037_一家の団欒_③
トレーニングウェアに着替え、マンションを出る。時刻は日の出前。それは真っ暗というわけではないが、十分に明るいとはとても云えない。
こんな朝早くからなにをするのかといえば、トレーニングの定番ともいえるロードワークだ。要は走り込み。緩急を付けたりはせず、その日の体調にあわせて距離ではなく時間で走る。
毎日だいたい20キロくらいかな。40分好き勝手な道を走り、時間が来たら折り返すという感じで走っている。
同じコースだと飽きるからな。
何度か千間坂ダンジョン事務所にも行ったことがある。当然あまりにも早朝であるため、活動している探索者なんていやしない。こっちじゃ泊まり込みでダンジョンアタックをしている輩なんぞほぼ皆無だ。
だから事務所だって時間外で閉まっている。魔物溢れ対策のための警備員が何人か突っ立っていたが、それだけだ。
とはいえ事務所の雰囲気から、千間坂ダンジョンがそれなりに繁盛しているのは見て取れた。人がいなくとも、それくらいは見て取れる。
どういうわけかサラはここを後回しにしているが、特に心配するような事が無いからだろう。
松戸はダンジョンアタックの小手調べ。上野が本格的な活動の場としていたに違いない。実際、上野はヤバかったからな。
準備運動を終え、軽くぴょんぴょんと跳ねてから走り出した。
今日は川までまっすぐ行って、川沿いを走るとしよう。
ロードワークを終え戻ってきた俺は汗を流すべく風呂場へと直行した。
オーマにいたころなら魔法で汗だのなんだのはすべて清めていたわけだが、やはりシャワーや風呂には敵わない。
なんといっても、きちんと汚れを洗い流していると実感できる。
恐らくは大抵の男であればそうだと思うが、俺もズボラな質の人間だ。だがそれでも汗を流すくらいのことはきっちりとやっていた。
汗の塩っけで体や頭がベタベタするのは頂けない。
全身を石鹸で泡だらけにして、頭もシャンプーで泡だらけにしてからまとめてシャワーで洗い流す。
これが俺の朝の日課だ。もっとも、雨の日は外には出ず、筋トレだけをするが。
パンツにTシャツだけを身に着け、髪をガシガシとタオルで吹きながらキッチンへと向かう。Tシャツはサイズの大きいものであるから、裾が膝まできている有様だが、着心地はいい感じだ。
キッチンではハクとラクが朝食の準備中だ。今日はベーコンエッグとサラダのようだ。
食器棚からマグカップを取り、冷蔵庫からだした牛乳を注ぐ。
「おかえりー。もうすぐできるからねー」
「毎朝悪いな」
「好きだやってるから問題ないよー。飽きたらコアを利用するかもだけど」
率直なハクの物言いに、思わず苦笑する。だがハクの性格からするに、そんなことは余程でないか限りしないだろう。
「イオさんこそ、毎朝よく続きますねぇ。雨の日は室内でいろいろやってますし」
「体力錬成をしてない奴はすぐ死ぬ」
「それはオーマの経験からかな?」
「いんや。前世の教えだ。爺にさんざっぱら鍛えられたからな。とはいえ、爺の年代を考えると驚くほど常識的な鍛え方だったけどな」
「といいますと?」
「爺の時代はもとより、俺の時代も根性論が根付いてたんだよ。一般的にはな。そんなのは体を壊すだけだってんで、やたらと効率重視の鍛え方をされたんだ。
んでだ、ハク。ちょっと質問いいか?」
テーブルの状況が気になり、俺はハクに問うた。
「なーに?」
「なんかひとり分が多くないか?」
★ ☆ ★
「お……おはようございます」
やたらと恐縮した張戸さんがやってきた。
ウチやシャティ関連のことでの連絡役ということで、神令家専属連絡員とでもいうようなことになったらしい。
ほら、シャティが錬金術師育成のための教師役をここでやるし、ハクも探索者用のガジェット関連のことがあるからな。連絡はできるだけ密にしたいということだろう。
それなら、店子として入っている千間坂職員たちでもよかろうと思ったんだが……。
「連中はどうしようもない精神性の持ち主と判明しましたので、大家と店子以上の付き合いは一切しません」
ラクがトマト入りのスクランブルエッグを口に運びながら云った。
「なにがあったんだよ」
「私の仕事を増やしました」
「あぁ、じゃあ仕方ないな」
トーストを齧る。
張戸さんが俺の言葉にびっくりしているみたいだが、なんでだ?
「普通はラク姉さんを宥めますからね」
「無駄に仕事を増やすようなことをしてるんだ。慈悲を掛ける必要はなかろ。必要があっての増えた仕事じゃないんだから。本来やる必要のないことをやらされるんだ。塩対応になっても仕方ないだろ。
んで、増えた仕事ってなんだ?」
「入れ替えただけですので、そこまで増えたとまでは行きませんでしたけれど、契約内容を変更することになりました」
ん?
