72.新たな名を授かる神聖な場
可愛い娘が「イングリット」を名乗るのも、今日が最後ね。名付けた時は女神様のお名前をいただき、加護を得られたらと思ったの。私が一人で考えて決めた名前よ。
あばぁ、声をあげて手を伸ばす娘は首も据わり、抱くのも楽になった。頬を擦り寄せ、小さな手が顔を辿るのを自由にさせる。今日は、赤子の肌にも使えるような化粧水しか使わなかった。抱いている時間が長いんだもの。娘の健康は、私の見栄えより重要よ。帝国の青は今日も鮮やかに光を弾く。
馬車に揺られる間も、イングリットはご機嫌で小さな声をあげる。その度に、ルヴィ兄様やエック兄様が覗き込んだ。ライフアイゼン公爵令嬢は、困ったような顔でこてりと首を傾げる。赤子にどう接していいか、迷っている感じだった。
ザックス侯爵令嬢オリーヴィアは、緊張した面持ちだった。ずっと親しんできた名前が変わるんだもの、当然よ。婚約を打診した段階で気づけなかったのは、私のミスね。
フォルト兄様は予定通り動き出す。お父様やガブリエラ様も、そのために国境まで赴いた。今回の儀式に参加できないけれど、ガブリエラ様に贈られた名を冠した娘が誕生する。皇女として、愛される子よ。
クラウスは無言だけれど、表情は柔らかかった。降りる際も手を貸し、私をエスコートする。馬車から降りて、クラウスと並んで歩いた。兄二人も婚約者に腕を絡め、神殿内を奥へと進む。神々の像が並ぶ拝礼の間の裏側へ入った。ここは一般公開されない部屋よ。拝礼用の大きな神像ではなく、小さな像が並んだ。神々の控え室のように、思い思いの格好で寛ぐ像は人の背丈と変わらない。
円形の部屋で寛ぐ神々の視線は、一箇所に注がれていた。ここが神殿の中央になる。イングリットは自分で立ったり座ったりできないため、私が抱いて儀式を受ける。地位の高い順番で執り行われるため、私が先に両膝をついた。専用のクッションが置かれており、膝を乗せて顔をあげる。抱かれたままのイングリットは、不思議そうに目を見開いた。
リヒター帝国の大神官二人が、左右から祝福の花びらを散らした。正義や断罪を司る叔父様が白い花びらを、豊穣と調和を齎す女性の大神官は赤い花びらを振りかけるのが慣わしだった。
「第二十一代皇帝ルートヴィッヒの妹ヴィクトーリアが娘、イングリット・クリスティーネ・リヒテンシュタイン。名をジルヴィア・クリスティーネ・リヒテンシュタインと改め、新たな守り袋を授ける。九柱の神々よ、新たに生まれ直した信者に祝福を!」
高らかに響く声に「祝福を」と声を重ねた。ルヴィ兄様達も同様に振る舞う。新たな守り袋を渡され、目の前で名前の変更が出生届に刻まれた。よく見ると父親欄が空白になっているわ。叔父様の仕業かしら。
一礼して下り、同じようにオリーヴィアが膝をつく。ほぼ同じ文言で、マルグリットへと改名された。成人しているため、守り袋はない。代わりに札を手渡された。
エック兄様に頼んだので、エリーゼとアンナも同席している。出入り口に近い壁際で、二人は両手を組んで祈りを捧げていた。
神々の間を出る大神官に続き、私達も深く頭を下げる。皇帝や国王であろうと、神々の権威には及ばなかった。だから敬意を示し、逆らわぬと従順を誓う。無言で廊下を歩き、来客者の宿泊用に用意された部屋に入った。ここでようやく、肩から力が抜けた。
「無事終わって安心したわ」
「供物は届けてありますので、安心してください」
エック兄様の手配なら問題ないでしょう。交代を申し出るアンナに抱かれると、ジルヴィアが泣き出した。大きな泣き声は、神殿では歓迎される。なぜなら、人は生まれながらに泣くからよ。生命力の象徴であり、神々から分たれた魂の嘆きでもあるの。
軽くあやすと、ジルヴィアの泣き声がやや小さくなる。いくら迷惑にならなくとも、ずっと泣いていたら疲れてしまうわ。
「マルグリット、嫁ぐにあたり名前が変わることを失念していたわ。ごめんなさいね」
「いいえ、皇帝陛下からお話をいただき、覚悟しておりましたので……」
首を横に振るマルグリットは、吹っ切れた様子ね。ルヴィ兄様と微笑み合う姿も仲睦まじい恋人のよう。どうやら私の知らない間に、何回か会って交流を深めていたみたい。隅におけないわね。




