100.一線を越えた愚か者がここにも
上級会議が終わった途端、エック兄様は貴族に囲まれてしまった。前線に立って手柄を挙げたいと望む貴族の嘆願が多い。領地が増えることで、自分達の取り分の計算を始めたのね。我が国は実力主義だから、功績を挙げなければ褒美は得られない。
大貴族だからと胡坐をかいていたら、あっという間に格下に抜かれるのよ。こぞって宰相であるエック兄様のところへ駆けつけるのだから、ある意味、賢いのでしょうね。
「エックは忙しそうだな。トリアはお茶に付き合ってくれるかい? ローヴァインも同行するといい」
私を誘ったルヴィ兄様に、無言で眉尻を片方上げて抗議を示す。すぐに言葉を付け足したあたり、本当に処世術が上手なこと。隣にクラウスがいるのに、私だけ誘うからよ。同行すると示すクラウスに手を差し伸べ、腕を組んで微笑んだ。
ルヴィ兄様は「失敗したなぁ」とぼやいて、私達の斜め前を歩き出す。表宮を抜けて、中の宮に入ったところで足を止めた。従う私も立ち止まる。
「執務室ではなく、こちらの客間にしよう」
なぜか、いつもと違う行動をとる。ルヴィ兄様が何も考えずに、客間を選ぶわけがなかった。執務室から二部屋を挟んだ客間の扉を叩く。目を見開いた私とクラウスは一瞬だけ、視線を合わせた。扉は中から開かれ、私達は招き入れられる。
「ルヴィ兄様、これはどういうことかしら?」
「……見たままだよ」
言いにくそうに返す。ルヴィ兄様は私と目を合わせなかった。代わりに室内から扉を開いた令嬢が謝罪する。
「申し訳ございません。皇妹殿下……ローヴァイン侯爵様もご一緒でしたのね」
丁寧に頭を下げたのは、ザックス侯爵令嬢マルグリットよ。ルヴィ兄様の婚約者になった彼女が、いま中の宮に滞在しているのは問題じゃないかしら?
「ああ、その……手は出してないぞ」
「当然です! 失礼いたしますわね」
侍女や侍従が行き来する廊下との扉をきっちり閉めたが、客人が滞在しているのはバレているでしょう。婚約式もまだなのに、何を考えているの! 腰に手を当てて兄を睨んだ。
「皇帝陛下、早めに降伏なさることをお勧めいたします」
忠告にならない一言を添えたクラウスは、そっと扉の前に立った。外部の者を遮断する意味もあるし、自分は当事者ではないから関わらないと立場を示す形ね。肩を落としたルヴィ兄様は、そっと両手のひらを私に向けた。
「それ以上責めないでくれ」
「お仕事の補佐をさせていただいております」
事情を聞くために、応接用のソファーに腰掛ける。クラウスも手招きし、隣に座らせた。それぞれ婚約者と腰掛けて向かい合う。事情を語ったのは、マルグリットだった。
ルヴィ兄様の補佐をする宰相のエック兄様が忙しくなり、書類の分類が間に合わない。下手な人に見せられない書類ばかりで困っていたところ、婚約者に差し入れを持ってきたマルグリットが手早く整理してくれた。その手際が見事で、つい頼み込んで手伝ってもらうようになった、と。
「事情は理解しましたが、なぜ客間に? 執務室でいいではありませんか」
「ああ、その……だな。実は」
歯切れ悪くルヴィ兄様が語った内容に、額を押さえた。深夜まで頑張る彼女と徐々に距離が縮まり、一線を越えてしまった? 子供の言い訳でも、もう少しましな内容ですわ。頬を染めたルヴィ兄様と、顔を真っ赤にして両手で覆うマルグリット。
助けを求めて隣を見れば、クラウスは無表情だった。ただ、握りしめた拳が震えている。そうよね、許せないと思うわ。臣下が必死に頑張っている状況で、一線を越えただなんて!
「なんて、羨ましいっ」
「クラウス?」
さっと取り繕う婚約者の本音が、胸に突き刺さった。忙しくしているエック兄様を煩わせるのは本意ではない。でも、黙っているわけにいかない状況ね。
「エック兄様には私から相談します」
「すまないが、頼む」
自分で言い出せないヘタレたるルヴィ兄様を睨み、引き攣った笑みで文句を吞み込んだ。マルグリットが気に病んでしまわぬように。




