第二十二話 季秋の訪れ、秋の死期3
死闘は長引いていた。空は徐々に明るくなっていくが、楓にはそれに心を割く余裕すら無かった。
伏倉との勝負は、まるで薄氷を踏むかのようだった。今楓が生きているのは、伏倉の魔技によって魔女服を纏いながらマナが通わない剣をやり取りしているからであり、これが尋常な素肌剣術、あるいは武辺の魔女としての勝負なら楓はもう何度も死んでいた。
しかしその変則的な勝負となっているがゆえに、楓にも勝機があった。ほんのわずか、一瞬でもいい。ほんの一瞬、伏倉を上回れば、楓は勝てるのだ。
……それが、どれほど難しいことか。楓は斬りつけられる衝撃に苦悶しながら、伏倉を超えることなど不可能であると悟っていた。
楓はまだ一度も、伏倉の体に剣を届かせていなかった。先に斬りかけようとすれば伏倉がその先をとらえて斬り、ならばと伏倉の仕掛けを見切って斬ろうとすれば、反応するまもなく先に斬られた。まるで、楓の意を察知しているかのようだ。
楓に出来たことは、当たれば死は避けられない首、あるいは頭部への一撃を防ぐことだけだった。その代りにそれ以外の箇所の殆どは打ち据えられていた。全身に鈍い痛みが走っていた。
「嫌なものね。あなたみたいな子を嬲り殺しにする趣味は無いのよ、私」
突如下段から閃いた伏倉の刀が、正眼に固めていた楓の刀をすり上げる。意と意の間隙を突かれたように、楓は全く反応できなかった。否応もなく剣形が崩され、伏倉の一刀がその隙を狙ってまた閃いた。喉を狙った迅速な突き技だった。一呼吸の内に楓の刀をすり上げてすぐさま刀を手元に引き込み、やや右斜めに刃筋を落としながら突きかけてきたのだ。
楓はこれに、体捌きで応じた。弾かれた刀をすぐさま対応させるのは間に合わないと直感したのだ。後ろ足にしていた左足を更に引き、右半身になった上体を反らしながら後ろへ引いて伏倉の突きを避ける。
「ぐうぅっ……」
紙一重の差だった。伏倉の剣先は楓の首の皮一枚を掠めていた。もう少し反応が遅ければ喉を貫かれていたと、楓は歯を噛み締める。そしてそれは、遠くない未来だった。
すでに楓の体は鈍痛で思うように動かなくなっている。魔女服の下にある肌はどこもかしこも打ち身と内出血で青黒くなっていることだろう。
次は、受けるも躱すも不可能。楓はそう感じながら距離を取った。
「そろそろ決着かしら?」
伏倉は優しく楓を見つめていた。彼女にも人の心があるのか、楓の姿を痛ましいと思っているようだった。しかし、だからといって楓を見逃すような慈悲は彼女になかった。
彼女は魔女殺し。今まで何度もそうしてきたように、魔女である楓を殺すつもりだ。
――何のために私は戦っているのだろう。
伏倉がまた無構えになったのを見て、楓はそんなことを考えた。それは、死を覚悟した者が人生を振り返り、生への未練を断とうとする行為に似ていた。
楓の戦いの発端はやはり、家族の死だ。両親が生きていれば今楓は、刀剣での戦いなど知らない年頃の少女として生を楽しんでいただろう。しかし父も母も死んだ。楓の目の前で殺されて、食われた。
両親の死に関わっているのが、楓を助けた当の本人である天坂であった。そんな楓に剣を教えたのはやはり天坂であった。その剣を振るって、楓は天坂の企みを防ごうとしているのだ。
――なぜ?
