106.天に背かれた日 ***SIDEデーンズ王
なぜだ? 宣戦布告から数日、リヒター帝国はまだ動いていないはず。事前に準備をして国境に兵を配置するなど、不可能だろう。なのに、なぜ大量の兵士が陣を敷いているのか。
「なんだ、あれは……」
「リヒター帝国軍にございます」
掲げた国旗を確認して答える側近を殴る。前歯が折れたのか、こちらの手も切れた。痛みに呻く愚か者を睨みつける。
「俺にも国旗は見えている! そうではない」
伝わらないことに苛立つ。俺が尋ねたのは、リヒター帝国軍が我々の前に展開している理由だ。あいつらがどうやって情報を得て、いつの間にここへ集結したのか。そのくらい、さっさと答えろ! まだ転がる男を蹴飛ばし、数歩前に出た。
兵士の層は厚く、その後ろには騎士団が展開している。戦端を開けば、こちらに甚大な被害が出るだろう。そのくらいは想像できた。交流戦などで知る帝国軍の実力は、我が国を優に凌ぐ。兵士一人当たりの練度が違いすぎた。
わかっていて宣戦布告したのは、連中がまだ動けないと判断したからだ。今のうちに、我が国の国境に近いアディソン王国の領土を大きく削り、こちらに取り込みたかった。凍らない土地と海は貴重で、いくらあっても困らない。
「くそっ」
吐き捨てて深呼吸した。この状況で引いても、敵は追ってくるはずだ。自国領内に引き入れたら、その部分を削り取られる。国内の情勢も不安定な中、かき集めた兵力を削られたら? 使える領地を奪われたら?
どうすれば生き残れるか。いや、連中に頭を下げる気はない。それくらいなら国もろとも滅びればいい。兵力をすべてぶつけ、時間を稼いで逃げるのが最善ではないか? 迷っていられる時間は少ない。
すぐに決断できず、うろうろと歩き回ってから天幕へ戻った。陣を張った丘は、帝国側よりやや高い。高低差を利用? だが何を送ればいい? 水はなく氷は遠い。この程度の高低差では石も転がらないだろう。
「酒だ」
運ばせたグラスを干して、二杯目を注がせた。早く決断しなければと思うほどに、頭は空転する。滑る思考はまともな案を出せず、ただ怒りと恐れで加熱した。
「暑いぞ」
文句を言うが、応じる声がない。首を傾げて天幕内を見回せば、調度品ばかりで人がいなかった。側仕えの侍従はどこへ行った? 軍の若い兵士が立っているはずだろう。声が聞こえなかったのか。腹立たしさに足を踏み鳴らしながら、入り口の幕を腕で払った。
「……なんだ?」
天幕に配置された護衛の兵士がいない。職務怠慢だと思う頭の一角で、危険を知らせる警告が鳴る。いくつか張られた天幕はあるが、兵士が歩いていなかった。ここは陣の中央だ。誰もいないのはおかしい。だが、何が起きた?
国王である俺がここにいるのに、兵士が消えるはずはない。何か緊急事態が? それなら、真っ先に俺へ報告が入る。じりじりと後ずさり、天幕に戻った。中央の簡易ベッドに立てかけた剣を拾い、鞘を払う。緊張で音が消えて、喉を鳴らす音すら大きく響いた。
目を左右に向け、忙しなく剣先を動かす。どこから来る? 敵はどこだ!
「陛下、何をなさっておいでか」
穏やかな声が耳に届き、血走った目で入り口を確認する。あれは騎士団長だ。俺の味方で、護衛で盾になる男……肩から力が抜けた。剣がひどく重く感じられ、放り出す。からんと金属音が聞こえた。
「誰もいなかったぞ?! どういうことだ!!」
「申し訳ございませぬ。こういうことにございますよ」
屈強な騎士団長は歪な笑みを浮かべて近づき、落ちた剣を踏む。不敬を申し渡す前に、腹が熱くなった。視線を動かせば、短剣が刺さっている。
「っ、な……」
「勝ち馬に乗り換えるのは、臣下の権利です」
何を勝手なことを! 叱りつけようとした俺の視界は傾き、そのまま意識が途絶えた。何が起きたのか、知らぬままに。




