不明な行動を影が訝しんでいる。それ、なんか関係あんのか?……正直、あるとは思えねぇけど」
連日のように訪れるアーロイン家の馬車に、黒豆が何度か悪戯をして走行不能に陥れた。
それは本当に他愛無い子供の悪戯で、すぐに修理できる程度であったが、夜も更けていたということで、チェルシーがお詫びを兼ねて、宰相家の馬車でご子息を送った。
「流石は次期国王様、ご明察でございます。私が綿密に練りに練った、ウェルダン様の不貞を録音しよう盗聴計画は全く成果を得られませんでした。ウェルダン様の馬車にちょちょいと細工をし、代わりにチェルシー様が手配してくださった馬車の中に、音声録音設定にしたスマホを仕込んでおいたのですが、要らぬ会話しか収穫できず、自分の不甲斐なさを恥じるばかりです」
太陽エネルギーでは長く持ちませぬし、と黒豆は嘆息しながら何個目か分からぬパンに手を伸ばした。
夕食の前に少々食べ過ぎではないだろうか? とデインは傍目には分からぬほどに、顔を顰めた。
「俺は、そのちびが所持してる奇妙な小物について詳しく知りたいんだが」
ルークは椅子をギシギシと揺らしながら、黒豆を横目で見やった。
その視線を受けた黒豆は、露骨に顔を顰めた。面倒くさいと顔中で表現している。
「その前にデイン。ちびの額、もう良いんじゃね? まぁ、確かにあのぼんくらの股間にぶち合ったと考えると、汚ねぇ気もするが、そんだけ拭きゃ十分だと思うぞ」
言われて気づいたデインは、野生じみた感じに逆さになっている黒豆の前髪を撫でつけて、元に戻した。
「スマホはこの世界では珍しきもので、王太子殿下の好奇心も分からぬではないですが、今は手元にありませぬ。ウェルダン様を送り返しました馬車の中に忍ばせている最中でございます。戻り次第、ご覧に入れますので、今しばらくお待ちくださいませ。それから、私めから少々お尋ねしたいことがあるのですが、ガラナのバラとは何のことでございましょうか?」
「……!!」
黒豆の突然の話題変換に、三人は驚きに目を見開いた。思いもよらぬ言葉に。
ガラナとは、女のみに効く強力な媚薬のことである。
太古の昔より用いられたものであるが、中毒性が残るため殆どの国で非合法となっている。
そうとはいえ、一度知ってしまったものを根絶するのは難きこと。
地下では多額で売買されている。
「……ちび。なんでいきなりそんなことを聞く?」
「昨日仕込んだスマホに録音されていたのです。ウェルダン様以外の声も混じっており、意味も分からず終いでしたが」
しんとした沈黙が走る中で、場違いにももしゃもしゃとパンを齧る音だけが響いた。