なぜ、自分がそうしなければいけないのだろうか。なぜ、自分は自身の身に渦巻く怨嗟から目を背けないのか。
復讐だろうか。天坂への復讐心が楓を戦いに駆り立てているのだろうか。それとも、己もまた一介の魔女として、天坂が夜魔を呼び寄せようとしていることを防がなければいけないと、そんな使命感を持っているのだろうか。
――分からない。
楓には何も分からなかった。家族が死に、家族の死に関わった者を師と仰ぎ、その師に殺されかけた、哀れな少女がそこにいた。
思えば楓の背後は血に塗れていた。家族の死はもとより、ラピスを用いて殺人に興じる者達をこの手で何人も殺した。つい先ほど、小鴉隼人を手にかけたばかりだ。振り返れば彼らがそこに居る気がする。彼らの血を踏みしめ残してきた足跡をたどって、死んだ彼らが追ってきているような気配がした。
何のために楓は彼らを殺したのだろうか。鈍痛が楓の中をかき回す。何のためにこの手を血で汚してきたのか。天坂が姿を消した後、戦いに望まずただ年頃の少女として暮らす選択肢もあったはずである。
では、楓は選択を間違えたのだろうか。そうかもしれないと、楓は思った。全て間違いであった。剣を求めたことも、ただ一人生き残ったことも。
気が付けば、伏倉が攻め入ってきていた。間合いはいつしか狭まっていて、伏倉の刀が閃いている。八双からやや刃を寝かせて首筋を狙う太刀筋。ついに伏倉は勝負を決めにきた。
楓は、反応できずにいた。心と体がバラバラで、どうして剣が振るえようか。
死を前にして、楓の心は軽かった。
――今まで生きていたことが間違いだったのだ。私のような小娘は、もっと早くに野垂死んでいるのが当然だったのだろう。
何がどうして、ここまで生き残ってしまったのか。楓の心は軽くなり、死を受けいれる。
……だが、朝比奈楓という少女は、まだ勝負を諦めていなかった。心は諦めた。体も諦めた。それでも彼女の意志は、まだ諦めていなかった。
剣が動く。勝手に。楓の体を無視して。楓の心を無視して。楓の意志が剣を振るった。
迫りくる伏倉の一刀を楓の一刀が弾いた。ここにきて、まだ反撃を行える楓に伏倉は目を大きく開いて驚いた。伏倉の驚愕をよそに、楓の刀は動く。心と体の縛りを捨て去った一刀は、どこまでも柔軟に、迅速に、閃いた。
伏倉の一刀を弾いた楓の刀は、すぐさま八双に取り直して斬りかけた。伏倉はそれを予想していたように後ろへ跳んで回避する。楓の一刀は執拗であった。八双からの斬り下ろしは回避されるや否やすぐに変化して、手元に引き込まれ突き技へと移行した。
「ッ!」
伏倉の顔が歪んだ。回避した直後に迫りくる喉を狙った必殺の刺突技。常人であれば何も出来ずに突き殺されていたことだろう。
だが、伏倉は常人ではなかった。彼女はあろうことか、刀を正中線に立ててそのまま押し進んできたのだ。楓の刺突に真っ向から挑む形で、楓の刀と伏倉の刀の鎬と鎬が触れ合った。伏倉の刀は、そのまま楓の刀を斬り弾いていく。
弾かれた楓の刀は切っ先を逸らし、伏倉の喉を掠めるだけに留まった。伏倉はそのまま押し進んでくる。このまま楓の喉を斬るつもりだ。
伏倉の刀が楓を捉えようとしたその瞬間、伏倉の視界から、楓の姿が忽然と消えさり、彼女はまた驚愕し息をのんだ。
楓は、刺突が弾かれた瞬間に素早く半転していたのだ。まるで風に吹かれて舞い泳ぐ落ち葉のように、するりと伏倉の背面を取っていた。
進退、ここに窮まった。
楓の刀が斬り下ろされる。背面をとられた伏倉は、まるで自ら捧げるように顔を背後にやって首を向けた。
楓と伏倉の視線が、絡み合った。伏倉はただ飄然と、微笑んでいた。刀の切っ先が喉をとらえる瞬間、伏倉は口を開いた。
「お見事」
まるで、師が己を超えた弟子を称えるかのように、優しい声色でそう言った。
楓の刀が伏倉の喉を捉える。刃先が喉笛を斬り、血が噴出した。伏倉はそれでも柔和な表情を崩さずに、膝から崩れ落ちた。
――何が、起こった?
倒れ伏した伏倉を見下ろしながら、楓は呆然としていた。今目の前で起こったことが信じられなかった。
ふと、何か暖かなものを感じて、楓は空を仰いだ。気がつけば夜は明けており、暁の光が楓を照らしていた。
夜明けを告げる光はどこまでも暖かく、人知を超える清らかさを持っていた。
――ああ、そうか。そうなのか。
楓は暁を見て、心の奥に湧き上がってきたものを感じ取った。それはこの光と同じく暖かな物だった。
なぜ戦うのか。伏倉との戦いの中で自らに投げかけた疑問。その答えははっきりとは分からない。だが、一つだけ分かっていることがあった。
それは楓が望んだことだったのだ。家族の死。剣の修業。今まで斬り殺してきたもの。師の真意。全てが楓の中で繋がっていく。バラバラだった心と体が紡がれていく。その迸りが楓の頬を伝っていた。
楓の背後は血に塗れていた。歩いて来た道は死に溢れていた。だがその道すらも、光が照らしている。影があるのならば光があるのも当然のことだった。
そんな当たり前のことが、今ならば分かる。
朝比奈楓は、今己の影を斬ったのだ。自身の運命に纏わりつく影を。斬ってみればそれは、影ではなかった。それは伏倉響であり、小鴉隼人であり、今まで切り殺してきた者達であり、楓自身だった。
自身の中に住まう他者と己こそが、己を縛る影であり運命だった。斬ってみればそれは、光で溢れていた。光の中に影はあったのだ。
そんな当たり前のことに、今気づいた。何のために戦うのか。その答えが、光の中に浮かんでいる。眩い光の中ではそれがはっきりと見えないが、確かにそこにあったのだ。
凄惨な戦いの中で、朝比奈楓がたどりついた剣の境地。身命も、使命感も、復讐心も、全てが紐解かれていく。その先にあるのは、純粋な己だけだった。朝比奈楓というただの少女が、そこにいた。
楓は落とした三角帽子を拾って被り、暁に照らされたまま歩き始めた。伏倉響の死を踏みしめて歩けば、そこに血の足跡ができた。それすらも、光で照らされていた。全てが平等だった。生も死も、光も影も。
もう楓に迷いはなかった。