「詳しく」
「錬金術師要請のために用意した生徒用の部屋を一室、張戸さんの居住用にしました。その上で張戸さんが本来入居する予定であった、JDEA千間坂事務所が社宅代わりと確保している空き部屋を生徒用に変更しました。千間坂事務所が嫌がらせで部屋の使用を拒否しましたから。現状使ってもいない上、契約主の意向であるというのにです。なぜ面倒事をこちらに投げるのか、理解できません。あまりに目に余るようでしたら、退去願おうと考えています」
マグに並々と注いであるポタージュを啜り、ラクが幸せそうな笑みを浮かべた。
その様子は微笑ましいのだが、云っている事には微妙に不穏なものが見える。
「通告するわけじゃないんだろ? なんかやらかすのか?」
「せっかくですので、心霊現象のセットなどどうでしょう?」
ラクの言葉にハクの目がキランと光った。
「ほどほどにしとけよ。変な噂とか立ったら目も当てられん」
「……仕方ありませんね。悪夢だけにしておきましょう」
「あの、その話は聞かなかったことにしたほうがいいのでしょうか?」
不安そうに張戸さんが俺たちを見つめていた。
「いんや。単なる戯言とでも思っててくれ。実際、魔法でもそんなことどうやってやるんだ? って話だろ。だからいま聞いたことは戯言だよ」
「幻覚を見せるのとは違いますからね。正確には幻覚ではなく、幻影魔法を用いたものですから、幻覚ではありませんし。それには目が覚めていて貰わないといけませんからね」
そういってラクは隣りの部屋を指差した。
人数が多くなったため、天使組は隣の部屋で食事をしている。張戸さんが来ていることも要因のひとつだが。
さすがに天使様と一緒に食事となったら、気が気ではないだろうしな。
……まぁ、その張戸さんは、ラクのジェスチャーで頭を抱えているんだが。
「あの、まずはお礼を」
立ち直った張戸さんが、食事に手を付ける前に畏まった様子をみせる。
「礼って、なにかしたか? 迷惑を掛けた覚えしかないんだが」
「昨日の上野の件で、急に仕事が増えたようですしね」
「それが原因で張戸さんは食事の準備もままならい状態のようでしたので、こちらにお呼びしました」
あぁ、なるほどな。食材を買ってる暇もなかったろうしな。かといって朝からコンビニ飯ってもあれだろうし。ここら辺、飲食店はほぼ壊滅してるからな。
「いえ、それはこちらに原因がありましたので構わなかったのですが。
昨日、ラクさんから日下常務の居場所を教えて頂けましたので、非常に助かりました。
恐らく本日中には、我々か、もしくは警察当局が取り押さえることができるかと思います」
む? 日下常務?
「誰だそれ?」
「私を拉致すべく山常を動かした狒々爺です。小宮間の飼い主でもありますね」
「あー。って、できて20年程度の組織でもうそんなんが幅利かせてたんかよ。どうしようもねぇな」
「あれでも元政治家です」
「あー。なら納得だ」
政治屋なんてロクなもんじゃねぇ。宗教屋とどっこいどっこいの輩だ。
「なーハク、もしかして誰か監視してたりするのか?」
「サキエルが観光も兼ねて暇つぶしにやってたみたいね。昨日は上野事務所でちょこちょこ細工してたけど」
「細工?」
「ウチの配信を見てたみたいだから、イオちゃんたちが来た時点でブラウザを閉じたくらいかな? ほら、音が出てたらサラが気付くし」
サラが顔を顰めながらトーストを食いちぎった。だがハクはニヤニヤとした調子だ。
やたらと楽しそうだ。
「サキエル……」
「サキエル。或いは『神の正義』。とはいえ仕事の邪魔をする者を一方的に排除する目的できていますから、融通なんてものは利きませんよ」
「ちなみに、いまのところの一押し好物はとんかつだ。チーズの入ったヤツ」
サラと俺の言葉に張戸さんが頭を抱えた。
「あの、お聞きしたいことがあるんですが」
「なにを聞きたいのか想像がつくな。なんだ?」
「どこで天使様と知り合いになったのでしょう?」
予想通りだ。まぁ、聞いてくるよなぁ。ゼルエルがやらかしたから。
正直、これについてはどうにかすべきだと、予めみんなと相談済みだ。ついでだから俺のこの容姿も絡めて、半分事実の話をでっちあげることにした。
「俺があっちに跳ばされて、無茶をしてこっちに戻ってきた、ってのは聞いてるよな?」
「はい。勝野より聞いています」
「うん。実のところ、あれは途中をすっ飛ばした話だ」
俺はあっさりと云った。張戸さんは姿勢を正してじっと俺をみつめている。
「天使、なんてものがいるんだから、神様がいたっておかしくなかろ? ダンジョンを作った存在ってのがいる。それを神様としようか。で、その神様ってのはいわゆる邪神とか悪神の類らしかったんだよ。そしてそれを討伐すべく別の神様が来て壮絶な殺し合いをしていたわけだ。
