190.皇妃という地位と立場が彼女を変える
マルグリット皇妃を母として、皇帝ルートヴィッヒ陛下の下で育てる。
覚悟を決めるなら、もっと早くするべきだった。今なら私の記憶も残らないでしょう。ようやく這い這いが上手になったジルヴィアを抱きしめる。
「あなたを愛しているわ。だから一緒には住めないの」
女帝になるより、実母と暮らすほうが幸せだ。もし成長した彼女がそう口にしたら、私は聞き入れて引き取るだろう。今の段階で、私が母として彼女に接するのは害にしかならない。そっくりな銀髪と帝国の青の瞳を持つから、ある程度の年齢になったら気づくでしょう。
自分で判断できる年齢になるまで、女帝になる道を歩いてほしかった。あとから歩ませることは出来ないから。取り返しがつくほうを後回しにするだけ。
頬をすり寄せ、赤子特有の甘い香りを吸い込んだ。愛しているわ、恨まれてもいい。あなたが私を要らないと考えるなら、それも受け入れる。母親って損ね。でもきっと……私も実母に同じ決断をさせたかもしれない。今日ほど、亡き母に話を聞きたいと思ったことはないわ。
あなたは……後悔した? どれだけ泣いたの? ルヴィ兄様がいるのに、ヴィクトーリアと名付けた娘を残して死ぬことを、どれほど恐れたでしょう。結婚式を済ませたら、お墓参りに行こうと決めた。報告と愚痴と、少しばかりのお土産を持って。
ノックの音でエリーゼが動く。マルグリットが来たと聞いて、入室を許可した。中の宮は方角によって兄妹で管理が分かれている。たとえお兄様達が来ても、私の許可なしに入室できないのよ。
ジルヴィアを抱いた私が座るのは、扉の正面に位置するソファーだった。三人掛けのソファーのみを、この場所に置いている。ジルヴィアの世話をするアンナの仮眠場所として用意したの。私やガブリエラ様が来た時も、このソファーでジルヴィアを膝に乗せた。
「ヴィクトーリア様、事情は伺いました。ジルヴィア皇女殿下を私の子として育てる、と」
「ええ、そうよ。マルグリット……いえ、皇妃殿下。あなた様にお預けしますわ」
侯爵令嬢だったマルグリットも、あと数日で皇妃となる。呼び捨てにするのは不敬だわ。肩書きで呼んだら、「マルグリットでお願いします」と丁寧に断られた。
「では、マルグリット様と呼びましょう。呼び捨ては無理だもの」
頷いたマルグリット様が近づき、ソファーの空いたスペースに腰掛けた。隣から手を伸ばし、ジルヴィアの銀髪を撫でる。その手つきは優しく、慈愛を感じた。
「ご提案があります」
「私に敬語は不要になります。皇妃殿下になられたら、マルグリット様のほうが地位も立場も上になりますから……」
「では、はっきりと言います。私の補佐官をお願いしたいと思っています」
口調も声もがらりと印象を変えたマルグリット様は、皇妃らしい雰囲気を纏う。ガブリエラ様が仰った意味がわかったわ。立場が人を変え、地位がその人を作る。与えられた役割に相応しい者は、きちんとした振る舞いを自然と身に着けるのね。
「補佐官、ですか」
疑問形にはならない。ルヴィ兄様やエック兄様にも補佐官がいて、フォルト兄様は副官を連れている。どちらも同じで、仕事の手配や予定の管理、来客の対応まで任される重要な仕事だった。
「コルネリア様にもお願いしているの。ヴィクトーリア様の能力が欲しいのです。アデリナ様も、女性騎士として護衛についてくれる約束をしました」
驚いてマルグリット様の顔を凝視する。いつの間に、そんな手を回したの? 確かに多才で有能だと思ったから選んだけれど、ここまでの逸材とは思わなかった。
「受けてください」
「トリアと呼び、命じるのが皇妃殿下のお立場ですわ」
「……義妹になるトリア様に、命じたくはありません」
しばし睨み合って、先に折れたのは私のほう。だって私のためでしょう? ジルヴィアと触れ合う時間の名目を作ってくれた。
「畏まりまして」
ジルヴィアを抱いているから無理だけれど、最高の敬意を示して首を垂れた。




