2-46.国は滅び、そして興る
たかが首といえど、意外と重みがあると知ったのは、床に転がった首が想像よりも鈍重な音を立てたからだ。
ニキフォロスの顔は、まだ何が起きたか信じられないままの表情で、これまで良くしてもらったことが頭を過ると、アレッシアの胸には虚しさの風が吹く。
だが選んだのは自分で、後悔する権利はないのだと思うと無意識に下唇を噛みしめていたが、食い入るようにニキフォロスの頭部を見つめるアレッシアには、戦神ロアの声がかかる。
「じゃあミノアニア王族はそれだけだな」
そう言うと、アレッシアの返事を待たずに歩き始める。
背を向けた彼が右腕を一振りすると、彼の腕から炎が噴き出す。一瞬の熱を伴った炎は刃のように鋭くなると、次の瞬間には人間が燃え尽きる。文字通り人間が炭になって、元の形を残さず朽ちたのだ。その場にいた半数の人間が消え、形容しがたい臭いが鼻を突き抜けたが、すぐに強い風が吹き清浄な空気に変わる。
ふと顔を上げれば、ロアがどう形容したらいいのかアレッシアには説明できない笑みで、肩越しに振り返っている。
「まあ、悪いのは俺だしお前が気にする必要はないんじゃないか?」
これからミノアニア国民の半数を殺しに行くであろう戦神は、最後に唯一生き残った王子を見た。
「あのガキの頼みとは言え、この俺が見逃してやったからには簡単に死なれちゃ困る。この戦神ロアの祝福を受け取るからには、華々しく俺に奉仕するがいいさ」
ロアは指を鳴らしただけだったが、不思議な風がテミスを浮かす。テミス自身、不思議な感覚があったのか、目を見開きながら両手を見つめるが、顔を上げても既に戦神の姿はない。
まるで幻のように、一瞬で消えてしまったのだ。
代わりに空から稲妻が轟き、あらゆる場所から再び悲鳴が響き始める。
きっとこれから街では人間が殺されはじめるというのに、残された人々は力なく座り込んで、自身を見るしか余裕がない。
だからこの中で唯一動けた人間には、注目が集まる。
「……ありがとう、アレッシア」
テミスだ。
アレッシアに手を差し伸べた少年は、瞳に何かを決意したような光を湛えていた。
それはアレッシアが女神に見せられた、近い未来で王となった青年が持っていたものと同じだ。
そしてその光を見て、アレッシアは気付いた。
テミスの中には世界を憎む心と、野心がある。
どうして気付かなかったのか。どうしていまそれを理解したのか、自身でも説明できないが、それでもわかった。
奴隷や母が王族に付き添わされ、無為に殺される……その話をしたとき、暗く濁った雰囲気を感じたのだが、それが再び表に出たのを感じ取ったのだ。
だが、テミスの表面は変わらない。
恭しく、アレッシアの手を頂くように持ち上げて、彼女の手の甲を額に当てる。
「君のおかげで死なずにすんだ。本当に、君がいてくれたおかげだ」
「テミス、でも、ニキフォロスが」
「わかってる。弟のことは残念だった」
顔を上げた少年には、ニキフォロスに対する同情がある。
だがそれ以上に彼はすでに「王」として振る舞っているのだと、アレッシアにはわかった。
人々の視線が集まる中、顔を持ち上げたテミスはアレッシアを抱きしめる。
耳元に囁かれるのは、彼なりの温かい言葉だ。
「でも君のせいじゃない。君が俺を助けてくれたからこそ、俺はここにいる。ニキフォロスの命を背負うのは俺であって、君じゃないんだ」
だからアレッシアが気負う必要はないと言いたいのだろうが、アレッシアの目はまだ首を追っている。それに気付いたテミスは彼女の視線を、まるで宝物のように覆って隠した。
「本当に、いいんだよ。君のおかげで、俺達は仲良し兄弟のままで終われたんだから」
「テミ……」
「俺は王位が欲しかった。いずれ、ニキフォロスと争うのは決まってたし、だから……」
……その言葉には万感の想いが込められていたが、アレッシアに心を悟られる前に声を張り上げる。
「戦神の名を以て、これからは私がこの国を率いて行く」
アレッシアに向けられた言葉ではない。
張り詰めた声には、すでに奴隷の頃の面影はない。
王を失い、民を失い、国を失う国民達に、新たな王は告げる。
「城内で生き残った者を集めろ。再編を行い、国民を安心させるためにも演説を行う」
普通ならば。
すでに王に仕え、正当な王子を頂き、派閥争いをくぐり抜けてきた軍人や官が、誕生したばかりの、後ろ盾もなにもない少年王に従う道理はない。
しかし彼らはたったいま、人智を超えた現象を目撃したばかり。
神の怒りを買ったことで王は息絶え、王子は死に、また神によって新たな王が認められた。
反抗しては、自分たちも神の雷を打たれることになるかもしれない。
そんな恐怖が場を支配し、大勢死んだにもかかわらず、残った人々は新しい王へ頭を垂れる。
アレッシアは失われた命の重みを今更ながらに感じるために動けず。
唯一彼女に同情したように、ケルテラがテミスから彼女を受け取って、母のように抱き留める。
その身柄はルドに引き渡され、少年王の演説によって段々熱を上げる民衆から遠ざけられた。
テミスの声はよく通った。
残された人々は恐怖を畏敬にすり替えるために、選ばれた王による統治を受け入れるしかない。そのことをよく理解しているからこそ、テミスは民をあおり立てる。
「今日神の姿を目撃した諸君は、神に選ばれし人間だ」
演劇のような語り口は、まるで用意されていたかのようだ。
だが、親も、弟も死んだ彼には、不可視の神という後ろ盾しかない。
民を現実から引き剥がし、自分という熱狂の渦に落とすしかないのは、テミスが一番理解しているのだろう。
アレッシアはルドの服に顔を埋め、自らの選択を嫌でも認める。
――ミノアニアを出よう。
女神はテミスとニキフォロスのどちらかしか選ばせてくれなかったが、この試練に何の意味があったのか、アレッシアには何も理解できない。
誰も幸せになれない選択をさせた神を殴りたい気分だが、ひたすら空虚だけが押し寄せる心に到来したのは、あの無愛想な女神に会いたいという不可解な感情だった。




