Noという者には能がない?
[前回の話]
性格について
[今回の話]
思考について
Noと言えない日本人。そんな話をよく聞きます。
これは調和を重んじ己の主張を抑えることで良好な人間関係を築こうとする前向きさと、妥協を以て争いのリスクを回避しようとする後ろ向きさという二つの打算によるもので、それを美徳とし、それをしない、またはできないという否定を怠惰で反社会的とするな歪んだ思想の道徳教育によるものではないかと思われます。日本は長らく儒教思想国家でしたので。つまりNoをいう者には道理を理解する能がないということになるのか。
確かに争いは回避できるでしょう。
ですがそれで得られるものは?
意に沿わぬ妥協を繰返し、犠牲という献身を己に課す。
果たして相手はそれに対し何を思うのか。
最初のうちは感謝や称賛を受けるでしょう。
ですがそれが恒常化してくれば、そうあることが当然と認識されるようになればNoということが許されなくなり、それは反社会的な悪となる。世の中は秩序で成り立っておりそれを乱すことを嫌いますから。
こうした思考の重さを軽く見る者は生前に神より与えられた運命論や役割のを語り、それを魂の重さの違いと嘯く。
または弱肉強食の摂理であり、正義は力の上に成り立ち、弱さはそのまま悪であり、その罪は怠惰であることの自業自得と嗤う。
実際は調和という良識を重視する者による適材適所思考による忍耐という妥協に黙認されているだけに過ぎないのに。
ですがしかし、争いというものは本当に悪いものなのか?
徹底した秩序こそが重要で自由な主張は許されないのか?
システム化した社会の中で意思を持たぬ歯車として働くことは義務なのか?
社会を支える柱として不動の忍耐を貫くことは義務なのか?
人間が解り合うことは必要のない感傷であり無駄なのか?
感情を持たぬシステムこそが真理なのか?
なるほど物事を円滑に進めるのならば障害は無いに越したことはない。邪魔なものは排除するのが合理的だ。
だがしかし、そこで思考はほぼ打ち止め、更なる改善は難しい。何故ならばそれを完璧と自認する故にその必要を疑問として感じることはないのだから。
相手の意見を受け止める意義については上の通りだが、自分の意見を主張することについてはどうであろうか?
まあ、これについては言うまでもなく自己主張とは大抵は自分のためのもの。故にコミュニティの中でそれをすることに後ろめたさを感じるわけであり、一歩譲った考えを持つに至るわけで。
だがしかし、相手が同じようなことを考えている可能性もあるし、上に述べたような利点もある。ならばお互いに共存できる道もあるかも知れない。
ならば自己主張をしてみる価値はあるだろう。話し合いによりお互いのそれをぶつけ合い、双方の利点と妥協点を探る、それこそが対話の正しいあり方であろう。
そもそも、自己主張を諦め否定することは相手に対話が通じないという人格否定にならないだろうか?
確かに意見が対立すれば争いに発展することもあるし、それにより発生する被害もある。しかしそれを怖れていては始まらない。
ただ、だからといって意固地を貫けというわけではなく、相手の意見の尊重も忘れてはならない。それがなければ本当に自己主張はただのわがままになってしまうのだから。たとえ争いになったとしてもそれだけは忘れてはならない。自分や身の回りの人間は大切ではあるがそれだけが世界の全てではないのだから。
自分がそうであるならば、きっと相手もそうである可能性はある。人間関係は鏡のようなもので、大抵善意には善意が、悪意には悪意が返るものなのだから。──といって必ずしもそうであるとは限らず例外というものもあるのだが……。
だが、やはりそこはやはり信頼で望むべきであろう。少なくとも自分がそんな目で見られるのが嫌ならば自分だけでもそうあるべきだ。善意に悪意が返ることはあっても、悪意に善意が返ってくることは希なのだから。
結局は対話とは相手への信頼である。
故にNoということを否定してはいけない。
Noとは新たな良き道を探る可能性なのだから。
考えの多様性には相手の意見だけでなく自分のそれも含まれていることを忘れてはいけない。