そんな大決戦の最中に、間の悪いことに俺とシャティは飛び込んじまったわけだな。向こうから転移した際に。まぁ、邪神はダンジョンから人間のなんやらかんやらを吸い上げてたんだから、ある意味必然に近かったんだろうな」
「――え?」
「でもって、俺はあっさり死んだ。あの感じじゃ塵ひとつ残んなかったんじゃねぇかなぁ」
「は?」
「尚、邪神はめでたく神様によって討伐されて、まともな神様が地球とオーマの管理をすることになったみたいだ。正確には、邪神が作った傍迷惑なダンジョンの後始末だな。天使様はそのために活動している。ただ、ダンジョンがその世界の人類社会に深く根付いているような状況だから、潰すに潰せないため、その仕様を変えているらしい」
「前のままだと、人間の魂を集める装置だったからね。それを修正するために私たちは来たんだよ」
ゼルエルがやってきたかと思うと、炊飯器からご飯をおかわりして隣室へと戻って行った。
張戸さんが間の抜けた顔でゼルエルを視線で追っているのがちょっと面白い。
「んで、俺だけど、神様の問題で死んでしまったのをそのままにするわけにはいかないと、生き返らせて貰ったんだが、手違いでこの有様でな。
エルフの寿命感覚で復活させちまったらしい。なんか30まで幼児、50までが少年少女、100で成人だったかな? その感覚で復活なんてせいで、22なのにこんな幼児な外見ってわけだ。まぁ、見た目だけで、ちゃんと成人ではあるらしいんだが」
再度、張戸さんがまたしても頭を抱えた。
「それからこっちに送ってもらったっていうのが真相だ。本当はシャティはオーマに戻れるハズだったんだが、一緒に来るとダダを捏ねてなぁ」
「クロウの隣が私の居場所」
コーンスープの入ったマグを手に、なぜかシャティは得意気だ。
「そう云うわけで、神様と縁ができたってことで、俺のいる場所が天使様たちの拠点ってことになってるわけだ。いちいち神様のところから地球に来るよりも、ここの方が近いってことでな。ま、実際に見ないことには荒唐無稽もいいところだろう? もし話そうものなら、真っ先に病院を紹介され兼ねんから話さなかっただけだ」
「途中を省略しただけで、嘘はついていませんしね」
張戸さんが身を起こした。なんとか気を取り直したようだ。
「あの、確認なんですが、天使様方が行っているダンジョンの改修というのはどういったことなのでしょう?」
やっぱり問題はそこだよなぁ。
「ダンジョンは人を育て殺す装置だ。位階を上げた高等生物の魂は邪神にとって自身の力を増すのに適当な代物であったということだ。
当然、それは問題であるから我らが神が討伐したわけだが、残されたダンジョンの仕様はそのままだ。ダンジョン内で死んだ者の魂を勝手に回収する。だがそれを受け取る邪神が消えたため、その魂が真っ当に輪廻転生できない状態に陥っている。我々の仕事はその修正だ。本来ならダンジョンすべてを破壊すれば簡単なのだが、オーマにしろ地球にしろ、ダンジョンをうまく利用しているため、現状では突如なくすわけにもいかない状態だからな。魂の回収を担当しているライラエルが少しばかり忙しいだけだから、人類社会にさしたる問題はないぞ」
ゼルエルと入れ替わるようにやってきたサキエルが、オーブントースターに食パンを放り込んだ。
淀みなくタイマーをセットする姿はもう堂に入ったものだ。
張戸さんは今度は天を仰いだ。
「DEAは気にしなくていいと思うぞ。訊かれたら『天使様の御心なぞわかりません』とでも云っておけばいいさ。そういやサキエル、そこいらの宗教を脅しつけるっていうのは、本当に実行するのか?」
「連中が我らをダシに馬鹿なこと始めた場合は粛清する。なに、人死にはでぬよ。公の場で教団のトップをどやしつけるだけだ」
「ってなわけだから、冗談じゃなしに知らぬ存ぜぬを決めつけた方がいいぞ。俺たちのほうに接触してきたら――」
「私が応対しよう。私はそのために来ている」
「ってことだから」
ハクよ、彼女を食卓に呼んだのは失敗だったんじゃないか? なんだか胃に穴を空けそうな顔をしているぞ。
いや、肩を竦めてないでさ。
「どうせ誰もまともに信じやしないし、確認もできなかろう。であるのだから、わざわざ上に報告せずともよいと思うぞ」
電子音が鳴ると、サキエルはオーブントースターから綺麗に焼き上がったトーストを取り出し、慣れた手つきでバターを塗っていく。そして塗り終えるとバターナイフを流しの樹脂製の桶に放り込みトーストを銜え、バターを冷蔵庫へとしまう。
実に行儀が悪いといえるが、誰でも自宅ではこんなようなものだろう。
とまぁ、そんなわけでだ。
「張戸さん。とりあえずなにか変な夢でも見たと思って、いま聞いたことはなかったことにでもしたほうがいいんじゃないか? こんなもん上に報告したところで、じゃあどうするんだ? って話だしな」
「そうですね。神の使いの行動など、気にするだけ無駄です」
俺とサラの言葉に、張戸さんは声ならぬ悲鳴を上げた。




